(12)空海の生涯

 

何の証拠もありませんが、空海(弘法大師)も秦氏の可能性があります。

なぜなら、空海を中国に送り込んだ資金は秦氏が提供しているからです。

仏教界では、空海に太刀打ちできる者は誰もいなかったとされます。

だから彼は、この日本に仏教の奥義を持って帰ってきたのです。
彼がすべてを日本に持ち帰ったので、中国にはもうその奥義は残っていません。

ここで空海…つまり弘法大師についてお話します。

空海(西暦774〜835年)は、密教を体系化して真言宗を開いた層です。

天才的な頭脳の持ち主で、中国やインドの言葉にも精通し、書の達人でもありました。
わずか60年あまりの生涯でしたが、現代にも大きな影響を与えています。

彼は一体どんな一生を過ごしたのか。

空海の元の名前は、「佐伯眞魚(さえきのまお)」で、彼は12歳の時に儒学を学び始め、15歳になると、空海の叔父であり、奈良時代後期から平安時代前期の学者「阿刀大足(あとのおおたり)」に経書や史伝を学びます。

18歳になると大学に入り、20歳になると奈良時代後期から平安時代前期にかけての三論宗の僧で、秦氏の血を引く「勤操(ごんぞう)」に従って出家し、21歳で空海と名乗ります。

22歳になると、東大寺にて、仏門を入る者に戒律を授け、24歳で出家宣言の書『三教指帰(さんごうしき)』を著します。

 

31歳になると、「入唐(にっとう=僧や留学生が中国の唐に行くこと)」の許可を天皇から得て、日本を出発します。

32歳になると、中国西安の青龍寺にて、中国唐の密教僧である「恵果(けいか)」から「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の名を受けます。

補足
遍照金剛とは、大日如来の別名であり、空海の別名でもある

33歳になると、三蔵法師にインドの言葉を学び、帰国して真言宗を立教開宗します。

42歳になると、四国八十八カ所を開き、43歳で高野山を開きます。

49歳になると、東大寺に「灌頂道場(かんじょうどうじょう)」を建立します。

補足
灌頂道場とは、天皇の安穏や病気、災難などを祓うための祈祷を行なう真言道場

50歳になると、東寺を密教の寺院とし、51歳で「少僧都(しょうそうず)」を辞退します。

補足
少僧都とは、僧正の下にあって、大僧都を助けて僧尼を統率する僧官

54歳になると、雨乞いの祈祷を行い、大僧都(だいそうず)になります。

57歳になると、真言宗の体系を述べた書『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』十巻と、この「十住心論」十巻を簡略化した仏教書『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』三巻を著します。

62歳で高野山にて死去します。

恵果の弟子となった空海に、恵果は「真言密教の教えはすべて授けた。早く日本に帰って教えを広めよ、私は必ず日本に生まれ変わってそなたの弟子となり、共に教えを広めるであろう」と遺言し、亡くなっています。

そう、恵果は「密教」の奥義を全て空海に伝授したのです。その後、恵果は亡くなってますので、もう中国にはその奥義は残ってません。すべて空海が日本に持ち帰ったから、日本にしか残ってないのです。

その奥義の一つとして、漢文訳された旧約聖書と新約聖書があったのではないかという説があるのです。

空海が恵果から伝授してもらった「密教」…つまり仏教の「裏」は、ユダヤ・キリスト教だったというわけです。

 

2 件のコメント

  • du0nc3rbun@gmail.com より:

    仏教と言えば空海、というイメージがありましたが、その生涯を知るととても精力的に活動されていたのですね。
    これから八田塾でそういった裏仏教が学べると思うと楽しみで仕方がないです。
    出来ればその仏教の奥義というのも学べると、とてもありがたいです。

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    空海はずば抜けた知能の持ち主だったんですね。
    英語すらまともに話せない自分が恥ずかしい・・・

  • コメントを残す