平日には、夜のシェマーに続く最後の祈りは「彼の民イスラエルを永遠に守られる方」と結ぶ。
シャバットにはこの結びの祈りが、「彼の民イスラエル全ての上、そしてエルサレムの上に平和の覆いを広げてくださる方」と変わる。
このように変化する理由は、シャバットはユダヤ人が特別に守られる日であり、外的な危険に悩まされることのない日だからです。
代わりに、主が私たちの上に「平和の覆いを広げられる」ことを強調します。
外的なものに煩わされることから一時的に逃れることが許されることで、私たちは内なる調和に意識を向けることができるのです。
しかしこの説明では不十分です。
シャバットにいくつか守ることについての慣習があることは分かります。
たとえば、夕べの祈りの後に祈りの儀式を引き延ばすために「マーゲン・アヴォート」という特別な祈りを唱え、祈りを遅く始めた人やもたついてしまった人が一人でシナゴーグに取り残されないようにします。
また就寝時に唱える特別なシェマーは、夜間に受ける精神的な悪影響から身を守るために唱えられます。
これらの行為はより完全な神の守りがある時間であるセーデル(過越祭の晩餐)の夜には習慣的ではありません。
ペリシャの注釈では、安息日の守りには私たちの参画が必要であると説明しています。
シャバットは、シャバットを守る者だけを守るのです。
シャバットにおいて私たちはより聖性が高まり、守られる存在に向上します。
このように向上するためには私たちの側から参画することが求められ、一定のレベルに達しない人はやはり特別な守りを必要とします。
シャバットの祈りは私たちが「その上で」安らげるように、主に対して彼の聖なるシャバットを与えてくださるよう願う。
ヘブライ語では、「シャバット」という語は男性形も女性形も取り得る。
多くの共同体では夜に女性形(bah)を使い、朝に男性形(bo)を、そして午後に複数形(bam)を使うことを習慣としている。(「それらの上で」安らげるように、主に対して彼の聖なるシャバットを与えてくださるように願う)
以前、シャバットに広く見られるテーマである二面性について紹介しました。
十戒には、思い出すことであるザハーと、見ることであるシャモアがありました。
キドゥーシュにおいては天地創造の記念と、エクソダスの記念がありました。
労働に対する制限と、身体的に楽しむことがありました。
私たちが議論した対になるものの一つが、シャバットの男性形と女性形です。
この特色ある対はヘブライ語それ自体に由来します。
他の多くの名詞と異なり、ヘブライ語の「シャバット」は男性形も女性形も取り得るのです。
シャバットのザハーの側面が十戒の一つの説明において強調され、シャモアが別の説明で強調されているように、また同時に唱えられることで一体性が強調されているように、シャバットの女性的な面は夜の祈りにおいて強調され、男性的な面は朝の祈りにおいて強調され、その一体性は午後の祈りであるミンハーにおいて強調されています。
より受動的な、女性的な面が特に夜に表現されるのは自然なことです。
夜は静寂で、受動的な時間です。
さらに言えば、たとえ平日であっても夜は働く時間ではないため、働くことへの制限はそれほど明確ではありません。
日中は、通常であれば仕事のために動いている時間ですが、これを慎むことに「能動的」であると言えます。
シャバットの午後のミンハーの時間は、仕事を終える時間であり通常であれば弱さの時間へと繋がる頃合です。
シャバットにおいては最終的に休息日の効果を取り入れて、シャバットの二つの側面を両方とも表現することができます。
ベイト・クネセトにおけるキドゥーシュ
祈りの終わりにはシナゴーグでキドゥーシュを捧げることが習慣である。
元々は、ベイト・クネセト(シナゴーグ)におけるキドゥーシュは、シナゴーグで眠り、シャバットの食事を摂る貧しい人々のためのものでした。
今日ではシナゴーグに旅人が留まることはあまりありませんが、習慣が残っています。
その由来から、このキドゥーシュは共同体に貧しい人々の物質的、精神的な求めを満たす責任があることを思い出させます。

シャバットの朝に遅く起きること
シャバットの朝の祈りは通常よりもいくらか遅く始めるべきである。
平日において睡眠は単に神へのお勤めの準備に過ぎないので、私たちは睡眠時間をできるだけ短くすることを望みます。
しかしシャバットにおいては、睡眠もシャバットを楽しむことの一部ですから、これはまさに神へのお勤めの一部となります。
