タルムードと神道(28):祈りの準備

これからユダヤでの祈りについて説明しています。

祈りについての決まりごとを理解するために基本的な考え方をいくつか紹介します。

祈りの中心的な要素は、主の前に立ち、自分自身の願い事をすることです。

このシンプルな考えによって、心の奥深くにある信心が具体化されます。

一番根底にあるのは、主が私たちの求めていることを気にかけてくださっているということです。

主は遠く離れた存在でも、抽象的な最初の起源でもなく、恵みを与え給う寄留(本居ではなく他所に住むこと)の異邦人を愛して、食物と着物を与えられる方なのです。

しかし、主の恵みは他の物言わぬ者たちにももたらされます。

「あなたは手を開いて、すべての生けるものの願いを飽かせられます」

神の導きは、ただ求めれば得られるものではなく、祈りに基づいて得られるという事実は、主が私たち人間との繋がりを望んでおられることを示しています。

主は、私たちが主の存在を認めた上で、求めを携えて主の元に立ち帰ることを望まれています。

祈りは言葉として発せられるものであり、人間だけに許されたこの発話という才能によって、主は私たちと繋がることを望まれているのです。

祈りの際、私たちは自分が求めるものを明瞭な言葉にする必要があります。

望むものは何であるのかを自分で定義することを、主は求められているのです。

祈りが持つこのような側面は、ヘブライ語で「祈り」を意味する「hitpallel(自分を振り返ったり、自分を知ること)」に表れています。

多くの賢人たちは、この語が「見分ける」を意味する「pallel」に語源を持つと考えています。

つまり、祈ることとは自分を見定めて、自分が何者なのかを発見する行為なのです。

ラビ・クックは祈ることを「berur hachayim」・・・つまり人生を整理することであるとしています。

普段の言葉の使い方から、この考えが正しいことが確認できます。

例えば、誰かに「何が欲しいですか」と尋ねたとしたら、その人は現在の状況に基づいて表面的な望みを言うでしょう。

しかし、「何のために祈りますか」と尋ねた場合、個人のアイデンティティに直結するような深い願望を、包み隠さず打ち明けると思います。

個人のプライベートな祈りについて考えるならば、これまで説明したような考え方は理解できるでしょう。

では、民族全体としての精神的な求めにも言及するシュモネー・エスレー(18の祈祷)のような、決められた祈りについてはどうでしょうか。

こうした祝祷は、民族全体の一般的な願望を私たち自身の一部として考えるために、私たち個人のアイデンティティに同化させます。

祈りについての法を扱うこの章と次の章において、このテーマは繰り返し登場します。

すなわち、共同体の文脈に沿って個人のアイデンティティを形成し、表現するというテーマです。

そのため、祈ることを通して、私たちはアイデンティティを発見し、心の中を明らかにし、ついにはアイデンティティを作り出すことになります。

このプロセスの一部として、個人と共同体の関係、そして個人と民族全体との関係を明らかにするのです。

 

祈るために適切な服装

祈りを捧げる時には、重要な人や権力を持つ人と会う時のような衣服を着なければならない。

きちんとした服装をすることで、心持ちを整えることができます。

威厳ある衣服は、私たちの主に対する畏怖を表すだけではなく、私たちの個人としての価値を強調します。

衣服には威厳が必要ですが、贅沢にしてはいけません。

祈りを通して自身の在り方を定めるので、他の誰かのようになることを目指すのではなく、可能な限り自分らしくあることを望みます。

男性は、それが習慣化されている場所では特に帯を着用すべきである。

帯は身体の上半分と下半分を分けるものです。

この区別を認識することは誠実であることを示します。

私たちの身体は有機的に繋がった1つのものですが、力を発揮するために身体のそれぞれの部分が異なる役割を担っていることも認識しています。

心臓と脳が主導的な役割を果たし、これより下に位置する部位は、それを支援し、従属する部分です。

 

喜捨をすること

祈りの前に喜捨(=「きしゃ」とは、神社や仏閣、貧困な人や僧などに進んで金品を寄付すること)をすることは正しいことである。

喜捨は、私たちの個人的な祈りが共同体の文脈と繋がっていることを示す1つの方法です。

自身のために祈る前に、他の誰かの求めに思いを馳せることになるからです。

特にこれは、祈りが持つ個人的な要素でさえも共同体の中に位置付けられるということを示しています。

国を追われた人々を再び集めるための祈りや、神殿を建てるための祈りは、明らかに民族全体のことを考えたものですが、「子ども、健康、日々の方便」のように、より現実的な欲求となると、そこには共同体のことを考えた内容は見当たらず、誰もが自分のことだけ考えているという状態になります。

