(11)自己称をやめる

また「名」について触れていきます。

この「名」を掘り下げないと、得られるものは上辺だけの「名」でしかないからです。

それは架空のもの…つまり「仮」であるからです。

かつて、大森荘蔵という哲学者がいました。

彼は「流れとよどみ」というエッセイ集の中にこんなフレーズを残しています。

昔、オックスフォード大学に一人の中国人留学生がやってきた。一人の教授が彼を引きまわして大学中を案内してやったが、それが終わって留学生が言ったことは、ご親切に色々なカレッジや図書館や寮を見せていただいたが、オックスフォード大学は一体どこにあるのです?

もう一つ紹介します。

自分はナーガセーナと呼ばれているが、あるのはナーガセーナという名前だけであって、その名で呼ばれるべき自分の実体はない。それはミリンダ王が乗ってきた車と呼ばれるものの実体がないのと同じである。

この2つのフレーズが意味するものは何か?

「名」は、明らかに実体そのものではありません。

「名」は実体を表現しようとして、できるだけ実体に近づこうとして付けられたものです。

つまり、「名」は「仮」であって本物ではありません。

オックスフォード大学には、キャンパスもあれば講堂や食堂、宿舎があり、あらゆる設備があります。

それに、生徒もいれば教授もいます。

大学全体で数万人いて、どんどん変化しています。

途中で辞めていく人もいれば、教授も入れ代わり立ち代わりです。

これはオックスフォード大学の一部を示すものであり、全てを表しているわけではありません。

これと同じで、2つ目のフレーズは、ナーガセーナという高名なお坊さんは、あるのは「名」だけであって「実体」はないと言っているの です。

これが名の本質を現した大森荘蔵氏のエッセイの一部分です。

日本の古い辞書には「名」についての注釈は…うわべ。形式、表面上の名目。

「名」は「實」の賓(ヒン)- 賓とは主たるものに副(ソ)うもの。賓とは賓客。

とあります。

賓自体ではなく「名」は主たるものに副うもので、「名」というのはあくまでも實能(実体)そのものではないのです。

実体を現そうとしている主たるものに副っている、仮の状態が「名」というわけです。

宇宙の森羅万象、全てが名によって構成されているこの世界は、仮の世界であり名の世界なのです。

だから名の世界は、やがて「實(まこと)の世界」…つまり、次のステージにいく可能性があるというのは、この「名の世界」の自我のエネルギーが究極のところに行った時に、この宇宙を創った創造主の一片として埋め込まれるのではないでしょうか。

本精、人精も自我の形成と共に裏で大きく形成されてきて、やがて融合した時にはじめて「人」という名に値する状態になるのです。

自己称について

「一人称」として用いられている「私」「俺」「我」「吾」 「僕」「自分」などがありますが、これは「人称代名詞」 または「一人称」として教えられてきたはずです。

日本の古い字典や辞書には、これは自己の称(自己代名詞)と記されてます。

しかし、自己が主張する時の主語が、人であるはずがないのです。

地球人類は80億人です。

この80億分の1の自己が主張する時に使う主語…これが「自己称」だと辞書には載ってますが、どこかで間違ってしまったのです。

人称代名詞として間違って訳されてしまったのです。

要するに「人」とは、80億の総称なので人称というのは、80億の代名詞でなければいけないのに、80億分の1の自己(自我)が主張する時に使うこの言葉…これが間違って理解されてしまったということが、「人間」という存在が分からなくなってしまった大きな理由の一つです。

そしてこれは、大漢和の中に出ている言葉の注釈です。

いね。わたくし。自分。自己。自分の事物。個人。公の対。 かたおち。かたておち。不公平。偏頗。よこしま。邪曲。 自分の欲望。我欲。独りで居る事。かくしごと。秘密。わたくしする。自分のものにする。自分の利をはかる。かたよる。不公平をする。よこしまをする。ひそかに。ひとりで。心の中で。こっそり。 かくれて。ゆばり。ゆばりする。 小便。溺。姦通。男女のかくし所。

禾(のぎへん)にム…つまり「私」。

これが自己代名詞の親玉みたいなもので、この言葉は、実は本来の意味は決して綺麗な言葉ではないのです。

この言葉を使うということは、お互いに小便をかけ合う…つまり肥やしをかけあって、自我形成をするのに役立ちます。

小さい子(3〜4歳位)は、「太郎ちゃん、花子と遊ぼうよ」といった感じで自己代名詞をあまり使いません。

ところが5〜6歳になると、「太郎ちゃん私と遊ぼうよ」というふうに自己代名詞を使うようになります。

すると一気に自我形成が進みます。

なのである意味、この言葉は自我形成が進む上では必要とも言えます。

しかし、自我形成が十分できた人たちがこれをずっと使っていると一体どうなるか?

