小欲か?大欲か?

「大欲は無欲に似たり」というコトワザがあります。

その意味は…

  • 大きな欲がある者は、小さな利益など、かえりみないから無欲のように見える
  • 欲深い人は、欲に目がくらみ、結局のところ損をするから無欲と同じ結果になる

といった感じです。

最近の子供に「お年玉で何を買う?」と尋ねると、「とくに欲しい物はないから貯金します」 と答えるそうです。

子供なのに欲しい物がない…

一見、無欲は素晴らしいことのようにも思えます。

しかし、子供がこんなことで本当に良いのでしょうか。

そうした子供に夢があるのでしょうか。

例えば、私が子供の頃は家庭環境が貧しかったこともあり、身の回りに何もない状態だったので欲しい物が沢山ありました。

オモチャ、お菓子、甘いジュースなど…欲しい物だらけでした。

なので、お正月にお年玉を貰ったら、あれも買いたい、これも買いたいと思って夢を膨らませたものです。

当時のお年玉は、一人あたりから貰える相場が大体500円〜1000円でしたので、総額で6000〜7000円くらい貰っていました。(これでも子供の頃の私にとっては大金でした)

毎年、お正月の前には「お年玉であれも買える、これも買える」…と、想像して夢を膨らませていましたが、いつも自分の望み通りに行かず、その夢は本当に夢で終わっていました。

なぜなら、お年玉の殆どは親に没収されていたからです。

なので、欲しい物をどうやって手に入れるか? その方法をよく考えていたものです。

ではどのようにして、欲しい物を手に入れてたか?

それは…

海に貝掘りに行ったり、山に山菜を採りに行き、海で獲った貝(アサリ、ハマグリ、マテ貝など)や、山で採った山菜(ワラビ、ツワ、ゼンマイなど)は、買い取ってくれる近くのお店に売りに行ってお金を作っていました。

さらに、近所の人のお手伝いなどもしながらお金を手に入れ、そこから欲しい物を買っていました。

因みに、下の画像は実際に私が貝掘りに行っていた有明海の御輿来海岸です。

左側に少しだけ見える山が山菜を採りに行っていたところです。

海と山に囲まれた土地で育ったから、そうしたことが出来たのだと思います。

因みにこの海岸は、記紀神話に登場する景行天皇が4世紀中頃、九州遠征を行った際、その美しい干潟を見入られたことから「御輿来」という名称が付いたという伝説が残っています。

写真のように、潮が引いた御輿来海岸には、凸凹(砂と水)の神秘的な干潟が現れるので、この景色をカメラに収めようと全国からカメラマンが訪れます。

 

