非ユダヤ人が料理した食べ物を食べてはならない。
これは特に何らかの重要性を持つ食べ物に適用される。
ユダヤ人が火に薪をくべるなど、ほんの小さな部分でも料理に参加していれば、その食べ物を許容するのに十分である。
しかし売るために焼かれたパンは、他のパンが手に入らないのであれば食べても良い。
食事を共にすることは、強固な人間関係を作るために必要なことなので、こうした禁止事項は非ユダヤ人と関係を築くに当たっては厄介な条件となります。
これこそが、これらの禁止事項がある理由なのです。
賢人たちは非ユダヤ人の隣人たちと互いに助け合い、親愛の関係を作る必要があるとする一方で、過度な親密さは人種間の婚姻に結びつくことを懸念していました。
これは、パン屋が焼いたパンを食べることについて大らかであることの理由の一つです。
売るために焼かれたパンであれば、それを食べることで親密さが増すということは考える必要がありません。
禁止事項は料理された食べ物にのみ適用されます。
料理することは濃密な感情的経験を意味します。
非ユダヤ人の隣人たちとの正しく、温かい人間関係を作ることは適当なことであり、望ましいことです。
感情が熱を帯びるようなより親密な関係については、大いに気を配る必要があります 。
人種間の婚姻の禁止
人種間の婚姻への嫌悪は、ユダヤ教の、あるいはユダヤ人の最も有名な特徴の一つです。
世俗化したユダヤ人による共同体組織でさえ、同化の問題に対処するための研修や評議会を開催しています。

信仰の希薄化
人種間の婚姻についてはいくつかの懸念が表明されています。
最も顕著な懸念は、非ユダヤ人の配偶者がトーラーを正しく守ることから引き離すということです。
トーラーではこのように言っています。
彼らと婚姻をしてはならない。
あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。
彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。
それは彼らがあなたの息子を惑わしてわたしに従わせず、ほかの神々に仕えさせ、そのため主はあなたがたにむかって怒りを発し、すみやかにあなたがたを滅ぼされることとなるからである。
たとえ非ユダヤ人の宗教が一神論を伝え、モーセの啓示の価値を信じているとしても、信仰のあるべき道とその啓示の正しい理解からは程遠いです。
ユダヤ人にとって、モーセのトーラーの神髄であり継承者である賢人たちの言葉は、大抵非ユダヤ人にとっては、せいぜい霊感のありそうな部族の言い伝え集でしかありません。
ユダヤの教えについて好意的に見ている配偶者でさえ、イスラエルの本当の信仰からパートナーを、特に子供たちを遠ざけてしまうような深刻な考え違いをしているに違いないのです。
この懸念は、非ユダヤ人が作った食べ物についての禁止事項においても見ることができます。
賢人たちは普通の食べ物を禁止する理由を、「彼らのワインが理由であり、ワインを禁止するのは彼らの娘たちが理由である」と説明します。
なぜワインが出てくるのかと疑問に思うかもしれません。
ワインに限らず食べ物自体が、人種間の婚姻を促進するような親密さをもたらすものだからです。
ワインに対する禁止事項は、他の食べ物よりも一層厳しいです。
これは、ワインが偶像崇拝における供物であり、異教の神へ捧げられる酒であるという点への懸念に関係しています。
食べ物と人種間の婚姻がワインを通して結び付けられていることは結局、異教の信仰の象徴であるワインと結びつくことを懸念しているということです。
信仰で繋がった共同体からの疎外
もう一つの懸念は、ユダヤ人の配偶者が全ての戒律を守り続けるとしても、この順守の姿勢は共同体の一員としてではなく、個人的なものにならざるを得ないということです。
個人の共同体への同化は、その配偶者が信仰で繋がった共同体のメンバーでない場合は完全なものにはなり得ません。
ユダヤ人にとってミツバを守ることの最大の意義は、個人的に神の命令に従うことではなく、主なる神とユダヤ人全体としての契約の証を示すことです。
戒律はこの契約でユダヤ人側に定められたものであり、主に対する忠誠を示すことがユダヤ人のやるべきことであり、戒律を守ることが即ち、主の名を世界に知らしめるという、主から委任された途方もなく大きな歴史的責任を全うすることなのです。
事実、ラムバムは次のように書いています。
共同体を離れるものは、何の違反も犯していないとしても、イスラエルの会衆から自身を切り離すことになる。
彼は一般的に戒律を実行しない者であり、彼らの悲しみに寄り添わず、共に断食することもない。
そのかわり、彼はこの世の他の民族のように、まるで共同体の一員ではないかのように自分の道を行く。
来るべき世界に彼の居場所は無い。
ここで「一般的に」というのは戒律について言っていると思われ、つまり彼は完全な信仰の体系の一部としての戒律を実行せず、主とイスラエルの民との間の超越的な契約の表れとしての戒律を実行していないということです。
ことによると、会衆「一般」のことを意味しているのかもしれません。
その場合、彼はミツバを純然たる個人の義務と考えていることになります。
いずれにせよ、別の人種と結婚したユダヤ人の多くが陥るであろう、共同体との気持ちが半分離れたような同化状態は、いずれ彼らを「共同体を離れる者」の方に導くでしょう。
配偶者からの疎外
トーラーでは、イブがアダムの脇腹から創られた後、主なる神が、男は妻に忠実であり、「一体となる」べきであると命じられたとしています。
結婚の理想とは、二人の人間の間の契約や協力関係のようなものにあるのではなく、二人の人間が合わさって出来上がる、一つの結婚した夫婦、一つのユダヤ人の家族という新たな一つの人間性にあるのです。
そうした一体化はユダヤ人と非ユダヤ人の間では生まれません。
主との契約に連なる人とそうでない人との間には、心理学的であり精神的な、強固な障壁があるのです。
ユダヤ人とその使命に対するどんな同情も理解も励ましも、一人の人を「内部者」にすることはできません。
新たに誕生するか改宗して、信仰で繋がった共同体の一員になることでのみ、内部者になることができます。
そして非ユダヤ人と結婚するユダヤ人は、特にユダヤ人としてあることの中心的な部分、つまりはシナイ山における固有の契約によって作られている創造主との繋がりにおいて、異教徒の配偶者に対して疎外感を覚えるような結婚生活を避けがたく経験することになります。
ユダヤの法はこの考え方を、ユダヤ人と非ユダヤ人の本当の意味での「結婚」はただ単に禁じられているわけではなく、そもそも不可能であると定式化しています。
魂の契約によってなされる、妻の夫に対する究極の繋がりは、ユダヤ人と非ユダヤ人との間では成立しないのです。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
多くの種族の血が入り、神を遠ざけるような教育をされてきた現代人(日本人)には少し耳が痛い学びだと思います。しかし何か深い意図があって極秘の仕掛けが施されたのでしょう。その秘密の片鱗に触れられて名誉に思います。