タルムードと神道(50):危険な行い

危険をもたらすようなことは避けなければなりません。

「危険は違反よりも深刻」だからです。

前回の話をよく読んでみると、身体のケアをするのには2つの理由があることが分かります。

1.主なる神の仕事を全うするため

2.身体自体が主なる神のわざとして敬うべきものであり、これは主なる神の姿の表れであるため

同様に、神に仕えるための力を維持するため、私たちは危険を避ける必要があります。

タルムードでは、誰かの命を救うために、安息日に禁じられている労働に従事する理由は、「彼のために一つの安息日を汚したとしても、彼はより多くの安息日を祝うことができるから」と記しています。

子供にとって割礼が危険であれば、「割礼はいつでもできるが、失われた命を取り戻すことはできない」ため、割礼を遅らせることができます。

私たちはまた、命が聖であること自体のために危険を避けます。

たとえ神に仕えることができる見込みが無い死の淵にある人の命であっても、その命を守るべしと命じられています。

魚と肉

魚と肉を一緒に食べることは禁じられています。これは危険なことだとされているからです。

この法の元となっているのは、肉と一緒に焼いた魚は乳と一緒に食べてはならないとしているタルムードの一節です。

焼く時に魚と肉が接していないとしても、魚が肉の味のいくらかを吸収するので、これは肉と乳との分離を侵してしまいます。

タルムードでは次のように続きます。

「ラビ・アシの息子は、臭いや他の何かが移る危険性があるので、塩をふった(魚を食べるときは普通使う)としてもこれをしてはいけない、と言う」

学者のラシと他の注釈者たちは、この明記されていない「他の何か」とは、トーラーにおいて何度も言及されているツァラート(皮膚の痛み)だと説明しています。

乳と肉を食べ合わせることの禁止の本質、コーシャー(ユダヤ教徒が食べても良いとされる清浄な食品)である動物とコーシャーである魚の違いについて議論します。

簡単に言えば、コーシャーである動物は、主なる神の儀式に供することができる中立的な性質を備えており、代表的なものは肉です。

動物はまた、より低劣で全く獣らしい清められるべき性質を備えており、この代表は血です。

ミクダーシュ(聖所)において、血は祭壇の側面に浴びせられて台座に注がれるのに対し、肉は祭壇の火の上で主に供されます。

コーシャーとなった肉は、屠殺され、血を抜かれて「塩析(読み:えんせき 意味:主に有機質の溶液に可溶性の塩類を加えて、溶けていた物質を析出させること)」されることで、低位の性質から切り離されています。

乳は血から作られるものですが、全く新しい物質に変わることで切り離されています。

赤い血が白い乳に変わることは、イザヤ書の一節を思い出させます。

「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ」

これらが一緒になると、分離が弱まります。

肉が、形は変わったとは言え、再び血と接します。

乳は元々の体の基質に運び戻されます。

血から離れるということから分かるように、肉と乳が動物の性質からの分離を表すものである一方で、屠殺も塩析も必要としない魚は、動物の性質自体の向上を表します。

魚は完全に別の環境、トーラーと純粋な優しさを象徴する、海に生きています。

その浄化された環境において、悪への傾倒や私たちが身体的に望むものさえも免れ、その役割は主なる神に受け入れるように引き上げられており、屠殺される必要もありません。

物質的な性質を引き上げ、補完することを表す安息日において、特に魚がふさわしいとされるのはこの理由からです。

こうした全ての構造から、禁じられた食べ物についての法は、私たちの卑しい食欲を制限し、人と創造主との間の義務として作られていることが理解できます。

しかしながら、このアプローチでも、魚と肉を食べ合わせることを禁じる慣習を説明するには不十分です。

この慣習はどうやら神に仕える上での全く別の側面、人々の正しい行いに関係しているようです。

賢人たちは一貫して、ツァラートの苦しみは人間関係の中における嫌悪すべき行いに対する神の罰であると理解しています。

タルムードでは、ツァラートをもたらす7つの違反を数え上げています。

これらはいずれも盗みや自尊心などの人間関係の中における違反や、神への冒涜や偽りの誓いなど、直接的な創造主への侮辱です。

いずれも単なる儀礼的な違反ではありません。

ラビのマハラル(イェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル)はこの節について、ツァラートに苦しむ人は宿営から一人離れて座ることを強いられると指摘しています。