本題から話が逸れたので元に戻します。

つまり私の場合、「欲」が思考力や行動力の元になっていました。

しかしこれは、私だけでなく皆さんもそうだと思います。

「無欲」…というと美しい響きですが、極論を言えば、人間から欲を取り除けば、肉体の維持はできなくなり、生きていけなくなります。

なのに、なぜか日本では欲を持つことにあまり良い印象を持ちません。

ところが仏教の教えは、実はその逆であり、少欲は「悪」で、大欲は「善」とされているのです。

人間誰でも「自分が幸せになりたい」と思うのは当たり前です。

これには何も問題がありませんし、むしろ自分が幸せでないと他人を幸福になんてできません。

なので自分が幸福になるのは良いことであり、人々を幸福に導くには、まずは自分が幸福であることが大前提です。

ですが、多くの人が他人と自分を比べてしまう傾向にあります。

実は、自分というものに固執するからこそ、苦しみが生まれ、必要以上に自分を苦しめてしまうのです。

もしあなたが、何かに悩んだり、怒りを覚えたりした時には、一度立ち止まって考えてみて下さい。

自分がなぜ、怒り・苦しんでいるのか?…ということを。

その感情はどこから来ているのか? その根源は何か?…ということを。

その原因を突き詰めれば、殆どの場合、「自分が・自分が」という思考になっていることが分かります。

  • 自分より他人の方が得をしている
  • 自分の心が他人によって傷つけられた
  • 自分の幸せより他人の幸せが大きく見える

…などが主な原因です。

多くの悩みは「自分」と「他人」を分けて考えているから生まれるのです。

他人ではなく自分だけが幸せになりたい…という思いが自分を苦しめてしまうのです。

しかし、次の図を見てください。

水面から顔を出したその島々は、一見、別々に見えますが、海底ではどの島々も全てが一つに繋がっています。

これと同じで私たち人間も、一見、一人ひとりが別々に見えてますが、実のところ根本は一つに繋がっているのです。

また、私たち人間は「神の分身」だと言っても良いと思います。

この辺の話をすれば長くなるのでさておき、真言密教には次のような教えがあります。

雑草は、摘み取っても摘み取っても生えてきます。

ちょっと放っておけば、最初よりも生い茂ってしまい限がありません。

この雑草と同じなのが人間の心です。

だから空海(弘法大師)は、「そこに大木を植えなさい」と言いました。

なぜなら、木は枝を伸ばしながら成長し、葉っぱを茂らせ、やがて大きくなったその木は日の光を浴びれますが、これまで下に生えてた雑草は木が大きくなるほど日が当たらなくなり、そのうち枯れていくからです。

密教では、大きな木が「大欲」で、雑草が「小欲」だと教えています。

「小欲」とは自己中心的な欲のことです。

  • ◯◯が欲しい
  • 自分だけが得をしたい

など、色々あると思います。

一方、「大欲」とは、

  • 誰かを救いたい
  • 誰かを支えたい
  • 誰かに与えたい
  • 誰かの役に立ちたい

など、自分自身の欲ではなく、他者に向けての欲のことです。

人間は「煩悩」を抱えて生きていますが、この煩悩とは、すなわち「欲望」のことです。

空海は全ての欲望を否定しているわけではなく、小欲を捨てて大欲の大切さを説いているのです。

よく考えてみてください。

小欲は、自分のことしか考えていないので、必然的に生み出す価値も小さくなります。

一方、大欲は自分のことだけでなく、周囲のことも考えているので、世の中に与える価値も大きくなります。

分かりやすくするために年収に例えて言うと…

多くの人は、大体年収1000万円を目標またはゴールにして生きます。

しかし、そこをゴールにしても小さな自分で終わってしまうということです。

大きな夢とビジョンを掲げるからこそ、それが思考力や行動力の源となり、結果的に世の中に大きな影響を与え、人々を救えるのです。

もっと簡単に分かりやすく言えば、空腹の時には、あれも食べたい、これも食べたい…と食欲が強くなります。

試しに、空腹の時にスーパーに買い物に行くと分かりますが、必要以上の物を買ってしまいます。

逆に満腹の時にスーパーに行くと、必要最小限の買い物しかしません。

これと同じで、最初に自分の欲を満たさないと、なかなか他者に向けての欲…つまり大欲は湧かないのです。

なので、皆さんには大きな野望や夢を持って頂き、まずは自分を満たして頂きたいと思っています。

 

