3-2.ナチスドイツと日本の関係:応神天皇は渡来人!?

ある考古学者は、日本列島に侵入してきたのは崇神天皇ではなく応神天皇であり、応神天皇こそが本当の意味での初代天皇だといいます。

ここで「温祚(おんそ)」と「沸流(ふりゅう)」の伝説に着目してみましょう。

百済の神話によると、高句麗の英雄「高朱蒙(こうしゅもう)」には、二人の息子「沸流」と「温祚」がいました。
兄の沸流は海辺へ、弟の温祚は山の方に国を作ることにしました。

 

温詐の国は順調に発展し、やがて百済となりましたが、一方の沸流の国は次第に衰滅し、これを恥じて自ら命を絶ったといいます。

ただ、彼の国は滅んだことになっていますが、実際は南部に移動し、伽耶諸国に城を構えたというのです。

つまり、沸流は、夫余系騎馬民族の辰王なのです。
また、温祚の姓が「解氏(へし)」で、沸流の姓が「真氏(まし)」だったことから、天皇の姓について推理すると、天皇には姓がなく代わりに「真人(まひと)」という呼び名があり、真人とは中国の道教思想にもとづく名前で「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」の初めには「真人は是、皇別の上氏なり」と記されています。

新撰姓氏録

 

これを天皇の姓は「真氏」であると解釈することができます。

実際に「真氏」の筆頭は「息長真人(おきながまひと)」 で、すなわち応神天皇のことです。
つまり、応神天皇こそが朝鮮半鳥から日本に渡来した辰王「沸流」なのではないでしょうか。

歴代の天皇の中で、初代「神武天皇」、第10代「崇神天皇」、第15代「応神天皇」だけが諡号に「神」という文字を含んでいるのには何か理由があるはずです。

神武天皇が神話的存在ならば、神々のように変幻自在に姿を変えることが可能ですし、実在しない人間なら複数の人格に分けることも可能です。
神武天皇と崇神天皇は、ともに「ハツクニシラススメラミコト」という諡号を共有し、神武天皇と応神天皇は、その業績と行動ルートが完全に重なることから、3人は同一人物と考えられます。

元伊勢として知られる「籠神社」の極秘伝によれば、応神天皇は朝鮮半島からやってきた渡来人といいますから騎馬民族の大王である辰王「沸流」だと考えられます。

先住民の王家に入り婿することによって、大和朝廷を開いたと考えれば、日本人の中にYAP(-)因子を持ち込んだのは、応神天皇が率いてきた騎馬民族集団だった可能性が大きいです。

現在、朝鮮半島では、YAP(-)因子を持つ人が見つかっていませんが、もしかすると日本に渡来してきた騎馬民族は純粋な夫余族ではなかった可能性があります。
とすれば、応神天皇の騎馬軍団は何者なのか?

古代日本の象徴の一つに古墳がありますが、最も注目されてきたのが「前方後円墳」です。
前方後円墳は、その形状から「ひさご塚=ヒョウタン古墳」 と呼ばれてきました。

ひさご塚=ヒョウタン古墳

 

日本には「瓢箪(ひょうたん)から駒が出る」という諺(ことわざ)があります。
これは「意外なところから意外なものが現れる」という意味ですが、まさにそれと同じで、ヒョウタン古墳…すなわち、前方後円墳から騎馬文化の物が発掘されています。

前に紹介した、巨大な応神天皇陵は強大な権力を持った王権の象徴です。
ということは、前方後円墳は騎馬民族の象徴でもあるのです。
実際に前方後円墳は、朝鮮半島でも次々と発見されています。

朝鮮半島の前方後円墳の分布図(朝鮮半島の南部に集中)

 

また、北朝鮮でも前方後円墳が何基も発見されています。
北朝鮮の前方後円墳は、完全な積石塚になっていて、これは全体が葺き石で覆われている日本の前方後円墳のルーツともいうべき形態で、典型的な騎馬民族の墳墓です。

北朝鮮の積み石塚の古墳

 

積石塚は東北アジアから北アジアー帯に広がり、さらには北欧でも発見されています。

それにしても、この独特な形状は何を息味しているのか?

多くの人は、方墳と円墳を合体させたものと思ってるでしょうが、そうではありません。
方墳が正方形や長方形なのに対して、前方後円墳の前方部は長方形というよりは台形です。
最も古いとされる、奈良県の桜井市にある箸墓(はしはか) 古墳の場合、ラッパ状になってます。

 

ここで注目ずべきが騎馬民族の大王、応神天皇の陵墓です。
その息子である第16代「仁徳天皇陵」も同様で、丸と四角の他に別の形が付随しています。

(左)仁徳天皇陵 (右)最初はこんな感じだったのではないかという予想図

 

これに関しては、別で既に説明済みですが、再度ご覧頂きたいと思います。
上記の写真と図を見て頂くと分りますが、ちょうど前方部と後円部の境あたりに長方形をした耳のような部位があります。
これを「造出し」といいます。

