タルムードと神道(62):食後の祈り

食事の後に手を洗うこと – マイーム・アシャロニム

パンのある食事の後には手を洗わなければならない。

タルムードでは、食事の後は手が汚れていることが多いこと、特に手が塩に覆われていた場合は目に擦り込まれると危険であるため、手を洗う必要があるとしている。

この手洗いに使った水は誰かが足を置くようなところに水たまりを作ってはならず、器にためるか、床に染み込ませるようにしなくてはならない。

タルムードではこの理由を、水の上に「汚れた魂」がただよっているからとしている。

この法には少し妙なところがあります。

「手を洗い清める」で、起床時の祈りを扱った時、「汚れた魂」が水の中にあるとしました。

これは、もともと手に付いていた汚れた魂から来ているものです。

しかしこの場合、洗う前の手に汚れた魂は付いていません。

なぜ洗う時になって突然現れるのでしょうか。

「汚れた魂」、または「精神的な汚れ」については、普通聖性が失われた状態、あるいは聖となる可能性が妨げられている状態を表します。

この説明はここでも当てはまります。

整えられた聖なる精神状態で食べられた食べ物は、神の魂の住処である身体に取り込まれることで高められます。

しかし、手に付いて残った物は聖となる可能性を失うのです。

手を洗うまでは、手に付いている食べ物は食べられる可能性がありますが、手を洗うことで食事は終わりになり、洗い流された残りは聖なるものに同化する機会が消滅します。

食事の前に手を洗う時には、物質的な恵みの元となるものが天上の魂の世界にあることを示すために、手を上げるのが正しいやり方です。

食事の後に手を洗う時には、聖なるものとは切り離された下界に属する物質性を示すために、手を低くするのが正しいやり方です。

食後に手を洗うことが必要な理由を理解するには、次のように考えることもできます。

手を洗うことには二つの相反する象徴的意味があります。

一つには、世界への敬意を示し、清浄な状態で世界と関わりたいという意志を表します。

もし、あなたと握手をする前に誰かが手を洗うとしたら、それは清浄な状態であなたと関わりたいという彼の敬意の表れなのです。

一方で、手を洗うことは世界を拒絶することを表します。

もしあなたが、商売相手と握手をして、彼がその後直ちに手を洗ったとしたら、あなたはこれを拒絶の表れと見るでしょう。

朝に手を洗うことと、食事の前に手を洗うことは、これから関わりを持つことの準備段階なのです。

この行為を通して、聖別しようとする世界への敬意を表します。

食事の後に手を洗うことは行為の後に続くものであり、行為から距離を置くことを表します。

食事という世俗的な身体の求めを満たす行為の後で、私たちは物質的な楽しみに気を取られすぎることから少し距離を置こうとするのです。

 

食卓にパンを残すこと

食後の祈りの間、いくらかのパンが食卓に残されていなければならなりません。

テーブルに残されたパンは、私たちが望む以上のものを神は与えられていることを象徴します。

これはまた、物質的な基礎は更なる祝福のためにこそ必要であることを思い出させます。

ラビ・ガンツフリードは、一瓶の油が多くの器を満たしたエリシャの奇跡を例として示しています。

同じく、エリシャが少量のパンで数百の人々に食事を与えた奇跡、ハヌカの奇跡(油は奇跡的に長く燃えた)などもこの例に当てはまります。

この象徴的意味は特に食後の祈りに当てはまります。

祝祷の概念は、すでに存在するものの成長と発展に関係するものであって、何かが新たに作り出されることに関係するものではありません。

湧き水が小さな泉からプールを作り出すようなものです。

預言者や全き人の特別な力は、すでに存在する神の力を強化するものであり、それがまだ存在していない物質的な受け皿に集められ受け取られるというものなのです。

ゾハールでは、テーブルに残されたパンをミクダーシュ(聖所)に常に供えられているパンに見立てています。

供えのパンが置かれたテーブル(シュルハーン)も同様に、ユダヤの人々に授けられた世俗の祈りに足場と目線を与えるものとして見立てられました。

シュルハーンが富の源であるという考えはタルムードに示唆されており、富を求めるものは北に向かって、即ちミクダーシュにあるシュルハーンの方向に向かって祈らなければならないと書かれています 。

