(10)日本に色んな宗教が入り混じっているのはなぜか?

 

日本は、世界中で「こんなに宗教に寛容な国はない」と言われています。

なぜなら、クリスマス(キリスト教)を祝ったり、神社(神道)に初詣に行ったり、お盆(仏教)という行事を行ったり、はたまたハロウィン(ヨーロッパの発祥の祭)を祝ったり…
「日本人が信仰しているものはいったい何?」と聞かれるほど、外国人には理解できないのです。

しかし、明治時代初頭には、宗教を「神道」の一つだけにして、その他の宗教(仏教とキリスト教)を弾圧したことがありました。

それは、「大教宣布の詔(だいきょうせんぷみことのり)」が出されてからのことです。

大教宣布の詔とは、明治新政府が祭政一致の一環として展開した国民教化政策のこと

もともと神道を国家宗教にするために、「神仏習合=神仏混淆」を禁止する必要があるとしたのは、平田篤胤派の国学者の影響でした。

国学者とは、宣教使とも呼ばれ、明治以前からいた神道の研究者

神仏分離令は、本来、仏教の排斥を意図したものではありませんでしたが、これがきっかけとなり、全国各地で「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の運動が始まり、各地でお寺や仏具の破壊が行なわれました。

補足
廃仏毀釈とは、仏閣・仏像・経典を破棄し、僧尼などの出家者や寺の特権を廃止すること。「廃仏」は仏を破壊し、「毀釈」は釈迦の教えを壊すという意味。

下の画像は、廃仏毀釈によって、破壊された像。

 

政府が行った神仏分離令や、天皇を現人神として担ぎあげ、神道を国家宗教として定めた大日本帝国を「祭政一致」の国家にするための「大教宣布詔」は、あくまでも神道と仏教の分離が目的であり、本来は仏教を排斥するためではありませんでした。

ところが、国学者らが、全国を飛び回り、「神道という宗教は××××で、そのトップが天皇である」ということを民衆に伝え広めたため、仏教に反感を持った民衆らが大教宣布詔に加わり、結果的に廃仏毀釈運動が始まり、経典を焚書にしたり、仏像を破壊したりなどの破壊活動を引き起こしてしまいます。

これにより、今残っていれば国宝級でもおかしくない仏像や寺院などが次々と破壊され、歴史的にも、文化的にも価値のある多くの文物が失われました。
そしてこの時、仏教は一時的に壊滅状態となりました。

ただ、民衆を扇動した国学者らの主張は、各人バラバラで対立することが多く、この政策は上手く行きませんでした。

 

そもそも、なぜ神道を国家宗教にする必要があったのか?

簡単に言えば、明治新政府は天皇を現人神として神格化し、天皇中心の政治(祭政一致)を目指していたので、その天皇をトップとする神道を国民に信仰させたかったからです。
勿論、国民を自分たちの都合の良いようにコントロールしたいためです。

政府は神道を国家宗教とするための布石として、先述済みの「神仏分離」の政策を行ないましたが、宣教経験に乏しい神道関係者だけでは、その実行は困難で、仏教界の協力が必要だったため、結局のところ頓挫することになります。

そして、浄土真宗本願寺派の僧である「島地黙雷(しまじもくらい)」の申し出をきっかけとして、当時の祭祀と宣教を司った「神祇省(じんぎしょう)」を廃止し、替わりに「教部省」という機関を設置します。

島地黙雷

 

その後、神仏合併を行う教導職(神官・神職、僧侶などの宗教家や、落語家、歌人、俳人などが任命された)の道場として「大教院」が置かれ、神道を国家宗教にするための「神仏共同布教体制」が出来上がったのです。

大教院宣教殿及び教務所

 

神道を国家宗教にすることには、キリスト教の排斥目的もあったので、これに欧米諸国は強く反発し、信仰自由の要求が求められました。

その結果、キリスト教に対する禁教令が廃止され、大教院も閉鎖されました。

これに伴い、教部省を廃止して、内務省社寺局へと縮小し、神道の国家宗教化の政策は放棄され、その後「神道」は宗教ではないという見解が示されるようになったのです。

因みに、大教宣布の詔が出されたことにより、それまでは国民に殆ど存在感がなかった天皇が一気に日本中に知れわたります。
そう、天皇が日本で一番偉い存在だということを、国民はこのとき初めて知ったのです。そして大日本帝国憲法によって日本は天皇主権の国家となったのです。

 

 

キリスト教はその後どうなったのか?

江戸時代初頭から、キリスト教は日本を混乱におとしめる宗教だとされ、当時は信仰するだけで処刑される時代でした。

明治時代に入ると、ようやくキリスト教が認められると思いきや、江戸時代よりもさらに悪い状態になってしまいます。

当時、隠れキリシタンとして、キリスト教の信仰を密かに守り続けてきた、長崎県の浦上村の村民たちが、政府によって大量に捕らえられ、拷問を受ける事件が勃発します。これを浦上教徒事件(浦上四番崩れ)と言います。

政府は、信者たちを水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔け、親の前で子供を拷問するなどして、最終的には逆さ吊りして殺してしまいます。その冷酷さと残虐さは旧・幕府時代以上でした。

これに強く反発したのが、当時、日本が一番恐れていたイギリスやフランス等のキリスト教を国家宗教とするヨーロッパ諸国でした。

日本に対してキリスト教の信仰を認めるよう強く要求してきたヨーロッパ諸国に対し、明治新政府は要求を飲むことにしました。
日本は、彼らと締結していた不平等条約も不服としてましたが、要求を飲まないと、さらに無理難題を突きつけられるのではないかと恐れたからです。

そしてついに1875年、日本でもキリスト教を信仰することが認められたのです。

一応は神道が日本の国家宗教となり、天皇が日本のトップとして返り咲きましたが、先述したように、ヨーロッパ諸国からキリスト教を認めるよう要求が出され、日本はそれを承認したので、「日本においての宗教は神道しか認められない」ということは無くなったのです。つまり、本当の意味での祭政一致はできなかったということです。

その後、政府は神道だけでなく、キリスト教や仏教も尊重し、西洋文化もどんどん取り入れて学び、西洋諸国と肩を並べるまでに上り詰めたのです。

こうした歴史を経て、現在の日本では色んな宗教の行事が全国的に行われるようになったというわけです。

長い人間の歴史から見たら、つい最近とも言える明治時代の、しかも我が国で、こうしたことが行われていたことを多くの人は知りません。
なぜなら、政府にとって都合の悪いことはずっと隠され続けてきたからです。

 

2 件のコメント

  • du0nc3rbun@gmail.com より:

    こんな歴史があったとは驚きです!
    信仰に対して寛容なのは今現在だけであって、過去にはこんなに宗教に対して厳しい時代があったんですね。
    近年、宗教に対して寛容な時代の背景には過去の先人たちの血生臭い歴史の上に成り立っているのは分かったのですが、ここでも欧米列強の関与がありますね。(汗)

    日本の政治のトップに立つ連中というのは、今も昔も自分達では何もすることが出来ていないのが本当に情けないです。
    自分達で決めた事であっても、ロクな事になっていません。

    これはもう日本は、政治は民間でやった方が良いのではないでしょうか?
    そう思えてなりません。

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    島原の乱から400年近く経っているのに隠れキリシタンの文化が残っているのはこういう事情だったのですね。
    またいつ迫害をうけるか分からないから隠れる必要があったわけですね。

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