通常は前方後円墳の絵や写真は、構図的に後円部を上にして、前方部を下にしますが、上下をひっくり返すと見えてくるものがあります。
そうです!これはどう見ても「壷」です。しかも取っ手のついた壺です。

 

前方後円墳は壺をモデルに造られているのです。
つまり騎馬民族は、「壺」を王権のシンボルとして考えていたことが伺えます。

前万後円墳を「ヒョウタン古墳」といわれるように、日本最古の神社に「ヒョウタン神社」といわれるところがあります。
それが元伊勢「籠神社」です。

籠神杜の別名は「瓠宮」といいますが、「籠」を「コ」と読むように「瓠」も「コ」と読みます。
さらには、「壺」も「コ」と読みます。この共通点は偶然ではないと思います。

かつて、籠神社には黄金の壺が社宝として伝わっていて、それが「真名之壺(まなのつぼ)」です。
この壷は、高天原に存在する聖なる水を汲む器でしたが、あるとき神隠しに遭って、現在は籠神社にはないといいます。
(伊勢神宮の外宮に祀られているのが真名之壺だという噂もあります)

恐らく、この真名之壺こそ応神天皇が日本列島に持ってきた神器に間違いないでしょう。

ところで、この「真名之壺」と同じ名前(マナの壺)の壺を神器としている民族が他にもいます。

それがイスラエル人です。
そう、今日ユダヤ人と呼ばれている人々です。

日本人とユダヤ人は一見、何も関係なさそうですが、双方の文化を比較してみるとなぜか沢山の共通点が存在します。

日本文化の象徴は神道で、神道は日本固有の宗教です。
神道を信じるのが日本人だとすると、ユダヤ教を信じるのがユダヤ人です。

神道は霊的な要素が強い「多神教」で、ユダヤ教は人格神を崇拝する「唯一絶対神教」です。
両極端のように思えますが、「陽極まれば陰となり、陰極まれぱ陽となる」といわれるように、多神教を推し進めていくと、やがては全てのものが神であるという汎神論となり、その本質は同一であると考えられ、ついには唯一神教に至るのです。

因みに「多神教」とは、多くの神々を祀って崇める宗教で、森羅万象の中にも神の存在を見い出し、例えば、山や湖、大木、巨石などの自然界のものや蛇や狐などの動物をも神として崇めたりします。

一方、「唯一絶対神教」とは、「一神教」のことで、これはただ一つの神の存在だけを認めて、これを信仰する宗教で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が
その典型とされています。

実際、奈良時代以前の神道はユダヤ教と同じで、唯一絶対神を崇拝する一神教でした。
また神道は仏教などとは違って基本的に偶像がありません。

神社の本殿にあるのは、鏡や「幣帛(へいはく:神に奉献する供物)」などであって、人の形をした御神体はありません。
神像は仏教の影響で作られたもので、古代において神道の御神体は、先ほども述べたように、山や大木、巨石などでした。

これらは御神体とはいっても、神そのものではありません。
神が降臨する聖地だったのです。

これはユダヤ教でいうところの絶対神ヤハウエが降臨したシナイ山を聖地とし、臨在した岩(巨石)をもって祭壇を作り、そして聖なる樹木を「生命の樹」として聖別することと同じです。
神殿の構造も似ていて、神社の拝殿と本殿が分かれているように、ユダヤ教の神殿は聖所と至聖所に分かれていたり様々な共通点があります。

他にも神社の祭では、御霊を入れた神輿(みこし)を担ぎますが、ユダヤ教では「契約の箱(聖櫃:アーク)」で対応します。
その契約の箱アークには、本来、イスラエルの三種の神器が入っていました。
「モーセの十戒石板」と「アロンの杖」と「マナの壺」です。

「マナの壺」は、籠神社にあった「真名之壺」と名前が同じで、しかも両者は陶器製ではなく、ともに黄金製です。

現在、イスラエルの三種の神器は契約の箱アークもろとも行方不明ですが、日本に持ち込まれ、密かに祀られている可能性が高いのです。
実際に日本でも三種の神器が存在し、それは神道の最高祭司である天皇がもつ王権のシンボルです。

 

 

この3つは、それぞれ「八咫鏡」と「草薙剣」と「八尺瓊勾玉」です。
なかでも、神道の最高神「天照大神」の御神体ともいわれる八咫鏡は「御船代」と呼ばれる聖なる櫃(箱)に入れられて、伊勢神宮の内宮に祀られています。

実は、この契約の箱「アーク」とは、船を意昧する言葉です。

他にも禊(みそぎ)と洗礼バプテスマ、塩による聖別、柱を神の象徴とする思想、新年に食ベる餅と、過ぎ越しの祭りの種なしパン、神道及びそれに関連する風俗、風習、習慣がユダヤ人とそっくりなのです。
なので江戸時代から日本人とユダヤ人は同じ祖先をもつのではないかと「日ユ同祖論」が主張され続けてきたわけです。

そして今日では、これまで隠されてきた神社の秘法や奥義などが、徐々に明らかにされ、古代日本にイスラエル人が渡来してきたことは間違いないという状況になってきているのです。

 

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