一般的に、シェマー(朝夕の祝祷)を中断することは禁じられています。
節と節との間では、敬意を表すために挨拶をすることや、挨拶を返すことが有り得ます。
節の中ほどでは、畏敬を持って対すべき相手にしか挨拶してはならないし、敬意を払うべきときにしか返礼してはなりません。
近頃では、相手が私たちの祈りの重要性を理解していれば、そのように祈りを中断することは習慣的ではありません。

シュルハーン・アルーフでは、私たちは父やラビ、偉大なトーラー学者に畏怖を抱き、また別の意味で世俗の統治者や暴力的な人間に恐怖を抱いていると説明しています。
ミシュナー・ベルア(シュルハーン・アルーフの注解書)では、私たちは学者や権力者、あるいは裕福な人を尊びたがるとしています。
このシェマーを中断しても良いという教えは、エルサレム・タルムードにおけるシェマー自体の最初のパラグラフにある言葉に由来しています。
ヴェディバータ・バム、つまり「シェマーにある言葉を話す」というフレーズが、「シェマーの中で話す」と翻訳されています。
言い換えれば、シェマーの最中に話すということです 。
最近ではこの慣習は衰退しています。
近年は敬意を払うことの意味が変わっていて、礼拝の最も重要な部分の最中に誰かに挨拶することで進行を遅らせたからといって責められることは、あまりありません。
ですが、ユダヤ法には大切な教訓があります。
私たちが天の支配を受け入れるということは、人としての普通の反応を大切にし、その余地を残すことを通して表されなければなりません。
この自然な反応が、敬意を求めたり権力者を恐れたりするような人間の弱さであるとしてもです。
他の参加者に返事をすること
バルーフやカディシュのような祈りの場合、他の参加者に対して返事をすることは節の中ほどであってもこれを可とします。
個人的な祝祷に対してアーメンを返すことは、節と節の間において可とします。
昔の権威たちは、他の参加者に返事をするためにシェマーを中断することはないと考えていました。
彼らがこう考えた根拠は、主に対して称賛を捧げているというのに、これを中断してまで称賛すべきことは無いのではないかということです。
なぜ祈りを中断することが許されるのかというと、主に対する畏怖と尊敬は少なくとも他の人間に対する畏怖と尊敬と同じくらい重要だからです。
しかしこの説明では足りません。
中断せずにシェマーを続けることもまた、主に対する畏怖と尊敬を示すからです。
あり得る答えとしては、シェマーは厳密には祈りではない、というものです。
シェマーの言葉は主に向けられたものではなく、「聞け、イスラエルよ」と私たち自身に向けたものという考えです。
私たちは主の言葉に耳を傾け、主が与え給うたトーラーの教えを実行することを意に留めているのですから、この義務を果たすためならばシェマーを中断することもある、と言えます。
もう一つ重要な点は、集団での祈りや個人的な祝祷に応えることは、主を称賛することだけでなく、他の人に対する畏怖と尊敬を示すことでもあるということです。
そのためこの法の教えは、他の人に遅滞なく挨拶することで尊敬を示すのと同じく、集団の信仰に参加することでも彼らへの尊敬を示すということになります。
ケドゥーシャに返事をすること
シェマーの中でケドゥーシャに応えるときには、最初の2つにのみ応え、最後の「主が永遠に治められますように」には応えません。
たとえケドゥーシャ(祈りの主導者が繰り返す18の祝祷のうちの3番目)に応えるためにシェマーの流れを止めるとしても、他の参加者が加わるのは、主なる神の聖性と栄光を承認する最初の2つのフレーズのみで、主の永遠の王権を承認する3番目には応えません。
最初の2つの応答が最も重要です。
なぜならケドゥーシャにおいて、私たちは自分たちを天使に擬えますが、この最初の2つはイザヤ書、エゼキエル書という預言書にある天使の歌に由来するからです 。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
「人として普通の反応」ということに深い意味があると思いました。
今まで学んできた事を含めた上で、少なくとも日本人はシラス国を求めるようになっている民族だと思います。複雑な陰謀など、すべて見通せるわけではありませんがコンパスはもう持っていると思います。
この学びを拝読して感じたイメージですが、
〇自分の中に天使が内在している ⇒ 己れの尊さ・個人の祈り
〇自分以外の他人の中にも天使が存在している ⇒ 他人の尊さ・集団の祈り
個人の祈りと集団の祈りが相互に同調し合っていく・・
という感じです。感覚的ですが。