タルムードと神道(18):祝祷の掟

祝祷(しゅくとう)を唱える習慣は、私たちが神と共にあることを知覚し、それを強めるための極めて重要な役割を持ちます。
トーラーの掟の中で、もっとも重要なのは私たちが唱えるべき祝祷です。

私たちは既に、朝起きたときの祝祷、トイレに行った後の祝祷を学びました。
それに加え、食前と食後にも祝祷を唱えますし、楽しいときや悲しむべきとき、印象的な光景を見たときにも唱えます。

中世初期の偉大な哲学者ラビ・ユダ・ハレヴィが、祝祷の重要性について深遠な考察を残しています。

初期の著作であるクザーリ(Kuzari)の中で、私たちが楽しみたいという時に、楽しんでいる感情を中断し、祝祷に心を向けることは、楽しみを台無しにするのではないか、という問題について扱っています。
この問題についてのラビ・ユダ・ハレヴィの答えは、祝祷は私たちの楽しみを台無しにするものではなく、祝祷により、その楽しみに注意を払うことで、楽しみ自体を強めることになると主張しています。

例えば、心地よく酔っ払い、その間、あらゆる楽しさを体験していたとしても、酔いが覚めた後は、そのことを思い出せないので、楽しさは残りません。
そればかりか、楽しかった思い出を無駄にしてしまったことを後悔することもあります。

祝祷を唱えることで、私たちの喜ばしい経験を楽しむことにより、意識的になり、集中することができます。
同時に、祝祷のおかげで、こうした喜ばしい体験も神の恵みの賜物であることを思い出すことができ、私たちが堕落することを防ぐことができます。

ラビ・ユダ・ハレヴィのこの意見は、称賛の祝祷にも当てはまります。

「もののあはれ(物の哀れ)」を感じる美しい景色をみた時に、「この光景は神がお創りになられたものだ」という認識とともに祝祷を唱え、神への感謝と尊敬を示すことで、その体験から得られる経験は強まります。

補足
平安時代の自然観および文芸の理念、本質とされるもので、しみじみとした情趣の世界。日本文化においての美意識、価値観に影響を与えた思想。

江戸時代後期の国学者である本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』で、「源氏物語」の本質が「もののあはれ(物の哀れ)」にあり、自然や人事に触れたときに生じる感動や情感を書き表すことを本旨とした。
本居宣長は、「たおやめぶり」も、大切な日本の精神の一つだと考えていて、さらに『源氏物語』の中にも「ののあはれ」という精神を見い出した。

「もののあはれ」とは、簡単に言えば、目で見たとき、耳で聞いたとき、手で触れたときに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や無常観、哀愁などのことを言う。
それが日本人の精神の根底にあるとして、『源氏物語』は、「もののあはれ」を表現した最高の文学だと主張。

因みに、手弱女振り(たおやめぶり)とは、女性的で、優美、繊細な歌風。
万葉集の「ますらおぶり」に対し、主として古今集以後の勅撰集(ちょくせんしゅう)に広くみられる詠みぶりをいう。

※勅撰集とは、「勅命」または「院宣」によって編纂された和歌集。
※勅命(ちょくめい)とは、天皇の命令のこと。院宣(いんぜん)とは、上皇の命令を受けて出す文書のこと。

また、益荒男振り(ますらおぶり)とは、男性的でおおらかな歌風。
歌人らが和歌の理想と考え、万葉集の歌の中に見いだされると説いたもの。古今集以後の「たおやめぶり」に対していう。

私たちの知恵、改心、救済などの渇望は、アミダー (Amidah)の祈りの中で、それらを希求する決まった時間をとることでその願いを強めることができます。

祝祷に関する注意事項

祝祷を唱えるとき、何かをやりながらだったり、気が散るような場所でするべきではありません。

また、祝祷を端折ったり、焦って口早に済ませるべきでもありません。

ハッキリと声に出し祝祷を唱えるのが最善の方法です。

先述したように、楽しみを感じたり、景色に感動をしたり、知恵や改心、救済などの祈りのために祝祷を唱えている時に、何か他のことに気を取られていたり、何も集中していなければ全く効果的ではないでしょう。