祈りの前に喜捨をすることで、私たちは主に対して、個人的な事柄でさえも他人との繋がりを忘れず、皆が皆のためを思っていることを示すことができます。

こうすることで、私たちは個人的な求めを共同体としての祈りに結びつけることになります。

また、前述したような世俗的な要求の成就において、ユダヤ人全体(あるいは人類全体)に対する主の特別な祝福があることを表します。

 

身体の清浄さ

排泄物があるところで祈ることが駄目なことは勿論、尿意や便意を感じているときも駄目です。

排泄物が持つ否定的な象徴的意味、また聖なるものに近づくときには清浄であるべきだということについては前にも説明しました。

祈るときには作法に気を配る必要があり、とくに清浄さは重要になります。

 

手を洗うこと

汚い手のままで祈ることは駄目です。例え手が綺麗だとしても、祈りの前には手を洗うことが望ましいとされます。

清潔な手は、道徳的な義務を全うしていることの表れです。

祈りの前に手を洗うことは、正しい作法が精神の称揚(=「しょうよう」とは、価値を認め称賛すること)の基礎であることを表しています。

 

ミニヤン(定足数)で祈ること

ミツバを満たすには定足数(会議で議事を進め議決するために必要な人数)である10人の大人が一緒に祈る必要がある。

定足数で集まって祈ることは、主に対する請願において、私たちが結束していることを示すもう一つの方法です。

この請願には、離散したユダヤ人の結集やサンヘドリンの再興などが含まれますが、同様に「子ども、健康、日々の方便」といったプライベートな請願も含まれます。

タルムードでは、定足数で祈ることを「共同体としてのミツバ」としています。

つまり、その場にいない人を含めた、共同体全体としてのミツバであるように読めます。

タルムードの別の記述では、会堂での祈りは公の場で祈ることのできない人を除くことができるとしていることからも、この理解は正しいと言えます。

この記述に基づいて、近代の偉大な権威であるチャゾン・イシュは、ミニヤンの必要性を次のように説明しています。

あらゆる共同体は、その中から10人を選び出す義務を持つ

その10人は全会衆の祈りを代表します。

ここで注目すべき重要な点は、主の御名が個人によってではなく、共同体の祈りによって聖別されることです。

主の御名と存在は全てユダヤ人の上に安らがれ、「この民は、わが誉を述べさせるために私が自分のために造ったものである」と主は言われます。

実際にラビ・ヨセフ・ドフ・ソロヴェイチクは、定足数での祈りは、その地域の共同体を代表するだけでなく、イスラエルの全会衆を代表していると説明しています。

主の御名は、民族全体、すなわちイスラエルの全会衆によってのみ聖別することができます。

しかしながら、実際には全ての世代の会衆をひとところに集めることはできないため、「会衆」という概念を10人のイスラエルの民に適用するという法が作られたのです。

ラムバムの次の言葉からも、それを察することができます。

イスラエルの民が10人集まれば、それは会衆と呼ばれる

その10人がイスラエルの全会衆の使者であり、代表者なのです。これを「ミニヤン」と言います。

 

ベイト・クネセトで祈ること

たとえミニヤンに満たない場合であっても、常にベイト・クネセト(現在のシナゴーグを指す)で祈ることが望ましいとされます。

ユダヤ人の信仰の場はベイト・クネセトと呼ばれます。

この言葉は人々が集う場所を意味しており、祈りの場所という意味ではありません。

このことは、ユダヤ人の信仰が本来共同体に根差したものであることを思い出させてくれます。

主は民族としてのユダヤ人と契約を結ばれ、トーラーを与えられたのであり、ユダヤ人の伝道は民族としてのものなのです。

逆もまた然りで、真のユダヤ人の集まりとは本来、主の御名を褒め称えるための集まりなのです。

一見世俗的に見えるような求めも、民族全体からしてみれば、この世において主の御名を聖別するための一つの手段に過ぎません。

共同体があってこそ個人が存在するというメッセージです。

定められた祈りの中、祈りの準備として喜捨をすることの大切さの中、または会衆とともに祈ることの大切さの中で見て取ることができるように、このメッセージはユダヤ人の信仰そのものに反映されているのです。

 

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

2 件のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    日本は共同体というものが年々無くなってきているような気がします。自分さえ良ければ・・的な社会になりつつあるように思えます。ユダヤのように教育がしっかりとしている社会は素晴らしいですね。

  • 伊藤 より:

    今回の学びでは、日本のお祭りを思い浮かべました。
    規模の大きいお祭りでは、各地域が競い合って神輿を担ぎ、また多くの人たちが神社に参拝し楽しみます。
    お賽銭や寄進もありますね。
    ただ、戦前の日本人ならば、共同体の祈り(国や地域の繁栄や神への感謝の祈り)が当たり前のようにあったのでしょうが、
    今は我が身我が家の事ばかりになってしまっているのでは・・と感じます(自分もそうですが)。

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