 

食卓の上のナイフ

食後の祈りの前に、あらゆるナイフを取り去り、あるいは覆わなくてはならない。

食卓は祭壇に見立てられるものであり、トーラーは次のように命じているからである。

あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。

あなたがもし、のみをそれに当てるならば、それをけがすからである。

鉄は命を縮め、祭壇は命を延ばすものであるからである。

食卓もまた同じように、命を延ばし、客を招き入れるというミツバを実践し、共に飲食して神の存在を描き出すことで罪を贖うものである。

私たちが命の荒々しい面から高められる日である安息日は例外である。

もちろん、鉄製の道具一般の使用が禁止されているわけではありませんし、神殿においてさえもそれを使用しています(生贄を屠畜する際)。

食事の間にテーブルの上でナイフを使うのと同様です。

人間が持つ神の似姿の一部は、人間の創造的な能力であり、これは神の「無から有を作り出す」能力を反映しています。

この対極にあるのが破壊的な能力です。

これらはいずれも鉄に象徴されます。

私たちは鉄のおかげで石を決められた通りに切り出すことができますし、決められた通りに暴力を振るうこともできるのです。

しかし、私たちが持つ創造的な面を聖別するためには、神に服従しているという基礎、神が創造主であり、私たちはせいぜい代理人に過ぎないということを認識するという基礎の上に立たなければなりません。

この認識をせずに何かを作り出すことは、それ自体が破壊に他ならず、申命記のように「自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た」と言って異教の神に自らの才能を捧げるようなものです。

精巧に意匠が施された神殿の内で生贄を屠畜するということはありますが、神の前に生贄を高めようとするとき、神に与えられたままの姿の、切り石でない石で作った祭壇から始めなくてはなりません。

食事の間はナイフを使いますが、物質的な恵みを与えてくれたのは主なる神であることを認める祈りをするときには、その刃を隠すことが適切です。

このことは、祝祷は創造に対してのものではなく、すでに在るものを強化するためのものであるという考えに私たちを立ち戻らせてくれます。

安息日には、私たちの創造的な能力は全て休養します。

あらゆる創造的な仕事は禁じられています。

それゆえに私たちは、創造と破壊につながる能力と金属の関係を気にする必要がなく、ナイフを覆う必要はありません。

テーブルと祭壇が似ていることについては「パンをちぎること」で議論しました。

 

食後の祈り

食後に祈りを唱えることはトーラーの定めです。

トーラーは、イスラエルの地への称賛を広げた後で次のように命じています。

あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜ったことを祝福するであろう。

 

それからトーラーは警告します。

あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、…おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。

主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、…あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。