この言葉の第一義は「いね」です。

そう米を作る「稲」です。

稲は田植えをして、真夏の間、青々と茂って光合成でデンプン質を沢山蓄えます。

そして秋になると、そのデンプン質を稲穂の先の米にエネルギー転換していきます。

ここが大事なところで、時として稲が稲のままで終わり、その先の米ができない場合があります。

なので、自我形成を進めるためにこの自己称を使い続けると、稲の状態で終わってしまうのです。

青々とした状態で終わってしまい、米にエネルギーが移転しないという現象が起こるのです。

なので、あるポイントでこの自己称を使わないでいられる状況に、どこかでなれるはずです。

これは習慣で使っているだけなので使わなくても済みます。

この言葉を使わなくても、ビジネスも家庭も友達も何も支障はありません。

この言葉を使わないことによって、自己 (自我)のエリア、企業・団体(宗教も入る)のエリア、 国・民族のエリア…それぞれの3つのエリアからの卒業に近づくことが可能になるのです。

 

この情報を一番最初に発信された先生(ここでは「S氏」にしておきます)の話です。

S氏が50歳くらいの時、24歳からずっと仕事をやり続けている中で、仕事をいくらやっても、良い時も悪い時もエンドレスで、非常に精神的によくない状態の中で、どうすればもっと安らげるのか?と考える時期があったそうです。

そして50歳を過ぎてから少しゆとりが出来た頃、哲学者などの色々な方たちと会い、議論をして今日の答えに近づいたそうです。

自己称を使わないことを18年やってみると、2〜3年経てば虚しいという感情や寂しいという感情、それに不安という感情がなくなったそうです。

この自己称はいくつかありますが、自己が主張する時に使う言葉、これを使わないだけでご利益があるそうです。

英語でも人称代名詞を使いすぎる人のことを「自己中心的な人」「エゴの塊」と言うそうです。

 

英語では、大文字の「I(アイ)」が自己代名詞で、一人称はこれしかありません。

英語では、コミュニケーションをとる時、相手が偉い人でも、年上でも、年下でも、自分は「I(アイ)」と呼ぶことができます。

どんな状況においても、自分が「I(アイ)」でいられるのです。

本来「自分」というものは、他の人と代わりようのない存在なので、自分を表す一人称代名詞は1つで良いのです。

ところが日本語では、一人称代名詞が複数あり「私」、「俺」、「僕」、「自分」、「あたし」、「あたくし」、「わし」、「うち」などがあります。

今はあまり使わないかも知れませんが、「小生」、「おいら」、「わて」、「おいどん」など…他も沢山あります。

日本人はその場の状況や相手との関係性によって、一人称代名詞を使い分けているのです。

なので日本人で1つの一人称代名詞しか使わない人は殆どいないはずです。

自分の呼び方が、その場の環境や相手との関係性で変わっても別に良いのでは?と思う人もいると思います。

これは「良い」悪い」の問題ではありません。

こうした言葉一つで、その言葉を使う人の性格に影響を与えるということを言っているのです。

一人称代名詞は自分を表現する言葉ですが、その場の状況によって言葉を変えているということは、自分という存在が変化しているということです。

なぜなら「自己」というものは、自己の内部にではなくて外部にあるからです。

日本語の「自己」とは、自分が他から独立した存在ではなく、相手やその場の環境など…外部の存在から投影される傾向にあるのです。

それが日本の社会環境に適応するための「自己」の在り方なのです。

 

そして、この自己称を正すだけで、3つのエリアからの卒業に近づける…ということです。

自分のことを「これ」とか苗字などで呼ぶのです。(自分のことではないように)

簡単そうで意外と難しいので、まずは遊びとしてチャレンジしてみたら良いと思います。

因みに、この情報を数年前に提供したとき、若い会員さんは直すのが早かったです。

直ぐに自分のことを「苗字」に直してましたし、今でも自分のことを苗字で呼んでいます。

 

自身に一人称を使わない方が良い理由は、簡単に言ってしまうと「自己主張」をしないようにするためです。

自己主張は、自己の意見や考え、欲求などを他人に伝えることです。

但し、外国人に比べると日本人は自己主張が苦手です。

なぜなら、日本の社会では自己主張をする人は、あまり良い目では見られず、そういう人は協調性のない自分勝手な人間だと思われる傾向にあるからです。

なので、多くの日本人は言いたいことでも我慢して言わずにいることが多いです。

意見も直接言わずに、言い回しで伝えることが多いです。

これに対して、欧米人(とくに米国人)は自己主張が強い傾向にあります。

なぜなら、自己主張をしないと生きていけないからです。

その理由は、これまでの国の歴史や文化、土地の環境などによるものです。

日本人は基本的に自己主張をしない民族だから、自発的に戦争をすることもなく、ここまで長く続く国作りができたのではないかと思います。

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