3-4.ナチスドイツと日本の関係:失われたイスラエルの 10 支族

紀元前13世紀ごろ、預言者である「モーセ」に率いられたエジプトを脱出したイスラエル12支族は、現在のパレスチナ地方へとやってきました。
彼らは支族に従って、それぞれの領地を定めますが、その後、他国との関係から族長制を国王制にします。

このとき、「サウル」を大王とし、古代イスラエル王国を建国します。
紀元前11世紀頃、サウルは横暴な性格から王の座を追われ、代わって即位したのが「ダビデ」です。
英雄として知られるダビデは、ユダヤ人にとって理想的な大王でありメシアでした。

ダビデが亡くなり、その跡を継いだのが「ソロモン」です。
ソロモンは巨大な神殿を建設し、古代イスラエル王国の勢力は最大となり、周辺諸国との交流もさかんに行われ、まさにソロモンの時代は絶頂期でした。

ところが、ソロモンの晩年は決して良いとは言えませんでした。
偶像崇拝など、ユダヤ教の掟を破ることも度々、重税や苦役も民衆にとつて大きな負担となっていたのです。

彼らの不満はソロモンの息子「レハベアム」が即位したときに一気に噴出。

左からサウル、ダビデ、ソロモン

 

エフライム族の「ヤロプアム」が民衆を扇動して反乱を起こしてしまうのです。
反乱はイスラエル全土に及び、ついに紀元前925年、古代イスラエル王国は、南北に分裂してしまいます。

首都であり聖地のエルサレムを確保したのは、レハベアムー派でした。
彼の所属するユダ族とベニヤミン族、それに祭祀レピ人の一部から成る「南朝ユダ王国」の建国を宣言します。

 

これに対して、残るイスラエル10支族とレビ人の一部は「北朝イスラエル王国」を樹立。
両国の対立はしばらく続くこととなりました。

最初に堕落したのは北朝イスラエル王国でした。
紀元前722年、メソポタミア地方に勢力を拡大してきた「アッシリア帝国」がパレスチナ地方にも侵出し、圧倒的な軍事力で北朝イスラエル王国を瞬く間に征服し、民衆を東のユーフラテス河沿いに捕囚してしまったのです。

アッシリア帝国の攻撃には耐えてきた南朝ユダ王国でしたが、紀元前586年、新たに台頭してきた「新バビロニア王国」によって滅亡することとなります。

国王以下、民衆は東のバビロンに連行されてしまったのです。

バビロン捕囚

 

これが所謂「バビロン捕囚」です。

その後40年以上たった紀元前539年、新バビロニア王国が滅ぶと、南朝ユダ王国の人間は再びパレスチナ地方に戻ってきます。

当時は既にアッシリア帝国もなく、故郷には南朝ユダ王国の人間と同じく、北朝イスラエル王国の人間も戻ってきているはずでした。
しかし、イスラエル10支族の姿は、そこにはありませんでした。

彼らはアッシリア帝国が滅亡した後も、パレスチナ地方に戻らず、そのままユーフラテス河付近に住んでいたのです。
同じイスラエル人でしたが、王国の分裂後、南朝と北朝の人間の間に積極的な交流はなく、「旧約聖書」には当時のイスラエル10支族に関する記述が殆んどありません。
そればかりか、時代が新しくなると全く記されなくなるのです。

そしていつの間にか、イスラエル10支族の姿がなくなってしまうのです。
ユーフラテス河沿いに集団で住んでいたはずなのに、なぜか、どこかへと消えてしまったのです。

これが世界最大の謎ともいわれる「失われたイスラエル10支族」です。
彼らは、いったいどこへ消えたのでしょうか?

このことは、「旧約聖書」も「新約聖書」も具体的な所在地が記されれいません。
ただ紀元1世紀のユダヤ人歴史学者「フラウィウス・ヨセ フス」の記録には、「10 支族は今でもユーフラテス川の彼方におり、膨大な民衆となっている」(古代ユダヤ誌-第11巻5章)と書かれています。

赤い印がついているあたりがユーフラテス川

 

(左)歴史学者フラウィウス・ヨセフス (右)ユーフラテス川の航空写真

 

状況から見て、失われたイスラエル10支族はユーフラテス川周辺から東、または北ヘ向かったらしく、彼らは新しい別世界を求めて、遠くへ旅立ったようなのです。
その理由として、そこには失われたイスラエル10支族を誘うかのように、シルクロードが延びていたからです。

彼らの行方を知る手掛かりとなるのがもう一つあります。
それは、古代の北アジアを駆け巡った騎馬民族「スキタイ」です。

北朝イスラエル王国を征服したアッシリア帝国は、スキタイの凄まじい攻撃を受けていて、紀元前621年、新バビロニア王国とメディア王国によって滅亡します。
新バビロニア王国とメディア王国の歴史が、ともにイスラエル10支族についてほとんど語っていないことから、鍵を握っているのはスキタイと考えて間違いありません。

失われたイスラエル10支族は、スキタイと接触して合流した可能性があります。
というのは、イスラエル人は遊牧民族でスキタイと共通する文化をもっていたからです。
つまり、アッシリア帝国が滅亡したとき、イスラエルはスキタイと行動を共にした可能性があるのです。

実は騎馬民族というのは、あまり民族性にこだわらないところがあります。
例えば、他民族を征服しても、服従を誓えば殺戮したり苦役を課すことはありません。

逆に有能な人材を積極的に登用し、実務的な政治を任せる傾向にあるのです。
失われたイスラエル10支族にとって、スキタイの社会は居心地が良かったのかもしれません。

イスラエル人は異民族の中にあっても才能をよく発揮しますから、スキタイにおいても、失われたイスラエル10支族は勢力を拡大し、一派を築くまで成長したのかしれません。

北アジアー帯に勢力を誇ったスキタイは、やがてサルマタイ (イラン系遊牧民集団)や「匈奴(きょうど:中央ユーラシアに存在した遊牧民族または国家)」など多くの騎馬民族を生み出し、その中に東北アジアから朝鮮半島にやってきた夫余族もいて、やがて夫余族の一派が日本列島に侵入し、大和朝廷を開いたと考えられるのです。

そこにガド族を筆頭とする、失われたイスラエル10支族がいたのかも知れません。

日本で最初の帝(ミカド)となった応神天皇は、朝鮮半島においては沸流(ふりゅう)という名前でしたし、その先祖に同じ「フル」という名をもつ「解夫婁(かいふる)」という王がいました。
この「解夫婁」を古代朝鮮語で読むと「ヘブル」になります。
「ヘブル」とは、イスラエルの別称「ヘブル(ヘブライ)」のことだとすれば、すべての辻褄があってくるのです。

 

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