ほとんどの食べ物は、パンのある食事の最中に食べても特別な祝祷は求められません。
パンは食事の「基礎」と考えられているので、パンと共に食べられる物や、パンと同様に楽しみのためでなく、飢えをしのぐために食べられる物は、その基礎の上にある物と考えられ、祝祷を免除されます。
しかし、普通のパンのある食事に含まれない、生の果物のような「二次的」な食べ物については、それが実際にパンと一緒に食べられない限り、祝祷が求められます。
ワインは特有の重要性を持つため、パンに準じる物とは考えられず、特有の祝祷が求められます。

「基礎」である食べ物と「二次的」である食べ物は何によって決まるのでしょうか。
客観的な基準、もしくは主観的な基準でしょうか。
いくつかのルールについて検証してみましょう。
ある場合においては、意図が重要になります。
例えば、一般的には果物は食事の一部とは見なされず、別途の祝祷が求められます。
しかし、食事をする人が果物を食事の重要な部分と位置付けたならば、これはパンに準じる物となります。
お腹を満たすために食べるケーキは、パンに準じる物と考えられます。
もしこれが、ただ嗜好を満たすためだけに食べられるのであれば、別途祝祷が必要になります。
他のケースにおいては、意図は問題になりません。
誰かが、自分にとってワインの重要性はレモネードと同じくらいのものだと決めたところで、ワインには別途の祝祷が必要なのです。
ワインは文化的、歴史的に特別な位置にあり、個人の主観的な性向によって動かせるものではありません。
逆もまた然りです。
レモネードをワインのように重要視したところで、パンのある食事においてレモネードのための特別な祝祷は捧げません。
タルムードでは、「彼の意見は他の人たちの意見に比べて取るに足らない」という表現で、個人の意見がこのような場合には顧みられない理由を説明しています。
私たちの行動の特性は、自身の意図によって決められる場合と、それを優越する社会的な慣習によって決められる場合があるのです。
普段の生活においても、同じ原則に出会うことがあります。
厚手のフランネルのシャツは着方によって、「シャツ」または「スウェット」と見なされますが、厚手のダウンジャケットは、誰かがこれをただの上着として着たからといって、「シャツ」とは見なされないでしょう。

フランネル
ユダヤ法は個人の考えと意図に計り知れない重要性を持たせており、食事における食べ物の位置付けについても相当自由に決められますが、あくまで個人的な考えや意図は、より大きな社会的な文脈の中で意味を持つものであり、伝統と慣習を適切に考慮すべきです。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
嗜好品と考えられる物に対して新たな祝祷が必要という解釈でよいのでしょうか。酒、たばこ、デザートが思い当たりますね。