葵祭

2019-05-15

令和時代に入ってからの京都。
今日は『葵祭』を探索してみました。

葵祭は、祇園祭、時代祭と並ぶ京都三大祭の
一つとして知られています。

京都御所から下鴨神社・上賀茂神社へ
新緑の都大路を、総勢500名を超える
平安絵巻さながらの優雅な行列がねり歩きます。

この葵祭は、葵祭は賀茂御祖神社と
賀茂別雷神社の例祭で、古くは賀茂祭、
または北の祭りとも称し、

京都の「祭り」と言えばあの祇園祭ではなく、
葵祭のことを指し、京都最古の祭と言われています。

賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、
江戸時代の1694年(元禄7)に祭が再興されてのち、
当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、
勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、全てを
葵の葉で飾るようになってからとされています。

これは、もともと古代より賀茂神社の神紋として
使っていた二葉葵(別名、賀茂葵)が由来です。

あの徳川家の三つ葉葵の原型とも言われ、
徳川家康の先祖である松平信光が賀茂朝臣を称していた事や、
松平信光の出身地が三河賀茂郡松平郷でもある事から、
深い関わりがあります。

実際に徳川家も葵祭を非常に重視していて、
徳川家茂は孝明天皇につき従って
共に1863年に葵祭に参列しています。

葵祭の起源は、欽明天皇の567年、
国内は風雨がはげしく五穀が実らなかったので、

当時賀茂の大神の崇敬者であった、
伊吉の若日子に占わせたところ、
賀茂の神々の祟りであるというので、

若日子は勅命を仰せ使い、
4月の吉日に祭礼を行い、
馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって
駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、
五穀は豊かに実って国民も安泰になったといいます。

そして819年(弘仁10年)には、
朝廷の律令制度として、
最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行う
という国家的行事になりました。

源氏物語にも、葵祭の斎王列を見物しようと、
光源氏の妻、葵の上と六条御息所が、
車争いを演じた場面が登場します。

それから10年以上が経ち、
光源氏と紫の上が桟敷席から
祭り見物する場面があります。

ちなみに、紫の上は幼い頃、
光源氏が勅使の役目を終えて
休暇を迎えた際に、牛車の中で
祭りを一緒に見物していました。

葵祭の〝あおい〟とは、
「路頭の儀」(行列)の御所車、
勅使、供奉者の衣冠などに飾られた
緑の葉のことです。

これは「葵桂(〝あおいかつら〟または〝きっけい〟)」
といって、桂の小枝に、下鴨神社と上賀茂神社の
神紋である二葉葵の葉を絡ませたものです。

葵祭は、もともとは「賀茂祭」と呼ばれていましたが、
江戸時代に祭が再興されてから葵の葉を飾るようになり、
「葵祭」と呼ばれるようになりました。

祭で使われる葵は毎年下鴨神社と上賀茂神社の
両神社から京都御所に納められています。

祭の見どころは、天皇の使者である勅使が
下鴨、上賀茂の両神社に参向する道中の「路頭の儀」です。

近衛使(勅使代)をはじめ、検非違使、内蔵使、
山城使、牛車、風流傘、斎王代など、

いにしえの姿をそのままに、馬36頭、牛4頭、
500余名の行列が京都御所建礼門前より出発し、
王朝絵巻さながらに行われます。

葵祭のヒロイン・斎王代は、
五衣裳唐衣(いつつぎぬものからぎぬ)をまとい、
腰輿(およよ)という輿に乗って登場する斎王代は、
葵祭のヒロインです。

平安時代には内親王が「斎王」として
祭に奉仕していましたが、鎌倉時代に
途絶えてしまいました。

しかし昭和31(1956)年、葵祭を盛り上げようと
市民から斎王代が選ばれ、女人列が復活しました。

行列のなかで、ひときわ目を引く乗り物が
「御所車」と呼ばれている牛車です。

薄紫色の藤の花の装飾を揺らしながら、
車輪を回してゆっくり進みます。

令和時代に入ってからの
京都御所、下鴨神社、上賀茂神社。

今後の日本の動きの影が
この葵祭から感じられる、
そんな予感がしてなりませんでした。