ここでは「禁じられた食べ物」について解説しますが、扱われるのは血、乳と肉を食べ合わせること、病気や怪我をした動物(トレイフォート)、虫の四つの品目だけです。
食べ物について最も重要なことは、特定の種類の動物、鳥、魚しか食べることが許されていないということです。
哺乳類のうち、許されているのは反すうするもので、かつ割れた蹄(ひづめ)を持つものです。
「危険な行い」で説明したように、大人しい草食動物がこれに含まれます。
鳥については、嗉嚢(そのう)と砂嚢(さのう)を持つ種類の鳥は許されると賢人たちは教えました。
哺乳類のうち、馬、サイ、牛、鹿・猪などの足先にある堅い角質の爪。
動物の消化管の一部で、食道に続いた部分が膨らみ、食物を一時的に滞留させる働きを持つようになった部分。

鳥類の胃で、前胃の後ろにある部分。砂肝ともいう。

実践的に言えば、捕食する鳥と死肉を食べる鳥はここに含まれません。
そのため、許されている鳥が持つ象徴的意味は哺乳類の場合と似ています。
この考え方は、血が禁止されている理由、すなわち攻撃性を取り入れ、同化することを避けるという考えにも近しいです。
食べることが許されている魚の意義については「危険な行い」で議論しました。
全ての昆虫と爬虫類は禁じられている。イナゴの一部の種類のみが例外的に許される。
トーラーはこの戒律の二つの理由として、忌まわしさと汚れを挙げています。
あなたがたはすべて這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。
また、これをもって身を汚し、あるいはこれによって汚されてはならない。
タルムードでは、この両方の理由に対して洞察を加えています。
一点目の、忌むべきものとならないようにという理由については、多くの戒律において主はエジプトから「連れ出した」お方として描かれているのに、虫を禁止する戒律に関しては、エジプトから「連れて上った」と言及されており、これはこの戒律がよりレベルの高い、文化的な行いの象徴であるからだと述べています。
実際、今日の西洋文化においても、虫を食べることは忌むべきこととされています。
二点目の、汚れないようにという理由については、ターメイ(儀礼的に汚れた)とタムテム(麻痺させる)の言葉の上での類似性を指摘しています 。
これは、虫を食べることで感覚が鈍くなり、一点目の理由を助長することを暗示しています。
あらゆる人間は生まれながらの尊厳と品位についての感覚を持っています。
しかし、繰り返しこの感覚に背くような行いをしていれば、自然とこれを鈍くし、弱体化させることになるでしょう。
誘惑とはこのように作用するものなのです。
よく弁えた普通の人に罪を犯させるのは難しいので、まずはその人の正しいことへの感覚を少しずつ揺るがす必要があります。
虫を食べることはこれを忌まわしいと思う普通の感覚を弱めるので、これが回り回ってその人の精神的な感覚一般を弱めることになるのです。
乳と肉
コーシャーである動物の乳とともに調理されたコーシャーである動物の肉を食べること、あるいはそのような肉から利益を得ることさえも、トーラーによって禁止されています。
調理自体もまた禁止されています。
賢人たちは、この戒律が鳥類も含んでいると拡大解釈し、さらに同じ食事の中で肉と乳を食べることも禁止であるとしています。
トーラーでは異なる三つの箇所で、「母親の乳で子を調理してはならない」と命じています。
この教えは、最初の果物の戒律と共に、次には死肉を食べる動物を食べないことと共に登場します。
賢人たちは二つの無関係に見える記載が、肉と乳を食べることとそこから利益を得るという要素を、調理に関する禁止事項に加えたのだと推測しています。
ほとんどのユダヤ人にとって、肉と乳の食べ合わせの禁止は日常的な懸念事項です。
ラビによる解釈の拡大と合わせてこの法は重要なものとなっており、だからこそ現代のラビの職位授与式の基本カリキュラムの中心部分を構成しているのです。
この禁止事項は許容されている全ての動物の肉と乳について適用されます。
しかしながら、ミツバの中のメッセージは「子牛を母牛の乳で調理してはならない」という元の言葉から来ています。
これには明らかに不調和な部分があります。