主の御名を唱えるにあたり正しい畏敬と敬意の心

主の御名を軽々しく、または過度に仰々しく使うことは、私たちの畏怖の念を薄めることになるためこれをすべきではない。
主の御名はハッキリと唱えるべきである。

トーラーでは、神の聖なる御名への敬意と畏敬を貶めることを防止するための掟が多数あります。

前に、主の御名を汚い場所で口にしてはならないこと、男性であれば頭を覆わずに口にしてはならないことをお伝えしました。

ここではさらに、敬意を込めた振る舞いの必要性を付け加えます。

シェマーの祈りで「あなたはあなたの主を愛さなければならない」と読み上げるように、主を愛し、主の存在や恵みを定期的に知覚し続けるように一生懸命努力します。
そして一方では、神とその裁きを恐れる必要があります。
主の完璧さ、そして永遠性を常に知覚し続け、私たちとは全く違う存在であること認識し、畏敬の気持ちを持ち続ける必要があります。

私たちは、様々な楽しみ、望みに際して祝祷を捧げることで、主の恵みであることを認識し、「汝、主は祝福されよ」と二人称で呼びかけて祝祷を始めることで、主が私たちの内におられることを認識します。
しかし同時に、私たちが主の御名を口にするときは、心での畏敬をもって恐れを表現することが要求されます。
そのために、主の御名を軽々しく唱えないように注意をするべきですし、祈りにおいて、主の名前を直接的に表現するのではなく、三人称を使って表現します。

例:
「祝福は汝にある。ハシュム(創造神の御名)、宇宙の王、彼の言霊によって夜をつれてくるもの」
(Blessed are You, Hashem, King of the Universe, Who with His word brings on the evening)

「彼の栄えある王国の名が永久に祝福されますように」
(Barukh shem kevod malkhuto le’olam va’ed)

と唱えることで、空虚な祈りを認め、修正しなければなりません。

祝祷の目的は何か?

それは、私たちの物質世界の実りの豊かさは、神の贈り物であることを祝祷によって、私たちが証言することで物質世界と霊的な世界の結びつきを強めることです。
なので、もし私たちが主の祝福であることが分かる「もののあはれ」を感じられないような場所で祝祷を唱えると、それは空虚な祝祷となり、祝祷の目的とは逆の結果を起こします。
すなわち、神の存在を感じられない場所で、主の恵みを賛美すると、物理世界と霊的世界に仕切りを作る効果を生み出してしまいます。

これは、「彼の栄えある王国の名が永久に祝福されますように」と唱えることで多少修復することができます。
このフレーズは、神の偉大さは、私たちの日常生活でいつでも見つけることができる証言となるからです。

ハシェム(創造神)は完璧に人知を超越していますが、私たちの世界でも知覚できるように御名があります。
さらに言えば、主は地球の王国を支配しています。

つまり、このフレーズによって、私たちが誤った祝祷を捧げることで、主を否定しているようにも感じてしまうことを、正確な証言へと置き換えることになります。
より正確にお伝えすれば、この祝祷は私たちの存在と主の存在の結びつきがあることを祝祷によって証言し、思い起こさせるものです。

問題はただ単に、場所による特定の繋がりが、たまたま祝祷をあげた場所ではなかったというだけなのです。

100の祝祷

私たちは毎日100の祝祷を唱えなければならない

タルムードはこの必要性を次のモーセ(Moshe)の美しい問いかけから学んでいます。

汝が神、主が汝に求められることは何であろうか。それは主を畏れ、主が望まれる道を歩むだけではなく、主を愛し、全ての心と魂を以って主にお仕えすることである。
(申命記10章12節)

ヘブライ語で「何」(what)にあたる言葉は「mah」であり、これはほぼ「100」を意味する「me’ah」と同一です。

こうして見ると、先ほどの一節は、「主が汝に求められる事はなんであろうか。」ではなく「汝が主を恐れ、愛するために主が汝に求める100のこと」と解釈することもできます。

私たちが適切な畏れと献身を主に捧げるためには、定期的に主の存在への知覚を新たにして、続けることしか道はありません。

100の祝祷を達成するために、より頻繁にそして多様な楽しみ、賞賛、祈りを心に抱けるようにならねばなりません。
そのために、私たちはこの100の祝祷を達成することの道を進んで行くために、現実世界への関わりをより広げ、新たにしていくことが要求されます。

