タルムードと神道(78):自然の驚異についての祝祷

印象的な自然の驚異に対しては祝祷が唱えられます。

ここでも引き続き、称賛と感謝の祝祷(バーホート・ハホダー)の法を扱います。

最も有名な称賛の祝祷であるシェヒヘヤヌーは、特に周期的な出来事に関係していることを学びました。

ここで扱う祝祷は、例えばほんの短い間に現れて消えてしまう激しい雷雨のように、特定のタイミングを持たないものに関係しています。

タイミングが決まっていないということは、特定の出来事が再び起こった時に、新たな祝祷を唱えるべきか否かという疑問を提起します。

この疑問に対するユダヤ法の答えは、バーホート・ハホダーの性質に対する重要な考え方を与えてくれます。

特定の経験にどれだけ早く慣れるかによって、異なる祝祷が別々の間隔で繰り返されることが分かります。

たとえば、嵐による興奮は非常に大きいので、新たな嵐が現れたらその日のうちであっても速やかに新たな祝祷を唱えます。

しかし、ほとんどの光景には早々と慣れてしまうので、そうした経験については新たな祝祷は30日後にしか唱えません。

また、「しもべたる生き物の有り様を変えられた方」という変わった生き物についての祝祷は、この「奇形」を見つけた後で、これが奇形ではなく常態であり、主の世界の一部なのだということが理解できて驚きが収まったならば、一度だけ唱えられることになります。

このことから、自然の驚異に対する祝祷の義務の実際的な源は、驚異そのものではなく、それを見て驚異だと感じる私たちの感覚であるということがうかがえます。

称賛するための機会は間違いなく、私たちの感情の動きの中にあるのです。

そのため、心が動くような祝祷に値する何らかの経験があったとしても、後に私たちの感動が鈍くなったのであれば、以後その同じ経験について祝祷が唱えられることはありません。

事実、ラビ・ガンツフリードはシェヒヘヤヌーについて明確にこう書いています。

祝祷は心の楽しみに対してのみのものであり、それはその人の買い物の結果としての楽しみである。

彼は祝祷を必要とする「重要な衣服」の基準については、各人の生活レベル次第であるとしています。

祝祷を唱える義務の源が主観的な驚異に対する感覚であるとしても、これは主を驚異的な現象の創造者であると認めるこの祝祷の文句と矛盾することはありません。

反対に、これは以前に強調した原則の一例です。

つまり、私たちの聖なるものとの結びつきが、実体的な世界を仲立ちとしていることを強調するために、祝祷は常に私たちの経験が持つ実体的な面に根ざしていなくてはならないという原則です。

賢人たちは、「この世界における一時間の後悔と善行は、来るべき世界における一生よりも価値がある」と教えています。

例えば、「香りについての祝祷」において、美しい香りについて祝祷を捧げるときのきっかけとなるものは、私たちの楽しみであるとしても、祝祷の対象は、この楽しみをもたらしている実体のある世界における特定の物であるということを説明しました。

「元の無い匂い」に祝祷を捧げない理由はこれなのです。

祝祷は、私たちとこの世界を、特にこの世界にある良きもの、聖なるものを結びつけるためのもので、引き離すためのものではありません。

実体的な世界との結びつきは命であり、引き離されることは死なのです。

 

果物の木についての祝祷

ニサンの月に外に出て、花を咲かせている木を見た人は、「彼の世界から何者も省かれなかった方、人々を楽しませる良き生き物と良き木を創られし方は祝福されよ」と唱えます。

これらの良き木から人々が受け取る「楽しみ」は食べる楽しみであり、リショーニームは、この祝祷が果物の木についてのみ唱えられることを認めています。

しかし、この祝祷は果物について唱えられるものではありません。

シュルハーン・アルーフでは、果物が熟してしまったらこの祝祷はもはや唱えられないと書いています。

そのため、シェヒヘヤヌーを唱えるべきなのは、熟したばかりの果物を見た時だということになります。

このタイミングの意義を検証してみましょう。

木に対する祝福を必要とする開花は、一年を通しての三つの異なる祝祷に含まれることになります。

1. 果物の木についての祝祷は開花の時期に唱えられます。

一つの祝祷が全ての種類の木を対象に含みます。

2. 花が、熟した果実になった時、新たな果実の実りについてシェヒヘヤヌーを唱えます。

この祝祷は果物の種類ごとに唱えられます。

3. 最後に、果物を食べる人は誰でもボレ・プリ・ハアレツを唱えます。

これは、果物を食べる毎に、食後に必要な祝祷として唱えられます。

 

