神の御前を歩む清浄な者
「わたしは常に主をわたしの前に置く。」
(詩篇16章8節)
これは、私は常に神を自分の前に置いている…という意味で、つまりここで言う「主」とは「神」のことを指します。
この一節は、トーラー実践の基盤となる原則であり、神の御前を歩む清浄な者の特性でもあります。
旧約聖書では、「神の御前に立つ」と訳されている場合がありますが、この訳だと、その意味は「神の存在」があることを示すだけとなります。
しかし、「神の御前を歩く」という訳であれば、神は清浄な者の後をついて行くことを示すことになります。
実際にミドラッシュ(ヘブライ語で「捜し求める者」の意味)は、ただ単に主と一緒に歩いたノア(創世記6章9節)と、主の前を歩いたアブラハム(創世記17章1節)を区別しており、アブラハムは主に先立って案内するかのようであることを示唆しています。
清く正しい者は、主がいらっしゃらないような、聖なる者が、乏しい人々や場所に向かって進んでいくのです。
しかし、ミツバを実践していくことで、穢れているように見える場所であっても高められ、聖浄されていきます。
そして神のいない穢れていた場所であっても、ミツバを実践していくことで禊され、神の存在が近づくようになります。
したがって、清浄な者は神の前を歩くのです。
そして神の存在が分かるような場所へと変わり、神がついてくるようなことが起こるのです。
朝、目を覚ましたユダヤ人が、まだベッドにいる間に毎日暗唱するユダヤ人の祈りのことをモデ・アニ(Modeh Ani)と言います。
ユダヤ人は、朝、目覚めると直ぐに魂を体に留めて頂いたことを、主に感謝するために短い祈りを唱えます。
この祈りはヘブライ語で「モデ・アニ・リファレハ」つまり、「本日も魂をとどめて頂きましたことを主の御前において感謝します」というフレーズから始まります。
これはユダヤにおいて幼いころから教えられます。
初期のハシディズム(神を深く敬い慎むこと)
ある偉大なラビに有名なエピソードがあります。
彼の名を「アブラハム・ヨシュア・ヘッシェル」と言います。
彼は、ある日、朝のお祈りに遅れてきました。
彼に何が起こったかというと、彼が朝の感謝を表し始めたとき、ふと深遠な形而上(形がなく通常の物事や現象を超えたもの)の問題が持ち上がり、大変、悩み苦しんだのです。
「私」はいったい誰で、何のために神の前で1日を始めるのか? という霊的で理性的な葛藤があったため、起床するのに時間がかかったのです。
しかし、「モデ・アニ」の祝詞が、「自分の存在とは何か?」といった問いを想起させるのは自然なことです。
ユダヤ人の最初の義務である朝の祝詞は、彼らのアイデンティティを明確なものにします。
ユダヤ人は、寝起きに唱える「モデ・アニ」の祝詞により、「私は誰なのか?」と自問することで、祝詞は、その問いに答えてくれます。
私は主から頂いた魂を持っております。
私は主を頂く敬虔な人物であり、異邦人ではありません。
私は自由な人間であり、奴隷ではありません。
私は男です。(または女です)
私は主に授かりし魂と共にあります。
私は独立を証明するために、真っすぐな姿勢を保ち、誠実で尊敬される価値のある人間であることを示すのに相応しい靴と衣服をまといます。
私はトーラーに従い、そして正しいことを行うために創造されました。
主の意志を実践することに、私たちの心を奮い立たせます。
神のお陰で私たちが朝目覚める時、それがもし仕事において素晴らしい取引のために起きなければならないとしたら、きっと満面の笑みをもって起きるであろうということをよく考え、戒めなければなりません。
この教訓・戒めは、トーラーの主題である「世俗的な世界を聖なる場所にしていく」ということを上手く表現している良い例です。
お金を稼ぐということは、あくまでも私たちの宗教的な義務を実践し、より世界を聖なるものに浄化させていくということが目的です。
そして、これに全力を注がなければなりません。
本日の課題
今回の学びを日本的に解釈し、下記のように唱えてみてください。
「天(神)よ、私の魂を思いやりをもって本日もお戻しいただきましたこと感謝致します。私は天(神)を敬服しております。」
また、毎朝目覚めたら、布団から出る前に下記のような祝詞を唱えてみて下さい。
「私の魂を、思いやりを持って私にお戻し頂きましたことに、森羅万象なる無限の主、神の御前において私は感謝を捧げます。私は主への愛と忠誠で心があふれております。」
現代の日本人は、宗教に対して嫌悪感を持っている人が多いですが、しかし、日本はそもそも非常にスピリチュアルな民族です。
なのに、霊的な活動をしないために体調を崩す人もいます。
古来より大和民族は、森羅万象に霊が宿ると信じ、その信仰心によって驚異的な精神力や偉大な偉業を成し遂げ、平和な世界を実現していました。
吉田松陰や高杉晋作、渋沢栄一、鮎川義介、松下幸之助など、彼らは皆、神の存在を信じ、大切にし、偉業を成し遂げてきた人たちです。
唯物論と呼ばれる目に見えるものだけの世界にはありません。
ユダヤ教は日本の霊的な話と符号する箇所がたくさんあります。
世界は、古き良き日本の心を求めています。
日本という国が黄色人の中で、唯一、西洋諸国と戦うことができた理由は大和魂にあります。
第二次世界大戦は敵国から見れば宗教戦争でした。
敗戦後は、GHQが真っ先に神道を廃止させ、今では日本国民は宗教にアレルギーが出る民族になってしまいました。
日本のルーツを知ることなくして、天命や使命はなく、天命や使命なくして豊かな人生はありません。
日本は本来、「神の国」です。そして日本人は本来、超スピリチュアルな民族です。
「いただきます」「ごちそうさま」の食事の挨拶も、本来は食材に対する感謝の気持ちの現れで、そこには八百万の神の信仰やアニミズムが根底にあるのです。
この「八田塾」を通じて、少しずつでも大和魂を取り戻して頂きたいと願っております。
ここまで学ばせて頂いたのに、まだ宗教的なものに対する警戒心が沸いてしまいます。
ユダヤ教はユダヤ人以外はゴイムであると教えていると聞いたことがあるからです。多分そこが自分の中で引っ掛っているのだと思います。
僕は今まで信仰というものを
そこまで重んじていませんでした。
しかし、偉大なことを成し遂げるためには
神のご加護が必須だと分かりました。
まだまだ未熟ですが、これから
古き良き日本の心を取り戻すために
信仰していきます。
ありがとうございます。
とても共感できました。
私は形ばかりの信仰者で、家族が安泰であれば良い、程度の信仰でありました。
正しい日本のルーツを学ばせていただくことで、
自分が生きていく意味をつかめるような気がいたしました。
真にありがとうございます。