シャバット(安息日)についての法を学ぶ前に
一週間の七日目、金曜日の夜から土曜日の日暮れまでは安息日である。
この日は労働を避け、全ての人にとっての休息と楽しみの日として聖別しなければならない。
ユダヤ人の生活と思想にとってシャバットが持つ意味は非常に幅広いので、深い洞察を与えてくれたとしても、シャバットの全てを理解するには遠く及ばないでしょう。
ユダヤ法の多くの分野において、シャバットはトーラーの全てであると考えられており、シャバットを理解することはトーラー全てを理解することだと考えられているのですから、明らかに無理な話です。
ですが、シャバットについての基本的なアプローチは、聖なる安息日という主要なテーマにほとんど関連付けることができます。
このアプローチは、平日が「与える」日であり、シャバットは「受け取る」日であるという言い方に集約することができます。
物質的な面において、平日はエネルギーを使うこと、動くこと、作り出すこと、供給することにあてられています。
そして平日は、世俗的な行い、精神的に中立な行いを聖別するミツヴァによって、精神的に「与える」日となります。
平凡な行いをミツバによって聖別することは、本稿の一貫したテーマです。
しかしシャバットは物質的に与える行為が制限される日であり、受け取るという側面が強化されます。
シャバットでは、平日に放出するための、聖なるものの充填を受ける日になるのです。
多くのユダヤ法では、シャバットにおいてユダヤ人は物質的な与え手では無いという考えを表明しています。
シャバットは、この世界に存在を示す日ではないのです。
家からあまりにも遠くに旅することは禁じられています。
財産をある土地から別の土地へ移すことも禁じられています。
また、シャバットの前に誂えられた物を扱うことさえも禁じられています。
そして、あらゆる創造的な労働は禁じられています。
驚くべきことに、シャバットにおいては人道的な贈与さえ禁じられています。
賢人たちによれば、シャバットには病人を見舞うことも、近親者を亡くした遺族を慰めることもほとんど許されません。
ゾハールでは、ヨムトブ(祝日)を祝う時には自分たちと同様に、恵まれない人々を喜ばせなければならないことを強調していますが、シャバットに関してこれは当てはまりません。
シャバットに必要なものを除いて、シャバットに贈り物をすることは禁じられています。
シャバットにおいては物質的な受け取り手であり、楽しむ側であるという考え方は、三度の食事を摂らなければならず、特別な食べ物を食べなければならず、特別な休息を取らなければならないということ、端的に言えばシャバットを思いのままに過ごす日にしなければならないという決まりごとに表れています。
シャバットにおいて精神的に満たされるという考えは、ユダヤ人はシャバットにもう一つの魂、ネシャーマ・イェテラを受け取るという伝統に美しく表現されています。
そしてこの精神的に満たされることにさえ、物質的な側面を持っています。
ラシは、ネシャーマ・イェテラを受け取るということは、食べ物を楽しむ力が強化されることだと説明しています。
シャバットは、物質的な楽しみが持つ精神的な側面を体験するための力が強くなる日なのです。
このアプローチは、歴史の上でシャバットが持つ秩序立った意味を理解するためのヒントにもなります。
神は世界をお創りになるために、初めの六日間を費やされました。
しかしその後、神は休まれたので、これはこの世界が有限であるということを意味しています。
ところで、修繕する(平日における、与え、発展させる営み)という考えは本質的に、有限であるという考えと結びついています。
主が六日間を創造に費やされてシャバットに休まれたのですから、物質的な世界には限りがあります。
これは間違いなく、私たち自身がこの世界を修繕して完全なものとする能力を持っているということです。
この概念は、アレイヌの祈りの中に示唆されています。
そこで人々は、レタクン・オラム・ベムクート・シャダイ、すなわち神の王国を修繕することを望みます。
ここでは具体的にシャダイという名前を使いますが、文字通りの意味は「十分である者」です。
有限であることを示す神の呼び名であり、主が創造物に対して「十分である」と言われたことを想起させます。
これは、その日が平日における人々の与える営みが完了した時に訪れることを意味しています。
つまり全ての日はシャバットのようになり得ます。
ここには、過去を記念するものとしてのシャバット(「創造のわざの記念」)と、未来の予兆としてのシャバット(「来るべき世界の意味」)という二つの位置付けが密接に結び付けられています。
「来るべき世界」とはメシアの時代のことで、シャバットの祝祷の中でも「全てがシャバットである日」として言及されています。
シャバットは創造のわざを区切るものなので、精神的な修繕が完了し、精神的な喜びを受け取ることに身を捧げ、主の輝きを喜ぶことに身を捧げることができるような将来の可能性、また必然性さえも生み出します。