他人との和を乱すようなことをしたので、今は離れておく義務があるのだと説明します。

しかし、肉と魚についてはまた別の法の上での区別があります。

これは特に人間同士の関係に着目したトーラーの一節に関係しています。

コーシャー(ユダヤ教徒が食べてもよいとされる清浄な食品のこと)である生き物はおとなしい草食動物です。

これらは全てよき性質を持って生まれています。

攻撃的でもなく、凶暴な肉食動物でもなく、死肉を食べる者でもありません。

言い換えれば、「良好な人間関係」を備えた生き物を食べるのです。

残されるのは、屠畜や血抜き、塩による血抜きによって取り出される、低劣で動物的な無節制への傾倒です。

コーシャーの魚についてはこのような制限はありません。

数多くあるコーシャーの魚の中には、草食のものも肉食のものも、死肉を食べるものもあります。

中にはひどい味の魚もあります。

このことを、魚は完全にトーラーに沿っているという観点と考え合わせてみます。

トーラーによって低位の動物的な性質が引き上げられるように、それよりはずっと難しいとしても、卑しい人間性の特徴も引き上げられることがあります。

例えば、トーラーの学者たちがトーラーを擁護するために怒り、無慈悲になり、時には報復的な態度を示すことがあります。

これがトーラーの学者でなければ、賢人たちは全く称賛するものではありません。

ですが、彼らがトーラーの海にどっぷり浸かっていて、個人的なプライドや地位との混同が少しも見られないのであれば、こうした特性はコーシャーとなり得ます。

もしほんの少しでも個人的な都合が入っていたら、これらの資質は全く台無しになり、その人は忌み嫌われ(タルムードには「臭い」との表現がある)、忌まわしいものとされます。

これが、海から来るもの(トーラーの海に浸かっているもの)、肉の名残を少しも吸収していないものとして、魚が持つ象徴的意味です。

人間の尊厳

人が嫌だと思うもの、不快なものを食べるのは禁じられている。

このルールは、虫を食べて自身を忌むべきものにしてはならないというトーラーの禁止事項の延長です。

精神を向上させるために不可欠な基礎となるものは、基本的な正しい知識を持つことと、分別ある人間としての行動です。

これらが、人間としての特別な尊厳を正しく表すのです。

ユダヤ法において人間の尊厳が特別な重要さを持つことは、「ツィツィート」で取り上げました。

環境に敬意を表すこと

正当な理由なく果物の木を切り倒すことは禁じられています。

トーラーでは果物の木を切り倒すことを禁じています。

この禁止事項は、戦いにおいて敵に降伏を勧める戒律の流れで表れます。

それからトーラーでは、街を包囲する時でさえ、果物の木を取っておく必要があると定めています。

トーラーは問いかけます。

「あなたは田野の木までも、人のように攻めなければならないであろうか」

ユダヤ教は平和主義の宗教ではなく、トーラーは戦うことを許し、時には命じます。

長い放浪の間に滞在した国においてさえ、ユダヤ人は必要とあらば応分の安全保障の負担を引き受ける準備ができていました。

しかし、戦いは素晴らしいものでも栄誉あることでもなく、時たま起こる不運な不可避の事態なのです。

そのため、できるだけ破壊を最小限にするように努めなければなりません。

ラシの解釈に従えば、この節は疑問文であると理解できます。

また、命令文と読むこともできます。

「人は田野の木である」

その読み方に従えば、このミツバは先ほどの常に降伏を勧めるというミツバと同調します。

すなわち、果物の木を気まぐれに切ってはならず、また人間も田野の木なのだから、戦いの情勢がその他の選択を許さないのでなければ、戦時においても同胞を破壊することには慎重であるべきであるということです。

不吉な話を避けること

同胞のユダヤ人の不運を望んだり、不運を宣するようなことを言ってはなりません。

これは「否定的な発言を避けること」で扱った、同胞のユダヤ人を中傷することを禁じる法と密接に関係しています。

ユダヤ法では言葉の力を深刻に考えており、前向きな話で前向きな態度をもたらすように勧めています。

 

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

タルムードと神道(34):テフィラー

タルムードと神道(35):アミダーの祈りへの追加

タルムードと神道(36):先唱者によるアミダーの復唱

タルムードと神道(37):埋め合わせの祈り

タルムードと神道(38):タファナン(懺悔の祈り)

タルムードと神道(39):週日のトーラー朗読

タルムードと神道(40):完全なトーラーの巻物を書くこと

タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ

タルムードと神道(42):会葬者のカディシュ

タルムードと神道(43):トーラーを学ぶことについての法

タルムードと神道(44):☆神道と儒教

タルムードと神道(45):トーラーの巻物を書くこと、トーラーの本を得ること

タルムードと神道(46):正しい行い

タルムードと神道(47):否定的な発言を避けること

タルムードと神道(48):天のために行動すること

タルムードと神道(49):正しく体をケアすること

 

2 件のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    コーシャーの概念はイナゴの佃煮(私は無理ですが)や、ちゃんこ鍋が好きな日本人には理解が難しいと思いました。魚にも血がありますし・・当時の健康を害することを避けるための調理法を教えてくれているのかも知れませんね。

  • 伊藤 より:

    神に仕えるうえでの正しい行い、或いは禁止事項が定められているのですね。
    神への冒涜、創造主への侮辱というのは、私自身、タルムードと神道の学びに入らせて頂いていなければ、犯していたかもしれない
    と感じております。個人的には、神道系の信仰を30年近く続けておりますが、全く血肉になっておらず、この学びを通して
    神道のすばらしさを改めて認識し、信仰を深めることができております。この場をお借りして、改めて御礼申し上げます。

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