引き込もっている人や、世俗から離れて禁欲的な修行をしている人からすると、この100の祝祷という理想に到達するのは、極めて難しいと感じることでしょう。

とくにお祈りの数が普段よりも少ないシャバット(安息日)やヨムトブ(Yom Tov)の日においては尚更です。
同時に、全ての経験の度に、神の御名を唱えることによって、私たちの世界への関わりは、神から与え頂いた自然と結びつけることになります。

なので、祝祷のおかげで、主への献身、全能なる神への畏怖と愛がより深くなり、主の望まれた道を力強く歩んで行けることになるのです。

つまりこの世俗世界をより高次で聖なるものへと高めて行くことで、主の祝福の聖なる道を模倣することができるのです。

主は褒むべきかな、主の御名は褒むべきかな

誰かが祝祷を唱える中で、主の御名を聞いたならば、こう唱えなければならない。

主は褒むべきかな、主の御名は褒むべきかな

この掟は、誰かが祝祷を唱えた時に、より注意を払うことができるようになります。

誰かが祝祷を唱えていることに気がつけば、私たちは、祝祷はハシェム(創造神の御名)を呼んでいることを承認し、それは私たちも反応しなければならない重要な行為であることを認識します。

私は偉大な御業を我が主であることを讃えるために、私はハシェムという御名を述べよう

(申命記32章3節)

これは私たちが明らかにしてきた原則の延長上にあります。

祝祷を唱える法のおかげで、私たちは人間の世界との関わりがしっかりと、主のご意向に沿っているかどうかを、より一層強くすることができるのです。

アーメン(Amen)

誰かが祝祷を終えるのを聞いたときは、アーメン(Amen)と唱えなければならない。

アーメンという言葉は真実を意味するエメット(emet)、また信心、信仰を意味するエムナ(emunah)と関連しています。
アーメンを唱えることは、祝祷を真実として承認するということです。

つまり、祝祷における神への称賛は空虚ではなく、真実であり、私たちはこの称賛に含まれる全てを信じていると示すことになります。

アーメンを唱和するときには、意識的に明確な意図を持って、あなたが聞いた祝祷の言葉を承認することを示すためでなくてはなりません。

アーメンの唱和は二つの重要な結果をもたらします。

第一に、祝祷自体の効果を高めることがあります。

祝祷を唱えた人だけではなく、聞いた人も世界の恵みに注目し、また、世界をより改善していきたいと願う道に注目します。
こうした自然や目に見える世界の偉業が神の御業に期すことを思い起こすことになります。

第二に、この習慣は神の恵みを感じた感覚を仲間内で共有することを促し、祝祷を唱えた人の経験を承認するプロセスを促しますので、ユダヤ人の間で仲間意識を醸成することに役立ちます。

 

本日の課題

1:今回の学びで皆様が感じられたことをシェアしてください。

2:今回の学びで、「日本と似ているな」あるいは「日本とは違うな」と感じる点があればシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

3 件のコメント

  • zipang044kwsk@au.com より:

    言葉にすることにより、神への信仰を
    何度も意識するために祝祷をしているのだと
    感じました。
     
    それは、人はほんの些細なことで忘れてしまう
    不完全な存在であることを自覚する意味も込められてるのかなと思いました。
     
    日本に神社が7万ほどあるのは、
    神への信仰を忘れないために神社という
    形を作ったのかなと感じます。
     
    日本とユダヤで違うところは、
    日本には、畏敬の『畏』の部分があまり
    強調されていないところかなと思いました。
     
    そのために、多くの人が畏を忘れ、
    地震や台風などの天災(自然の力=神)が
    多くなっているのかなとも思います。
     

  • まぐくる より:

    本来の日本人は毎日の生活の中で様々な祝祷を唱えていたと思います。
    初詣等で神社仏閣で手を合わせる信心深い姿に安心感が生まれます。
    日本と違うところは、「誰かが祝祷を終えるのを聞いたときは、アーメン(Amen)と唱えなければならない。」という部分です。

  • 伊藤 より:

    神様に対する畏怖畏敬の念を持つという点からは、タルムードも神道も共通していると思います。
    違いを感じるところは、神様への畏怖畏敬の念を祈り(戒律)として示されているのがタルムードで、
    神様への畏怖畏敬の念を生活習慣の中に自然に根付かせているのが神道であると思います。

  • コメントを残す