シャバットの食事の前に、ワインの杯を手に取り、シャバットの始まりを聖別するためにキドゥーシュの祝祷を唱える。
「シャバットの明かり」で説明した通り、キドゥーシュの始まりにはロウソクを見るのが習慣です。
一般的な慣習としてはキドゥーシュの最初の部分である、聖書の最初のシャバットの節を立って唱えた後、座って祝祷を唱える。
シャバットは、主が六日間かけて世界をお創りになり、七日目に休まれたことの暗黙的な証拠です。
しかし、キドゥーシュにおいてはトーラーの中の創世の完成と神の休息を扱った節を唱えることによって、これを明示的な証言とします。
証言を証言たらしめるための一つの原則は、証人は立たなければならないということです。
こうすることで厳粛な雰囲気が作られ、これが普段のおしゃべりではなく、重大な結果をもたらす特異な行動であることを強調します。
私たちが神による世界の創造を証言する時も、同じ姿勢を取ります。
しかし、キドゥーシュは食事の直前に唱えられなければなりません。
キドゥーシュが食事と繋げられる必要があることを示すために、キドゥーシュの祝祷のためには座ることが適当です。
キドゥーシュの間、ハッラーを覆うこと
キドゥーシュを唱える間、ハッラーのパンは布で覆われていなければならない。
この習慣については二つの理由が挙げられています。
一つは、パンがワインに先を越されて「恥をかかされる」からというものです。
パンはワインよりも重要なものであり、ベラホートについて言えば、ハモツィの祈りはワインの祝祷に優先します。
もちろんパンには何の感情もありませんが、私たちはパンを差し置いて先にワインの祝祷を唱えることで、パンの特別な地位を無視したくないのです。(これは、トーラーから何も学んでいない時に聖書を閉じたり覆ったりする理由と似ています)

もう一つの理由は、伝承によれば露に覆われて守られていたという、マナを思い出すためというものです。
マナはシャバットに密接な関わりがあります。
創世記の冒頭において、トーラーが主の第七日に対する祝福と聖別について書いている箇所で、ラシは、主がこの祝福をマナによってなされ(金曜日にはシャバットの準備のために倍量のマナが降ったから)、聖別もマナによってなされた(シャバットの当日にはマナは一切降らなかったから)と書いています。
最初の、創造の後のシャバットは、逆説的に私たちにマナのことを思い出させます。
すなわち、マナがあることで祝福され、マナが無いことで聖別されるのです。
ゾハールはこの逆説と向き合い、「その日には何の食べ物も無いのに、祝福があるのだろうか」と問いかけています。
そしてその節は、その他の六日間がシャバットによって食べ物を得ているのだと答えます。
ゾハールは続けて、この理由からシャバットには三度の食事を摂る必要があり、そうすることで平日においても同様に自分の食べ物が祝福されるのだと説明しています。
タルムードに見られる興味深い対比が、この難解な節を理解する助けになります。
マナの味を表す「レシャッド(練られた)」という言葉はまた、「胸のような」とも訳すことができます。
マナは、完全な食べ物である母乳に擬えられています。
これは、赤子が必要とするただ一つの食べ物であり、赤子が望むただ一つの食べ物です。
さらに、これを食べることによって赤子は母親に親近感を持つようになります。
同じように、マナはユダヤ人が必要とし、望んでいたただ一つの食べ物でした。
そして、これを食べることで主への親近感が湧きました(これは、主が父親ではなく母親に例えられている一つの例です)。
母乳の興味深い性質の一つは、「需要があれば供給される」、すなわち、赤子が乳を飲めば飲むほど多くの乳が作られるというものです。
赤子が育つにつれてより多くの乳が作られ、そして子供が必要とするものが変わることを反映してその構造が変わります。
もちろん、乳が作られるのは分泌腺とホルモンによるものであることは事実です。
ですが、どれだけの量の乳が作られるのかを知りたいと思ったら、分泌腺の機能を調べるよりも赤子の食べる習慣を調べた方が多くを得ることができるでしょう。
乳の目的は、間違いなくこれを飲む赤子の必要性を満たすことであるからです。
通常の環境においては、乳の量を増やす最善の方法は、母親の生理から何とかしようとするのではなく、赤子にお腹いっぱい飲ませて、成り行きに任せることです。
経済的な生産についても似たような見方をすれば、ゾハールの言葉を理解することができます。
商品とサービスが企業によって作られることは事実ですが、主なる神にきちんとお務めを果たすために食べ物を供給するという機能によって、そもそもの生産が決定づけられているのです。
私たちが主から直接乳のような食べ物を受け取る主要な機会がシャバットなのです。
シャバットは、物理的な心地よさがいちばん直接的に聖性に働きかける日であり、オネグ・シャバットのミツバを満たす時です。
ですから他のどんな日でもなくこの日が、労働のための六日間にどれほどの祝福が与えられるかを決定するのです。
工場や土地は生産の手段ではありますが、生産の源ではありません。