ところで、芥川龍之介の小説に「蜘蛛の糸」という作品があります。

その内容を簡単にお伝えすると次の通りです。

釈迦はある日の朝、極楽を散歩中、蓮池を通して下にある地獄を覗き見た。

罪人たちがもがき苦しんでいる中に「カンダタ」という男を見つけた。

カンダタは、泥棒、殺人、放火を行った極悪人であったが、過去に一度だけ善行を行ったことがあった。

それは、森で蜘蛛を踏み殺しかけそうになったのを止めて、命を助けたことだった。

それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸を天からカンダタめがけて下ろした。

天から降りてきた蜘蛛の糸を見つけたカンダタは、この糸を登れば地獄から出られると考え、糸につかまり昇り始めた。

ところが途中で疲れて、ふと下を見下ろすと、他の罪人達まで蜘蛛の糸にしがみついて昇ってきている。

このままでは重みで糸が切れてしまうと思ったカンダタは、下に向かって大声で「この蜘蛛の糸は俺のものだから、お前たちは降りろ」と叫んだ。

その直後、蜘蛛の糸が切れて、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまった。

自分だけ助かろうとしたばかりに、結局のところカンダタは、また地獄へ堕ちてしまった…というお話です。

ところで、近年では「〇〇ファースト」という言葉がよく使われます。

例えば、トランプ大統領のスローガンである「アメリカ・ファースト」や小池東京都知事の「都民・ファースト」など…

これはつまり、「〇〇第一主義」という意味で、「何よりも先に◯◯を優先すべきだ」…ということです。

自分の利益だけを優先する主義は、結局のところ『蜘蛛の糸』に登場するカンダタと同じ結果を招いてしまいます。

誰もが「自分だけが幸せになれば他人を蹴落としても良い」…という考えになれば、世界に平和が訪れることはありません。

人間が生きていく上では、絶対に欲は必要です。

がしかし、その欲は個の欲である「小欲」ではなく、他者にも向けた「大欲」である必要があるということです。

前にもお伝えしたと思いますが、どんなに悪人呼ばわりされたとしても大欲を持った人たちが、この世の中を引っ張ってきましたし、今でも引っ張って行ってます。

大企業の社長は、大欲があったからその地位を築き、多くの社員を雇用して、多額の税金を払えるのです。

社員をはじめ、その家族が安定した生活ができるのは、大欲を持った社長がいるからこそです。

大欲は貧困層から見れば悪に見えるかもしれませんが、実際には誰かを支え、誰かを救い、誰かの役に立ち、誰かに与えていて、世の中に多大な貢献ができている、ということです。

なので、皆さんも小欲ではなく、大欲を持ちながら人生を歩んで頂きたいと思います。

 

子供には苦労させた方が良い

また私の幼少期に話を戻します。

私は貧困の家庭で育ったので「オモチャ」も買って貰えなかったことはさっき述べました。

とくに一人っ子の友達の家に遊びに行くと、何でも親に買い与えられていて、押し入れにはオモチャが山積みでした。(私の知る限りでは一人っ子の家庭はどこもそうでした)

なので当時の私は、一人っ子を羨ましく思っていました。

彼らが超合金の合体ロボット(当時の男児に流行ったオモチャ)を幾つも持っているのに対して、自分はオモチャを何も持っていない…と思うと、正直ミジメでした。

だから私の場合、オモチャで遊びたかったら、オモチャそのものを自作するしかありませんでした。

私は近所にダンボールを貰いに行き、そのダンボールを材料にしてロボットなどを自作し、それで遊んでいました。

超合金とダンボールで自作…↑イメージとしては、こんな感じでしょうか?(笑)

何でも好きな物を買い与えられていた子供と、色んな知恵を使って生きる必要があった子供…

大人になったらどちらが成功しそうですか? ということです。

私の場合、お小遣いが貰えないから、お金を作るために貝や山菜を採りに行って売る…といった行為が商才を磨いたのかも知れませんし、オモチャがないから自分で作る…といった行為が想像力や行動力を養ったのかも知れません。

子供の頃、与えてもらえずに苦労したことが、結果的にプラスとなり、自分の資産になっているのです。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」というように、試練の中に身を置いてきた人は、やはり成功しやすいです。

なので、今となっては「子供の頃に家が貧乏で良かったなぁ」と、つくづく思います。

富を築く力は誰にも平等に与えられています。聖書ではそう約束しているのです。

それは決して、血筋に基づいているものではありません。

古代エジプトで奴隷として400年、シナイ半島での流浪生活が40年、そして何度も世界中で迫害を受け、貧困と苦難の日々を送っていた古代ユダヤ人が、今では世界の多くの富を掴んでいるのです。

若くして苦労した人は、どんな人生でも力強く切り開き、逞しく生き抜くための力が与えられます。(このことを教えているのもユダヤ人です)

神がユダヤ人を苦しめたのは、彼らを破滅させるためではなく、彼らに幸福な人生を与えるためです。

もしあなたに小さなお子さん、または未成年の子供がいましたら、「かわいい子には旅をさせよ」というコトワザがあるように、世の中の辛さや苦しみを若いうちに経験させた方が、その子のためになりますので是非参考にしてみてください。

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