そのため、シャバットで労働を控えることは、世界を修繕することから気をそらし、やる気をなくしていることを示しているのではなく、それどころかティクン・オラム(世界の修繕)の営みがいつの日か成功することを堅く信じていることの証なのです。
その時には世界の有限は克服され、人々は来るべき世界を無限に受け継ぐことになるでしょう。

ユダヤの信仰の象徴としてのシャバット
安息日の義務は信仰で繋がった共同体における構成員の帰属を確かめるための主要な基準である。
一般的に、シャバットに従う者はトーラーを遵守する者と考えられ、シャバットを破る者は集団の信仰を捨てた者と考えられる。
トーラーの613の戒律の中で、シャバットに関するものは5つだけです。
ではなぜシャバットがトーラー全体に比肩するほど重視されるのでしょうか。
なぜシャバットを守る人であれば偶像崇拝に加担していても許されるというのに、シャバットを破る人は非ユダヤ人のように考えられるのでしょうか 。
ラビ・ガンツフリードはシャバットを守ることは神の天地創造の証だからだとしていますが、これだけでは説明が不十分です。
シャバットに建設的な労働を控えることと、神が最初のシャバットに世界の創造を止められ、世界の創造を終えられたたことの間にはどんな関係があり得るのでしょうか。
導入部分において、平日は聖性を与え、広げる時である一方で、シャバットは基本的に吸収する時だと説明しました。
平日において、私たちは人間としてのあらゆる努力に取り組み、ミツバに従って行動することでこれらの努力を聖別します。
シャバットにおいてはそうした努力を控え、たとえばネシャーマ・イェテラ、すなわちシャバットにおいてもう一つの魂を受け取るように、聖性を受け取るのです。
ですから、この聖性を放出することと吸収することのバランスは、そのまま平日とシャバットに分割されます。
これは、シャバットがトーラー全体に比肩するほど重視されていることの一つの表れです。
さらに言えば、聖性を受け取ることによってのみ、平日に放出するためのケドゥシャーの貯水池を作ることができます。
シャバットは平日に使うための精神的な「燃料」が供給される日なのです。
もう少し深く洞察してみます。
すでに述べた通り、主が休息を取られたということは、ユダヤ教にとって重大な意義があります。
これは世界に限りがあることを暗示しており、世界の修繕のわざにもまた限りがあることを暗示しています。
神が七日目に休まれたことで、私たちが聖性を広げる対象は手が届く限りの全ての神の創造物となりました。
トーラーによれば、神は「彼が創られたすべき労働のすべて」を七日目に休まれました。
ミシュナーとリショーニームにおいては、「すべき」という言葉は世界が不完全に創られたことを示していると説明されていますが、神は「すべき」ものとして労働を創られたのであり、すなわち、人間がこれを請け負って完成させるために創られたのです 。
一週間を通して私たちは人間としてのあらゆる努力に力を注いでおり、倫理的な行いをし、戒律を守ることで世の中のあらゆる面に聖性を広げることに忙しくしています。
私たちの行動を聖別するこの試みは、最終的に世界の修繕に繋がり、聖なる世界の完成に繋がると信じることによって動機付けられています。
このように信じていることを、シャバットに休むことによって証明するのです。
世界の修繕が私たちの手に負えるものであることを確かめることなしには、休みに甘んじることはできません。
七日のうち一日を、聖性を放出するのではなく吸収することに振り向けることによって、私たちの信仰が世界を完成へと近づけるものであることを示すと同時に、私たち自身が聖性を吸収してこの完成された世界に参画する準備をする必要があります。
シャバットが全ての戒律に匹敵するほど重視されているのは、シャバットの内側に向けての意識が平日の外側に向けての意識と釣り合っていることによります。
なぜなら、平日における聖性の放出は、休日に蓄積された聖性の貯水池に依存するからです。
また、神が六日間の後に創造のわざを終えられたことを思うことによって、平日の世界の修繕は十分に目的が備わり、完成の見込みがあるものであることを証明しているからです。
シャバットにおける魚
シャバットにおける全ての食事に魚を食べることはミツバである。
実際にはシャバットに魚を食べなければならないという決まりはありません。
ですが、ラビたちによって繰り返し、魚はシャバットに喜びをもたらす食べ物であると言われています 。
そうであっても、魚とシャバットの非常に深い繋がりを描き出している独創的で深遠な考えが多く提示されています。
ここで、そのような考えのいくつかをまとめてみます。
「危険な行い」で、なぜ魚を儀礼に則ったやり方で屠殺する必要がないかを説明しました。
基本的な理由は、屠殺する時に一瞬にして動物をこの世界の空気から切り離すことが、自分の獣性を完全に殺したいというユダヤ人の願いを象徴するものであり、また自分自身の物質的な望みへの服従を「黙らせたい」という願いを象徴するものだからです。