乳は子供に命を与えるために母親によって作られたのに、同じ乳によって今度はその子牛が死ぬことになるからです。
母親がその子孫を養うために作った乳が、その子孫を屠殺した者を食べさせることになるのです。
これではまるで、人間が親愛の情ではなく死と残酷さ(屠殺された子牛と、その子を母親から奪う)が持つ力を養っているかのようです。
同じくトーラーによって禁じられている、あらゆる乳とあらゆる肉を食べあわせることについての禁止にも、これと関連したネガティブな象徴的意味があります。
次のアプローチはブラツラフのラビ・ナタンの説明に基づくものです。
動物を食べることは、ごく自然に多くの異教徒の文化においてそうであるように、獣の性質を取り込んで同化することを象徴します。
コーシャーの肉を定める法は、これらの卑しい性質を克服するという象徴的意味を伴っています。
ユダヤ人は温厚な反芻動物のみを食べます。
一度飲み下した食物を口の中に戻し、噛み直して再び飲み込むこと。
一度胃内に飲みこんだ食物を再度口に吐き戻して咀嚼(そしゃく)した後に、改めて消化すること。牛、羊、鹿、キリンなどが行う。
※繰り返し考え、よく味わうことを「先生の言葉を反芻する」と言ったりする。
彼らを叩き切ったり、狩ったりせず、素早く人情を持って屠殺します。
何より動物の低劣な、獣そのものの性質を象徴する血を、塩を振ることで取り除きます。
そして、肉は調理されずに食べられる可能性もありますが、タルムードでは肉が持つ天性の強靭さを克服するために、よく調理されたものを食べるのが最も良いとしています。
反対に、自生している野菜のような、イスラエルの地の外では一般に法の対象となっていない「中立的な」食べ物もあります。
乳は独特な中間的な位置を占めています。
ユダヤの伝統によれば、乳は獣性の究極の化身である血からできているとされます。
しかし、ひとたび乳になってしまえば、それ以上の手間をかけることなく許容される食べ物となります。
明らかに、血が持つネガティブな象徴的意味が克服されるのです。
乳が動物の血と肉から身体的に解放されて別途乳房に集められるように、獣性の汚名からも解放されるのです(世俗の文化においては、他にも似たような中間的な地位が与えられています。乳が野菜と同じカテゴリーに入れられるのです。少数派はヴィーガンであり、彼らは乳を肉となんら変わらない、動物性の生産物であるとしています)。
それにも関わらず、乳は動物性の食べ物です。
結局のところ、許容されている動物の乳でなければならないのです。
これは、乳に潜在的な血のような性質が残っており、肉と再び合わさることによって再び目覚める危険性があり得ることを示唆しています。
類似の象徴的意味が逆の方向にも適用されます。
血を排除するために、肉に塩を振ることで、肉が持つネガティブな性質を懸命に制圧しました。
血から作り出された乳と再びあわさることは、潜在的な獣の血に飢えた性質を再び呼び覚ますようなものです。
これは特に、肉と乳を一緒に料理するときに顕著です。
この肉の性質を飼いならすためのプロセスが、一方では野性への後戻りを手伝うことになるのです。
道徳的な教訓
乳と肉は一般的な道徳の原則のメタファーです。
屠畜された動物の乳と肉はそのネガティブな性質が抑制されていますが、完全にそれらを超越したわけではありません。
それゆえ、正しくない環境に置かれると、潜在的な欠陥が再び目覚めることもあり得ます。
同じように、良くない性質をなんとか克服した人も、ネガティブな影響が出ないように特別に気を配る必要があります。
普通の人ならカクテルパーティーにおいて飲み過ぎる誘惑に対して簡単に抵抗できるでしょうが、更生したアルコール中毒患者であればこのような集まりの一切を避ける必要があります。
さもなければ自分自身を、そしてパーティーをも台無しにしてしまう可能性があります。
許容されたものと禁じられたものとの食べ合わせについての法
明らかに大量の許容された食べ物の中に混じった少量の禁じられた食べ物は、無いものと考えられ、混ぜたもの全体が許容される。
しかし禁じられた食べ物が許容された食べ物の六分の一より多い場合は、逆に全体が禁じられた食べ物となる。
これは、禁じられた食べ物特有の香りを見分けられないからである。
ここに示されている重要な概念は、「味は実体のようなものである」という考え方と、「無化」という考え方です。
これらの概念は、重要な象徴的意味を統合するものであり、ペサハ(過越祭)の法の中で議論します。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
高度成長期からの日本は飽食の国だったと思います。利益のための生産性しか考えない畜産方法に疑問を感じモヤモヤしておりましたがモヤモヤの答えがここにありました。神の恵みに対する礼儀を欠いているという事なのだと思います。