ここでは、従属的な食べ物についての祝祷のルールを説明します。
基本的な原則は、ある食べ物が別の食べ物に従属する時、その従属する食べ物についての祝祷は、主要な食べ物についての祝祷に含まれるため、別途必要とはされないということです。
「食事中に祝祷を必要とする食べ物」でこの原則が適用される例を見ましたが、食事の間にパンに従属する食べ物を食べたとしても、食前と食後の個別の祝祷は必要とされませんでした。
このルールを技術的な観点と法的な観点から分析するために、このように質問してみましょう。
この従属の性質とはどんなものでしょうか。
たとえば、ニシンの塩気を弱めるためだけにパンを一欠片食べた場合、このパンは全く食べていないことになるでしょうか。
あるいは、このパンがニシンのレベルまで「格下げ」されるのでしょうか。
この問いを検討するために、ルールに付随されている様々な限定条件を見てみましょう。
メインの食べ物について祝祷を捧げるとき、従属的な食べ物もカバーする意図を持って捧げる必要があるとラビ・ガンツフリードは説明しています。
ということは、従属的な食べ物は別の食べ物と考えられ、結局、食べる前の祝祷において、特に意図されていない場合は別個の祝祷が必要になるということになります。
しかし、その重要性と地位はメインの食べ物と同じになります。
同様にキツール・シュルハーン・アルーフでは、従属的な食べ物が先に食べられた場合には、別個の祝祷が必要であると定めています。
ここでも、従属することで食べ物特有の重要性は無くなるものの、別々の食べ物としての個性は保たれていることが示唆されています。
「食事中に祝祷を必要とする食べ物」において、ユダヤ法は個人の見方をある程度尊重すると説明しました。
もし、パンをニシンに従属するものと思って食べるならば、法はその見方を正当なものであるとし、そのようにパンの重要性を調整します。
しかし私たちは、食べ物の個性と独立性を奪う力を持っているわけではありません。
「祝祷の掟」で説明したように、祝祷のおかげで私たちは楽しみの源と出会い、関わることができるのであり、無視することなく意識することができるのです。
ユダヤ法は、この世界を心から尊重しており、人々に世界と関わること、直面することを求めています。
トーラーは一人一人の人間に特有の個性と重要性を認識しており、(「完全なトーラーの巻物を書くこと」を参照)、それには劣るとしても、一つ一つの物体に特有の個性と重要性を認めています。
ある食べ物が他の食べ物に従属するとしても、特有の個性は変わらずあるのです。

有害な楽しみ
有害な食べ物について祝祷は唱えられません。
例えば、オリーブオイルを飲むことは有害であるため、普通これについて祝祷は唱えられません(飲むことが健康に良いことであれば、「果物のジュースと野菜のゆで汁」で説明したように祝祷は「木の実り」となります)。
人が楽しむことの全てが、ユダヤ法において「楽しみ」とされているわけではありません。
誰かが誘惑に負けて禁じられた食べ物を食べる時には祝祷はありません。
彼がその食べ物を楽しむとしても、その楽しみは建設的なものではありません。
同じように、健康を害するような食べ物を食べる時にも祝祷はありません。
私たちが世界の聖性を強化するために、一義的に使うものは私たちの身体的な活力です。
この活力に悪影響を及ぼす楽しみは、祝祷において認識される聖性との繋がりを作り出すようなものではありません。
初めてユダヤ人の生活にタバコが入ってきたとき、多くの人がなぜこのような素晴らしい楽しみについて祝祷が無いのか不思議に思いました。
結局、祝祷を唱えるのは匂いを嗅ぐことと食べ物を食べることについてなのです。
喫煙と嗅ぎタバコはこのうちの一つに当てはまるのではないでしょうか。
もしかしたら、これらの楽しみについて、祝祷を唱えないという習慣には、今日では健康に対して危険な行為であると見なされている状況に対して、予感めいたものがあったのかもしれません。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
この学習をする前に、丁度一服して来たところでギクリとしました。全ての嗜好品と喫煙に関しても良い面と悪い面がありますね。私は祝祷があった方が良いのかなと感じております。