三つ目の食べることについての祝祷は、果物を味わう具体的な喜びについて唱えられるものなので、最も実体のある楽しみであり、最も具体的な祝祷です。

二つ目のシェヒヘヤヌーの祝祷は、私たちが果物を楽しむはっきりした能力がある時に唱えられます。

そうではありますが、この能力は未だ実現しておらず、それゆえに祝祷はより一般化され、果物の種類ごとに一度唱えられます。

一つ目の開花について唱えられる祝祷は、ただ将来の楽しみの約束についてなされるものです。

春に木々が花をつけるのを見るとすぐに、私たちは自然の世界が冬の間の眠りから覚めたことを知ります。

自然の世界がきっと実りを与えてくれるだろうという希望と確信に満たされます。

一年で最初に花を咲かせた果物には、新たな一年を通しての希望と期待が込められるので、この祝祷は一年に一度だけ唱えられるのです。

春においては、花を咲かせた木々の香りのように期待感が空気を満たすように思えます。

そのため、香りを伴う花についてのみ祝祷を唱えるという意見さえもあるのです 。

 

希望の祝祷

果物の木についての祝祷は希望の祝祷であると言えます。

主は、彼の世界から何者も省かれませんでした。

主は私たちを楽しませる良きものだけでなく、それらの訪れの前兆となるしるしをも創られました。

実際に、この希望を持つ感覚こそが、実際の楽しみよりもむしろ、人生が生きるにたるものだと感じさせてくれるものなのです。

希望の無い世界は、たとえ物質的に満たされていたとしても、落ち度のある世界となるでしょう。

 

花の開花と族長たち

タルムードでは、春は繁栄と輝き(ジブ)の時期として知られていると記しており、この呼び名の理由として二つの説明を挙げています。

一つは、果物の木についての祝祷の中で称えられているような、花を付ける木の繁栄に関係するというものです。

しかし最有力の説明は、「世界の輝き」であるところのアヴォート(族長たち)に関係するというものです。

アブラハム、イサク、ヤコブは世界に具体的なあがないをもたらしたわけではありません。

彼らが生きた数千年後の現代においてさえ、私たちは残酷さや苦しみ、拒絶、不道徳に出会います。

しかし彼らは、世界の輝きであり、世界の花だったのです。

族長たちについて考えるとき、アダムとイブの罪に始まる人類の聖なるものからの隔絶を「冬」とするならば、これが逆転し、高潔さが花開き始めたと言えます。

彼らの重大な行いが放つ芳香が、前向きな気分で世界中の道徳的な雰囲気を満たしています。

族長たちが神との契約を交わして以来、世界は希望と期待に満ち溢れているのです。

 

虹を見た時には、「契約を思い出される方」として主を祝福します。

しかし、虹を過度に見つめてはなりません。

虹を見ることについて専用の祝祷があることは、虹がただの自然の驚異ではなく、神とノアの契約のしるしであることを示しています。

これは、人間の存在の根源となっている契約です。

そのため、賢人たちがその虹を過度に見つめることについて警告しているのは驚くべきことです。

賢人たちによれば、それは「目を曇らせる」行為であるとのことです。

賢人たちが虹の意義を人類との契約のしるしとして説明している意図を理解する方法はあります。

私たちが虹を「見る」時には、実際に見ているものは非常に細かい雲に屈折された太陽の光です。

通常の雲の効果と言えば、太陽の光を遮り、私たちから太陽を全く見えなくするものです。

しかし雲が十分に細かい場合は、逆の効果が現れます。

太陽の光を遮るどころか、この細かい霧状の粒子が太陽の光本来の性質を明らかにしてくれるのです。

普段私たちは太陽の光を単純な白い色として認識しますが、一見モノクロームのように見える光が実際は眩いばかりに豊富な色、虹色を形成していることを虹が明らかにしてくれます。

