ここから、キツール・シュルハーン・アルーフの目次に「祝祷についての法」と記載されているセクションが始まります。
実際には、ここまでにも多くの祝祷を見てきました。
前に「朝の祝祷」について扱いました。
祈りの儀式を構成する多くの祝祷についての法も扱いましたし、特にユダヤ人の礼拝の中心となる、アミダーを構成する19の祝祷についても扱いました。
食後の祝祷についても議論しました。
祝祷についての一般的な議論を二つの主な部分に分割しました。
「食後の祈り」は、トーラーによって義務付けられている唯一の祝祷です。
トーラーでは「あなたの神、主を祝福せよ」と命じており、「祝福する」とはどういうことなのかを説明しました。
神は完全にして無限ですが、その存在は私たちからはほとんど見えません。
私たちは神自身を「増大させる」ことも祝福することもできません。
しかし、神の存在と栄えを強くすることはできます。
その方法の一つが、祝祷を唱えることを通して、あらゆる世俗の喜びと現象をその根源たる神にはっきりと結びつけることなのです。
祝祷における特別な言葉遣い
最初期の賢人たちは日常の祝祷のために非常に具体的な言葉を作り出し、タルムードではこの先祖たちが作った言葉から逸脱しないように警告しています。
それぞれの祝祷は「バルーフ・アター・ハシェム」、つまり「祝福されたのはあなた、主である」という文句を含んでいます。
また、ほとんど全ての祝祷に「エロケイヌ・メレハ・ハオラム」、つまり「私たちの神、全世界の王」という言葉が加えられています。
指定されている語それぞれについて、特有の意味を詳しく見ていきましょう。
バルーフ(祝福された):
全ての祝祷の源は主であるという事実を表します。
今日は力を与えてくれるが、明日はそうでは無いというような祝福の世俗的な根源とは異なり、祝祷の根源は創造主であり、祝祷自体の権化なのです。
特にこの言葉は、地上における祈りの根源が天上の精神的な世界にあるという事実を表しています。
地上の祈りと天上の世界は分かち難いものなのです。
この考えについては、この章の後段でより広く扱います。
アター(あなた):
祝祷のこの部分では、神に対して二人称で呼びかけます。
私たちの世界における具体的な部分について祝祷を捧げる時に、神からの祝福が抽象的で精神的なものではなく、私たちに密接に関わり、呼びかけることができるほど明らかなものであることを示しています。
ハシェム(神の名):
アターが二人称であることで、私たちが主に関わることができることを示すように、主に名前があることは、主がこの世界に明らかに存在することと、主の導きが私たちを取り巻く全ての地上の環境を一つにするものであることを示しています。
さらに、ヘブライ語で神の名を表す神聖な四文字の意味は、過去・現在・未来を示すものです。
これはまた、想像において万物を一つにするものとしての神という概念を表します。
最後に、この御名を口に出すことが禁じられているという事実に重要な意義があります。
祝祷の中で神聖四文字に出会うと、私たちは常にそれが主の支配を表す神の御名であるかのように発音します。
主の存在自体である主の御名は、明らかであると同時に隠されているのです。
主が明らかに存在するからこそ、私たちは主に出会うことができます。
しかし主が超越者であるからこそ、私たちには完全に表現することができないのです。
エロケイヌ:
この名は「私たちの審判者」を意味します。
主が、私たちの道徳的な振る舞いを評価し、裁かれることに関連づけることができます。
メレハ・ハオラム(全世界の王):
独裁ではない支配が正当なものであることを暗示しています。
人々が王を受け入れ、王を支配者として認めたからこそ、王は王たるのです。
ここにおいて私たちは、神を万物の主人にして王であると認め、受け入れることを声高に宣言します。
このように二人称での主への呼びかけに始まり、続いて三人称で主に言及します。
これは主の偉大さに対する私たちの畏怖を表しています。
ある程度までは私たちも主に面と向かうことができ、「あなた」と呼びかけることができますが、すぐに畏れに打ちのめされて、三人称でしか呼びかけられなくなるのです。
ちょうど、シナイ山におけるユダヤの人々が主の存在に直接相対することに畏れを抱き、それ以上の啓示はモーセを通してなされるよう懇願したのと同じです。
まとめると、主は祝祷の超越的な根源でありながら、この世界において主の存在を感知することもできるということです。
これは、主の親愛なる恵みは主の裁きと調和する必要があることを示唆しています。
主なる神の導きがそれ自体をこのように明らかにしていることで、私たちは主を世界の王として認識できるのです。
二人称で主に呼びかけること、または私たちの中に畏れとともに植えつけられている聖なる神の名を見ることで主の存在を感知し、その後は三人称で呼びかけるとともに、書かれている神の名を口にすることを避けるのです。
祝祷と祈りの違い
日常の祝祷は多くのカテゴリーに分かれます。
喜びについての祝祷、ミツバの実践についての祝祷、称賛の祝祷 、アミダーの祈りにおける祝祷です。
これらの祝祷は共通の方式を持っています。
