同じ祝祷を必要とする食べ物は普通まとめて一つの祝祷で済ますことができます。
しかし、祝祷を唱えた時に特定の食べ物を対象に含む意図が明確に無かったとしたら、その食べ物は対象に含まれず、個別の祝祷が必要になります。
客人
客人が食事を終えると決めたのであれば、主人がさらに食べ物を持ってきたとしても、新たな祝祷を唱える必要はありません。
ユダヤ法では、客人の意識は常に主人が出してくれるもの全てについて心の準備ができていると考えています。
言い換えれば、客人は主人にメニューを任せているのですから、何であれ新たな料理が出てくることを、全く想定していないという状況にはならないということです。
リショーニーム(中世初期の権威たち)はこのルールについて、客人の判断は他人の家においては何の意味も持たないため、客人が自分の食事を終えると決めたとしても、食事自体を止める必要は無いという原則に基づいているのではないかと推察しました。
このルールは客人に対する敬意を反映していると同時に、客人が主人に依存していることをも反映しています。
客人に何を供するかを決めることは、主人の責任であるだけでなく、主人の権利でもあるのです。
客人が自由にできるものは、その家には何もありませんから、客人は自分自身の面倒を見ることができません。
タルムードでは、客人は自身が受けている敬意を認識すべきであり、客人の居心地の良さのためだけに、主人が尽力していることを認識すべきだとしています。
また、客人は主人の指示に従うべきだとも言っています。
私たち全てが、この世界においては、ただの客人に過ぎないということを思えば、このルールは示唆に富んだ教訓を持っていることになります。
この世界は私たちのものではなく、創造主のものであり、私たちはほんの短い時間この世界に訪れているだけです。
私たちは主に完全に依存し、主は反対に私たちに十分な生活の方便を与えてくださいます。
私たちが主人であり、世界が私たちに仕えているなどと考え違いをしてはいけません。
私たち自身の決断に意味はありますが、決定権のあるものではありません。
「計画を立てるのは人、成敗をつけるのは神」なのです。
私たちには、主が授けてくださった創造の力に感謝し、この能力を使いこなすために主のご指示に従う責任があります。
トサフォート(中世のタルムード注解書)では、この考えを特定の法の取り決めにも当てはまるように拡張しました。
もし、誰かが食事を終えると決めても、法に従えばもっと食べなければならないような場合は、これはあたかも客人が食事を終えると決めて、主人(この場合は主なる神)がもっと饗応したいと考えているようなものなのです。
この理由からトサフォートでは、過越祭のアフィコマン(過越祭のセーデルの晩餐においてデザートとして食べるクラッカー状のパン)を食べる前に、最後の祝祷を唱える人は、本当の意味で食事を終えられていないのため、追加の祝祷を唱えることは不要だが、アフィコマンは食べることになるとしています。

本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
自分たちはこの世界の主人ではなく、客人であるという事を再認識しました。
ネイティブアメリカンの世界観のなかに、「大地は子孫からの借り物である」という記述がありますが、よく似ています。食事の祝祷の解釈ひとつで世界観まで表現できるタルムードの奥深さに驚きです。