それらは私たちが、天から下された恵みを集めるための器に過ぎず、生活の糧である魚を集めるけれども作り出すわけではない、漁師の網のようなものです。
私たちの日々の平凡な食べ物を奇跡のマナに対比することで、経済的な組織は私たちの食べ物の源に近いものに過ぎず、実際に源であるのは主の恵みであるということを思い出すことができます。
持てるものを神の儀式で使い、神の戒律を守ってこそ、この恵を受けるに値します。
これは、与える日ではなく受け取る日であるシャバットが、どのように他の六日間が物質的な豊かさを生み出すための源になるかを説明しています。
シャバットはマナによって祝福されます。
なぜなら全てのマナは、特にシャバットに得られるような、人を楽しませる物質的な豊かさを神聖さのうちに作り出すために降るものだからです。
そして、シャバットはマナによって聖別されます。
なぜならその日にはマナが降らず、私たちは正しい心で神の恵みを受け取ることに集中することができ、そうすることでより多くの恵みが生み出されるからです。
食事に付加されるキドゥーシュ
キドゥーシュはシャバットの食事の時と場所においてのみ唱えられる。
リショーニームは「安息日を喜びの日と呼び」という節から、喜びは「呼ぶこと」、すなわちキドゥーシュを唱える場所にあるべきであるということを学び取っています。
「呼ぶこと」と「喜び」は、「シャバットの明かり」で議論したシャバットの普遍的な対の別の例です。
シャバットを呼ぶことは過去に遡ることであり、ザハーに繋がるものであり、天地創造を思い出しこれに言及するものです。
シャバットの喜びは将来を見通すものであり、シャモアに繋がるものであり、精神的に受け取ることになる将来の世界を予期するものです。
キドゥーシュ(呼ぶこと、思い出すことを象徴)が食事(喜び、予期することを象徴)を必要とするという要請は、思い出すだけでは、ほとんど価値が無いということを象徴しています。
神が六日間で世界を創造されたという主張それ自体は、単なる歴史的な事実です。
この事実が宗教的な重要性を獲得するのは、「シャバットの聖性」で説明したように、神が最終的に世界を贖うための基盤として認識された時のみです。
三度の食事と百の祝祷
タルムードの時代には一日に2回の食事を摂るのが普通でした。
聖書の一節に示唆されている、シャバットに3度の食事を摂るというルールは、オネグ・シャバットの達成のために、物質的な楽しみを増す必要があることを強調しています。
実際に、このミツバは主に三回の食事によって満たされると考えられています。
たとえ「百の祝祷」のミツバがシャバットにおいても形式的には平日と変わらないとしても、これを満たすことには大きく違いがあります。
平日においては、毎日の祝祷と祈りが自然にほぼ百のベラホートを達成します。
しかしシャバットにおいては、それぞれのアミダーの祈りにわずか七つの祝祷しか無いのです。
ということは、およそ30個の祝祷が「不足する」ということになります。
これは、「シャバットの聖性の導入で議論したシャバットの基本的な原則を美しく表しています。
つまり、シャバットは与える代わりに受け取る日であり、物質的なものを精神的なものに奉仕させる力があるということです。
これは、平日においては主への請願によって満たされる百のベラホートのミツバが、シャバットにおいては食べることと飲むことによって満たされるということに例示されています。
二つの塊について祈ること
シャバットの食事におけるパンの祝祷は、二つの完全な塊について唱えるべきである。
この習慣は私たちがこれまで議論してきた二つの原則の実例です。
一つ目は、「シャバットの明かり」とこの章の前段でも扱った、シャバットの普遍的なテーマである対です。
ふた塊のパンは二本のロウソクと同じように、思い出すことと覚えておくこと、ザハーとシャモアに対応します。
もう一つは、レヘム・ミシュネ、すなわち「倍量のパン」または「倍量のマナ」です。
これは、ユダヤ人が荒れ野に滞留していた際、金曜の分とシャバットの分として金曜日に降ったマナのことです。
これは、つい先ほど議論したような、ハッラーとマナの関係を思い出させます。
シャバットにトーラーを学ぶこと
シャバットには、トーラーを学ぶ時間を設けなければならない。
理想的には、朝の祈りの後に集団で学ぶべきである。
シャバットは精神的な向上と受容の日なのですから、トーラーを学ぶのに相応しい日であることは当然です。
共同体で集まって一緒に学ぶのは普通、朝の祈りにおけるシウル(説教)の時間です。
これは、「シャバットの祈り」で議論したアルバア・トゥーリームの、シャバットの朝はトーラーが与えられたシャバットに対応するという見立てと美しく整合します。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
タルムードと神道(45):トーラーの巻物を書くこと、トーラーの本を得ること
タルムードと神道(79):特別な助けに対する感謝とその助けを求めること
タルムードと神道(84):融資におけるパートナーシップ上の許容
マナとはどういう味がしたのだろう?興味が湧きます。
タルムードは物事の優先順位の勉強にもなりますね。