私たちは常に、全ての恵みは神からもたらされたものであることを思わなくてはなりません。

「あなたの神、主がその良い地を賜ったことを祝福するであろう」という表現は少し分かりづらいです。

食事の後に神に感謝する理由は、食べ物を与えてくださった神への感謝を表すためなので、これはよく分かります。

また、食事の後に神を称賛する理由は、神の恵みを大いに認めるからなので、これもよく分かります。

しかし、「祝福」は感謝や称賛とは関係ありません。

主がアダムとイブを祝福されて、「生めよ、ふえよ」と言われましたが、これは感謝でも称賛でもありません。

ヤコブが組み打ちの後で天使に祝福を願いましたが、彼が望んだのは感謝でも称賛でもありません。

これらのケースでは、「祝福」が成功を導くような特別な影響力を意味しているのです。

神が人をどのように祝福されるのかを理解するのは簡単です。

この考えを拡大して、メルキゼデクがアブラムを祝福したように、人が人をどのように祝福するのかを見ていきます。

しかし、人が神を祝福するということはどうすれば可能なのでしょうか。

神は、人に祝福されるべき何かを持っているでしょうか。

また、神ご自身から賜る力以外で、そのような祝福を授ける力が人にあるのでしょうか。

しかしこの節においては祝福せよと命じられているのです。

さらに、メルキゼデク自身が神を祝福しました。

そしてタルムードには、高位の聖職者であったラビ・イシマエル・ベン・エリシャが神殿の奥の聖所に入った時、主なる神が「イシマエル、我が息子よ、私を祝福しなさい」と告げたとの記述さえあります。

ミドラッシュは、神がいらっしゃらない場所があるということを示唆しているものではありません。

結局、イザヤ書にあるように「その栄光は全地に満つ」なのです。

神がいらっしゃらない場所ではなく、主なる神の支配が認識されていない場所があるという示唆なのです。

アブラハムは主を知ること、意識することを世界中に広めた先駆者でした。

アブラハムは人間の世界の中に、手で触れられるような神の居場所を作ったのです。

同じように、神を認識し、気づくことによって、結果として私たちは主なる神を「祝福」し、人の世界における主の住まいを強固なものにしているのです。

これはまさに、トーラーが命じていることです。

イスラエルの地における物質的な恵みは、神から与えられたものであり、自分の努力の結果ではないことを認めることによって、自身にとっての神の存在を高めているのです。

私たちが神の近くにある時、物質的な恵みは神の存在の延長なのですから、私たちの祝福が逆に、恵みを作り出すことになります。

 

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

タルムードと神道(34):テフィラー

タルムードと神道(35):アミダーの祈りへの追加

タルムードと神道(36):先唱者によるアミダーの復唱

タルムードと神道(37):埋め合わせの祈り

タルムードと神道(38):タファナン(懺悔の祈り)

タルムードと神道(39):週日のトーラー朗読

タルムードと神道(40):完全なトーラーの巻物を書くこと

タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ

タルムードと神道(42):会葬者のカディシュ

タルムードと神道(43):トーラーを学ぶことについての法

タルムードと神道(44):☆神道と儒教

タルムードと神道(45):トーラーの巻物を書くこと、トーラーの本を得ること

タルムードと神道(46):正しい行い

タルムードと神道(47):否定的な発言を避けること

タルムードと神道(48):天のために行動すること

タルムードと神道(49):正しく体をケアすること

タルムードと神道(50):危険な行い

タルムードと神道(51):喜捨(きしゃ)の法

タルムードと神道(52):ハッラーの法

タルムードと神道(53):肉に塩を振ること

タルムードと神道(54):食事の道具を水に浸すこと

タルムードと神道(55):非ユダヤ人が整えた食べ物

タルムードと神道(56):食事の前に食べること

タルムードと神道(57):☆儒教と神道を合体させた理由

タルムードと神道(58):パンを食べるために手を洗うこと

タルムードと神道(59):パンをちぎること

タルムードと神道(60):食事の間の振る舞い

タルムードと神道(61):食事中に祝祷を必要とする食べ物

2 件のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    自らの手でゼロから作り出せるものは何一つありません。すべて天の恵みからもたらされる物だという事を忘れてはいけませんね。

  • zipang044kwsk@au.com より:

    常に神を認識して、神に与えられていると思うことは
    「謙虚であり続ける」ことが大切だと示唆しているのかと思います。

    自分に能力がつくと、生きていることや食べることなどに
    感謝を抱くことが薄れると推察します。

    自信を持って、謙虚になることが大切ですね。

    「俺はこんな能力があるんだから美味しいものを食べて当然だ」

    人間はこのように思ってしまう不完全な生き物です。

    この教えは、道を踏み外さないような戒めであると捉えます。

  • コメントを残す