これは物質的な世界を聖なるものへ引き上げるという次の段階のために必要なことであり、コーシャーである肉を食べることによって叶えられるプロセスです。
反対に魚は、ゾハールにおいて完全に高潔な、偉大なトーラー学者に擬えられています。
彼らは全く異なる世界、トーラーの海に生きているため、物質的な世界から自分を切り離す必要がありません。
魚が獣と全く同じように物質的な必要性に支配されていながらも、完全に異なった環境にいるのと同じように、彼ら聖なる人々も他の人と同じように物質的な必要性に支配されていながらも、彼らが食べる物、飲む物はトーラーの概念と聖性に浸されているのです。
しかしながら、シャバットには全てのユダヤ人がネシャーマ・イェテラ(もう一つの魂)を得るので、粗野な獣性に溺れることなく物質的な要求を聖なるものの中で楽しむことができます。
シャバットにおいて身体的な楽しみが特別なミツヴァであるのはこのためです。
言い換えれば、シャバットにおいてはあらゆるユダヤ人が、物質的な努力によって精神的に価値を落とすことの無い、トーラー学者のような特別なレベルに達することができるのです。
この特別なレベルは、世界と切り離すために屠殺を必要としない魚に象徴されます。
魚は、水の中から集めるだけで十分なのです。
この考えは魚についてのもう一つの一般的なモチーフと密接に結びついています。
魚は、「邪な眼」を免れていると考えられているのです。
「邪な眼」という概念は、幸運をひけらかすと悪いものを引き寄せるので、これを避けるようにしなくてはならないというものです。
この概念は物質的なレベルでは基本的なものであり、直観的なものです。
たとえば誰かが自分の富をひけらかしたとしたら、また特に、寛容さをひけらかしたとしたら、きっとその人の寛容さに付け入って利益を得ようとする多くの浅はかな人たちを惹きつけてしまうでしょう。
この考え方は、善と悪、光と闇が混ざり合っているような私たちの環境においては非常に重要です。
良きことをし、良きことを示そうとする努力は常に、邪な力に栄養を与えてしまう危険をはらんでいるのです。
この問題を解決するには、控えめであることです。
しかし海は、こうした混ぜ物が無い世界、純粋な親愛の情に満たされた環境を表しています。
そうした環境においては邪な眼は存在せず、幸運を隠したり制限したりする理由もありません。
ハシディズムの考え方は、シャバットに魚を食べることを、魚が天使を表すという神秘主義的な伝承と結びつけています。
「ダニエル書」では、天使をアイリン、すなわち「起きている者」と呼んでおり、魚もまた眠ったり目を閉じたりすることはありません。
シャバットにおいては私たちも、ネシャーマ・イェテラ(もう一つの魂)を受け取ることで天使のレベルに近づくのです。
このテーマは私たちの説明に密接に関係しています。
天使になることは人間にとっての理想でありません。
なぜなら、物質的な世界に入っていってこれを引き上げることができるのは、ひとえに私たちの物質的な性質の為せるわざだからです。
しかし、この引き上げるわざは基本的に平日の仕事ですから、シャバットにおいては実際に天使のレベルのアプローチを取るのです。
シャバット前日におけるテシューバ
理想的には、金曜の午後に一週間の自分の行動を説明する時間を作り、改善が必要なことがあれば是正するように努めるべきである。
私たちは、シャバットが物理的にも精神的にも世界を修繕する日では無いことを指摘しました。
安息日の前日に精神的な説明を試みるべきだという事実は、シャバットは自分自身を修繕する日ですら無いということを表しています。
毎日特別な告白をする人ですら、シャバットにはこれを控えます。
懺悔の祈りは、ロシュ・ハーシャナーからヨム・キプールまでの後悔の日おいてすら、シャバットには決して唱えません。
自分を向上させることはいつでも妥当なことであり、自身を修正するための主要な作業ですが、環境を修正するための作業と同じく、これは平日のためにとってあります。
シャバットの前にテシューバをしなかった人やシャバット自体の掟に違反した人は、可能ならば直ちにテシューバを行うべきです。
私たちはシャバットに世界を作り上げる必要はありませんが、だからと言って壊すべきではありません。
そして、悔い改めの無い罪は全て、精神的な障害なのです。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
タルムードと神道(45):トーラーの巻物を書くこと、トーラーの本を得ること
タルムードと神道(79):特別な助けに対する感謝とその助けを求めること
ユダヤの世界でいかにシャバットが重要なのか少し理解出来ました。我が家は全員医療関係ですので夜勤などもあったりして希望の曜日に休めない現状です。ユダヤを理解し少しでも彼らのライフスタイルに近づけるよう努力します。