ですから会衆に余分の睡眠を許すために、祈りの時間を遅らせることは適当なことです。
シャバットにおける三つのアミダーの祈りの文言
アミダーの中間の祈りは、平日でも休日でもシャハリート、ミンハー、マアリーブ全てで同じ文言である。
しかしシャバットにおいてはそれぞれの祈りに特有の文言がある。
マアリーブにおいては「あなたはあなたの名において、天地の創造が成就した日として第七日を聖別された」と始める。
シャハリートにおいては「モーセは彼の割り当てを喜んだ」と唱える。
ミンハーにおいては「あなたはただ一つでありあなたの名はただ一つである。
あなたの民イスラエルのように、ただ一つの民たる民があるだろうか」と唱える。
アルバア・トゥーリームは、この三つの文言が三つの異なる安息日に対応していると説明します。
マアリーブの祝祷は世界の創造に言及していますが、これは主が創造の第七日に休まれたシャバット・ベレシートに対応します。
シャハリートの祝祷はモーセがトーラーを受け取ったことに言及しており、これはシャバット・マタン・トーラーに対応します。
この日は、主がモーセとユダヤの民にトーラーを伝達され始めた日で、安息日でした。
そしてミンハーの祝祷は完全な単一性に言及しており、将来のシャバットである「全てがシャバットとなる日」、すなわち贖いが完成した後に来る完全な世界に対応します。
この枠組みは、シャバットにおける他の時間についての慣習を理解するためにも役立ちます。
たとえば、多くの共同体で夜にはシャバットを女性形で、朝は男性形、午後には複数形で言及すると先に指摘しました。
これはアルバア・トゥーリームの説明に合致します。
創造の営みは七日目ではなく最初の六日間に成されたのですから、天地創造のシャバットは省略の意味を持ちます。
これは、しばしば受動性を象徴する女性性に対応します。
一方で、シャバット・マタン・トーラーは、トーラーを与えるという能動的な性質を持ちます。
これは男性性に対応しています。
そして神の単一性が実現する将来のシャバットは、この二つの側面を併せ持ちます。
他にもいくつか例があります。
トーラーのシャバットを「思い出す」という戒律(ザハー)は一義的には金曜夜のキドゥーシュで満たされますが、アルバア・トゥーリームはこれを遠い過去のシャバットと結びつけています。
トーラーが読まれるのは主に朝ですが、これはトーラーが与えられた日のシャバットに対応します。
そして未だ訪れぬメシアの時代に至るまでの辛苦から私たちを解放するためにシャバットを楽しむというオネグ・シャバットのミツバは、午後に食べられるシャバットの特別な食事に例示されますが、午後の時間は将来のシャバットに対応します。
この順番にはまた、美しい教育的なメッセージがあります。
仕事を休む日であるシャバット・ベレシートがシャバット・マタン・トーラーよりも先にあるのは、どんなに重要な仕事であれ、平日の仕事に忙殺されている人はトーラーを授かるに値しないからなのです。
トーラーを手にするために必要な精神の平穏は、世俗からある程度距離を置くことによってのみ得られます。
トーラーが世俗的で実務的な探求が中断されるシャバットに与えられたという事実は、これが日々を規則的に過ごすためだけの「平日のトーラー」ではないということを思い出させます。
そうではなく、トーラーは超越的なものであり、私たちをより高い精神的な世界に、最終的には主に結びつけるためのものなのです。
そしてシャバット・マタン・トーラーがシャバット・ハーティド(将来のシャバット)より先にあるのは、ただただ私たちの贖いはトーラーによってのみ実現するものだからです。
どんな世俗のイデオロギーも世界を永続的に向上させ、変容させることはできません。
ただ、神のトーラーだけがこの力を持つのです。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
タルムードと神道(45):トーラーの巻物を書くこと、トーラーの本を得ること
タルムードと神道(79):特別な助けに対する感謝とその助けを求めること
タルムードと神道(84):融資におけるパートナーシップ上の許容
我々人類はシャバットへと向かう長い物語のそれぞれが役割を持った登場人物なのかも知れませんね。ゴールは明日かもしれないし、10億年後かもしれない。全員で到達しなければ完結しない物語なのだろうなと思いました。