これは、私たちの物質的、現世的な存在のメタファーと見ることができます。

残念ながら、物質的な世界の出来事は、普段は神の精神を遮るものとして働きます。

もちろん、どんなに分厚い雲でも太陽の光を完全に遮ることはほとんど無く、嵐の昼が夜のようになることはありません。

同様に、世俗的な行いに深く浸かっている人でさえ、物事の精神的な側面を理解することはできるのです。

そのような人でさえ、完全に光を奪われているわけでは無いのですから、神の光は彼の世界をも照らします。

しかしながら、彼はその光がどこから来ているのか知ることはできないのです。

反対に、物質の世界に囚われることから完全に自由であるとしたら、真実の世界に戻ってきた時にどんな精神的な光明の源を見たとしても目が曇ることはないでしょう。

そこには雲一つない空があり、目が眩むほど透き通った神の裁きの光が見られるのです。

しかし、そこには中間に位置するレベルがあります。

本当に高潔な人であれば、この世界との関わり方が洗練されているはずです。

そのような人は虹が輝くための仲介となる霧状の粒子に例えられます。

神に選ばれた人は、この世界と慎重に関わることによってのみ、主を象徴する虹の目も眩むような色の波長を知覚することができるのだということを示しているのです。

これは、主がノアと、そして人類と結んだ契約です。

トーラーではノアを、神と共に歩んだ全き人であると紹介しています。

そのような人を通して、地上の世界は主の光を遮るものでは無く、その輝きを広げるためのレンズになるのです。

それゆえ、ノアによって立ち上げられたこの世界は二度と破壊される必要はありません。

虹を見つめることについての禁止事項の方はどうでしょうか。

すでに、虹を見ることは太陽の光を見ることの一つの方法であると説明しました。

しかし、もし私たちが虹自体を見ることに集中してしまったら、太陽を見失い、雲自体を見ることになってしまいます。

霧状の粒子を通して見るのでは無く、その霧自体を見ることになるのです。

節度と高潔さを持って生きていれば、この世界に息づく驚くべき神の思し召しを感じ取ることができますが、そうして感じられた輝きは、地上世界自体が生み出しているものだと勘違いしてはならないのです。

これはちょうど、虹を見て雲自体が輝いていると考えるようなものですが、このような考えは異端の汎神論に見られるものです。

世界の欺瞞を見抜くことができる限り、私たちは世界を見ることを許され、また義務付けられてさえいるのです。

 

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

タルムードと神道(34):テフィラー

タルムードと神道(35):アミダーの祈りへの追加

タルムードと神道(36):先唱者によるアミダーの復唱

タルムードと神道(37):埋め合わせの祈り

タルムードと神道(38):タファナン(懺悔の祈り)

タルムードと神道(39):週日のトーラー朗読

タルムードと神道(40):完全なトーラーの巻物を書くこと

タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ

タルムードと神道(42):会葬者のカディシュ

タルムードと神道(43):トーラーを学ぶことについての法

タルムードと神道(44):☆神道と儒教

タルムードと神道(45):トーラーの巻物を書くこと、トーラーの本を得ること

タルムードと神道(46):正しい行い

タルムードと神道(47):否定的な発言を避けること

タルムードと神道(48):天のために行動すること

タルムードと神道(49):正しく体をケアすること

タルムードと神道(50):危険な行い

タルムードと神道(51):喜捨(きしゃ)の法

タルムードと神道(52):ハッラーの法

タルムードと神道(53):肉に塩を振ること

タルムードと神道(54):食事の道具を水に浸すこと

タルムードと神道(55):非ユダヤ人が整えた食べ物

タルムードと神道(56):食事の前に食べること

タルムードと神道(57):☆儒教と神道を合体させた理由

タルムードと神道(58):パンを食べるために手を洗うこと

タルムードと神道(59):パンをちぎること

タルムードと神道(60):食事の間の振る舞い

タルムードと神道(61):食事中に祝祷を必要とする食べ物

タルムードと神道(62):食後の祈り

タルムードと神道(63):ツィムーン

タルムードと神道(64):禁止された食べ物

タルムードと神道(65):非ユダヤ人のワイン

タルムードと神道(66):焼かれた食べ物についての祝祷

タルムードと神道(67):ワインについての祝祷

タルムードと神道(68):食事の前の祝祷

タルムードと神道(69):結びの祝祷

タルムードと神道(70):食べ物についての祝祷

タルムードと神道(71):果物のジュースと野菜のゆで汁

タルムードと神道(72):中心となる食べ物と従属する食べ物

タルムードと神道(73):食べる前の祝祷の順番

タルムードと神道(74):正しく唱えられなかった祝祷

タルムードと神道(75):追加の料理についての祝祷

タルムードと神道(76):香りについての祝祷

タルムードと神道(77):喜びと悲しみについての祝祷

1 個のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    感情が動く出来事と出会うたびに祝祷、または感謝をすることは自分でも度々やっていたようです。息をのむ光景や虹等に大きく焦点を当てると全体の捉え方がいびつになってしまいそうですね。

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