それが「バルーフ・アター・ハシェム」、即ち「祝福されるのはあなた、主である」です。
共通の言葉の構造に関わらず、ゾハールでは祈りの祝祷と他の祝祷には基本的な違いがあると言っています。
この違いを理解するためにはこんな方法があります。
どちらの祝福においても、私たちは実体的な世界と、聖なる神の世界との結びつきを証明しようとします。
ラビ・モーシェ・コードヴェロは次のように書いています。
あらゆる実体的な行為は、隠された精神的な側面を伴う必要がある。
それがミツバのための祝祷の肝要な点であり、だからこそ実体的な行為は精神的な側面、具体的には発話のひと息、またそれよりも、この発話をするに至った考えが必要なのである。
この考えは容易に、称賛や楽しみの祝祷にも当てはめることができます。
これら全ての場合において、祝祷の実体的な対象はすでに目の前にあります。
ミツバの実践(例えば、ろうそくに火を灯すこと)、称賛の対象(例えば、美しい景観)、楽しみの対象(例えば、一欠片の果物)は目の前にあるのです。
私たちは、これらの実体的な行為を聖なるものに結びつけなければなりません。
それが、主の戒律だからです。
称賛と楽しみの対象がこの結びつきを持つのは、これが主の慈悲を証明するものだからです。
これらの場合において、私たちはすでに存在している実体的な現実と関わり、これを聖なるものに結びつけるよう求められています。
物質は存在していますが、精神的な次元は祝祷によってもたらされなければなりません。
しかし、祈りにおいて私たちは、主が要望に応えてくださるよう求め、すでに存在している実体的な現実を変えてくれるよう求めます。
こうなると、状況は全く逆になります。
私たちは神の前にて祈っており、祈りの間における私たちの体験は全て、完全に神聖なものです。
ここに欠けているのは、物質的な次元です。
私たちは主に対し、知恵、生計の方便、贖罪などをもたらしてくれるよう求めます。
これら二種類の祝祷に共通しているのは、物質の世界と精神の世界との内的な繋がりを表すバルーフという言葉です。
この繋がりは、ユダヤ人が一貫して強めようとしているものです。
ユダヤ人は、繋がっていない物質の世界と精神の世界を行き来して、ある時はリンゴを食べたり美しい景観を楽しんだりして、その後でそことは切り離された瞑想的な祈りに移るわけではありません。
そうではなく、人々は二つの領域の間の橋渡し役なのです。
実体的な行為の世界にいる時はいつでも、私たちは聖なるものの影響を確立し、また強めようと努力しています。
祈りの世界にいる時はいつでも、そうした聖性を受け取る器としてふさわしい実体的な世界を作り出そうと努力しているのです。
どちらの場合も、私たちは主が聖なるただ一つとして祝福されていることを証明し、一方で主の聖性は物質的な世界においても、精神を高揚させるような体験とトーラーの戒律の実践という聖なる行為によって接することができるものであると表現します。
パンと菓子
菓子を食べる前の祝祷は、ボレ・ミネ・メゾノット、つまり「様々な食物の創造主」です。
食べた後の祈りはアル・ハミシャー、つまり「栄養を得て」というパンのある食事の後の祈りを短縮したものです。
菓子についての祝祷はパンの場合とは違い、菓子と一緒に食べられる食べ物についての祝祷が免除されず、また食べる前に手を洗うことも求められていません。
香りが付けられたり、とても甘かったり、とても薄い生地から作られているような洒落た焼かれた食べ物はパンとは見なされず、菓子になります。
食事の基礎となるパンとは違い、菓子は付加的なもの、食事の代わりになるものです。
これらの焼かれた食べ物については食べる前に手を洗う必要がありません。
そうであってもなお、こうした食べ物に特別な祝祷が唱えられるということは、パンではないにしても、穀物由来の焼かれた食べ物は何であれ特別な重要性を持っているということを表しています。
「ハッラーの法」でパンが持つ特別な重要性について検討しました。
食物が持つ役割の上では、パンは最もシンプルな食べ物であり、必要最低限な食べ物を「パンと水」と言う昔ながらの言い回しもあります。
しかしパンの製造工程は驚くほど複雑で、私たちの能力をどのように使うか知っている必要があり(農業の、技術の、それから料理についてのあらゆる専門知識を動員して生地を作る)、また、その能力をどうやって制するかという知識と、パンが膨らむのを待つという自制心が必要です。

菓子はこのような発想を表現していません。
工程の複雑さは確かにありますが、単純さを欠いています。
パンは慎み深い食べ物であり、メイン料理ではなくただの基礎となるものです。
しかし菓子は、それ自体が特別な料理です。
パンは栄養のために食べるものであり、菓子は楽しみのために食べるものです。
パンに特有の重要性は、その特別な慎み深さに表れているのです。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
宇宙が無限であるのと同じく神も無限であり一人称で呼ぶことは恐れ多いと感じています。
祈りは精神と物質世界をつなげる役割もあるようですね。あらためて考えさせられました。