陰陽師・安倍晴明神社

2019-05-16

京都は様々な日本の歴史を感じさせてくれる場所です。
今日は、陰陽師 安倍晴明の神社をご紹介したいと思います。

『晴明神社』は、平安時代中期の天文学者である
安倍晴明公をお祀する神社です。

寛弘4(1007)年、安倍晴明の偉業を讃えた
一条天皇の命により、そのみたまを鎮めるために、
晴明公の屋敷跡である、現在の場所(京都市上京区)に
社殿が設けられました。

古い資料によれば、創建当時の晴明神社は、
東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通
という広大なものであったとされています。

ところが、応仁の乱の後、豊臣秀吉による都の造営や
度重なる戦火によって、その規模は縮小されました。
そして、古書、宝物なども散逸し、
社殿も荒れたままの時代が続きました。

その後、式年祭の度に、
氏子が中心となって整備・改修が行われ、
昭和25(1950)年には、多年の宿望であった
堀川通に面する境内地が拡張されるなど、

安倍晴明の御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の
真心によって復興が進められました。

近年は、文芸、漫画、映画などを通じて
安倍晴明の存在は広く知られ、
全国にその崇敬者を集めるようになりました。

平成15(2003)年には、
御鎮座壱千年祭が斎行されました。

安倍晴明(920-1005)は、
孝元帝(こうげんてい)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の
御後胤で、幼い頃から非常に多くの道に秀でていました。

特に、天文暦学の道を深く極め、式神を思いのままに操る
霊術も身に付けていました。
成人後は、天文陰陽博士として活躍。

天体を移り行く星や雲の動きを観察し、
宮殿の異変や遠方での吉凶を言い当て、
朝廷を始め多くの人々の信望を寄せたと伝えられています。

安倍晴明は、朱雀帝、村上、冷泉、円融、花山、一条、
これら6代の天皇の側近として仕え、
数々の功績をたてられます。

村上帝に仕えていた際には、唐へ渡り、
はるか城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継がれ、
帰国後、これを元に日本独特の陰陽道を確立されました。

今日、私たちの日常生活の基準となる年中行事や
暦術、占法は皆、この時に創られたものです。

そして、一条帝に仕えていた
寛弘2(1005)年9月26日、85歳で亡くなります。

晴明御霊神として祀られた後も、我が国の
陰陽道の祖として広く尊敬を集めています。

「安倍晴明に祈れば、不思議な霊の利益を受けることができ、
さまざまな災いから身を守り、病気や怪我が治る……」

そうした評判が、今も多くの人々に語り継がれています。

晴明神社は、「魔除け」「厄除け」の神社です。

御祭神である安倍晴明は、ご生前より、天皇から貴族、庶民に至るまで、
広くその悩みや苦しみを取り払うことで、大きな信頼を得ていました。
その信頼は、神様となって祀られた現在も変わることはありません。

そもそも、「魔」や「厄」というものは、好むと好まざるに拘らず、
誰しもが抱え込んでしまうものですから、折りに触れ、
その厄を取り除くことが肝要です。

私たちの日々の生活には、なかなか解決できない問題もありますが、
神前で静かに手を合わせ、その心を正直に安倍晴明に伝えれば、
きっと、その絡まった糸がほぐされることでしょう。

安倍晴明公とも縁深い一条戻橋は、平成7年に架け替えられ、
現在も晴明神社から南へ100メートルのところにある堀川に
架かっています。

現在でも「戻る」を嫌って嫁入りや葬式の列は、
この橋を渡らないのが習わしとなっています。

先代の橋で使われていた欄干の親柱を境内に移し、
昔の風情をそのままに「一條戻橋」を境内に再現しています。

参道脇に凛と建つ「日月柱(にちげつちゅう)」。
この柱上にある日月石像は、篤志家によるご奉納で、
南に「日」、北に「月」を配し、まさに 陰陽を表しています。

また石柱は、かつて四神門の門柱として使われていたもので、
「明治37年9月晴明公九百年祭紀念」と刻まれています。

四神門(しじんもん)は、当神社の塀重門です。
安倍晴明がお住まいだった当時、朝廷の使いなどが訪れると、
この門がひとりでに開き、門から出るとまたひとりでに閉まったそうです。
現在でも、それに因んで、電動で開閉します。

石柱の上には、
四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)
が掲げられています。

約1000年もの間、時の権力者を影で支え活動してきたという
陰陽師(おんみょうじ)とは一体どういうものなのか。

現在も活動すると言われる「陰陽師」の知られざる
正体がますます気になるところです。

「結界」は日常生活にも存在しているということも踏まえ、
その辺りのことは、今後、八田さんのコンテンツで
詳しく教えてもらうことにしましょう。