タルムードと神道(34):テフィラー

創造主の前に立つ

祈ることの意味については、前に紹介をしました。

祈りとは、私たちの意識の向かう先を最も深いレベルで明確にするための手段です。

主に私たちの望みの成就をお願いするための必要な準備として、その望みをしっかりと定義して口にするという義務を負うのです。

同時に、その求めの達成には全面的に神の助けが必要であることを明らかにします。

定められた祈りにおいて、私たちは個人的な願いと普遍的な願いを同列に扱うことになります。

これらの定められた祈りは、全ての祈りの儀式の中核となるアミダー(朝、昼、晩に起立して行う祈り)の本質であり、その全般的なルールについては前に概要を示しました。

アミダーの祈りはよくシュモネー・エスレー、つまり18の祈りと呼ばれます。

これは当初18の祝祷で構成されたためです。

およそ2000年前、タナイームの時代に19番目の祝祷が追加されました。

 

上司との約束のようなもの

祈りに関する多くのルールを理解するには、ミーティングや面談の約束を例に考えてみれば良いでしょう。

私たちは常に主に見張られています。

様々な場面で非公式に望みを表すことがありますが、決められた話題について主と会見することができるのは、1日に3回の決められた時間だけです。

この会見は公式な位置付けになるので、準備、礼儀作法、タイミングなど満たすべき基準があります。

 

祈りのために定められた時間

朝の祈りの儀式の時間は、日の出から1日の3分の1が過ぎるまでです。

もし特別な事情があれば、日の出の前の夜明け時から初めても良いとされます。

ラビ・ヨシ・バル・ハニナによれば、3つの祈りの儀式は3人の族長によって作られたということです。

朝の祈りは「アブラハムは朝早く起き」とあるように、アブラハムによって始められました。

午後の祈りは「イサクは夕暮、野に出て歩いていた」とあるように、イサクによって始められました。

夜の祈りは「一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし」とあるように、ヤコブによって始められました。

ラビ・ヨシュア・ベン・レヴィによれば、それぞれの祈りの儀式は定められた生贄に対応していると言います。

朝と午後の祈りは、朝と午後にもたらされる日々の燔祭の生贄、毎日公衆のために捧げられる供物のうちで最初と最後に捧げられるものの時間と一致します。

夜の祈りは祭壇の生贄に夜明けまで夜通し火を絶やさないことに対応しています。

ラビ・クックは、この二重になった関係が、私たちの祈りが2つの次元を持つべきだと教えていると言います。

元となった祈りが一人の族長の個人的な祈りであったように、祈りの始めは個人の完成を動機としてなされるべきです。

然るのちに、公衆のために捧げられる日々の燔祭の供物で表されるように、その願望を民族全体の完成に向けたものに変化させなければなりません。

 

祈りと生贄

「生贄がある所で祈る」とはどういうことか。

この考えの元となっているものの一つは、ホセア書の「人々は子牛に口づけせよ」という一節です。

この構図では、口頭での祈りは生贄を捧げられない時に妥協として行われる「残念賞」のような扱いになっているように見えます 。

しかしミドラッシュでは、祈りと生贄には本来繋がりがあることを教えています。

トーラーでは、祭司が儀式を執り行うための準備を次のように書いています。

「あなたは彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるために、次のを彼らにしなければならない」

今、「」と訳した単語には、「言葉」という意味もあります。

ミドラッシュでは、この祈りに関するトーラーの記載について、生贄を供えることが不可能な場合を主が許容されることを示唆していると指摘しています。

言い換えれば、最初の民族としての生贄の義務においてさえ、祈りの他の可能性が添えられているということです。

現代において、生贄を供えることについては技術的に何の問題もありません。

誰でも祭壇を作り、火を起こし、動物を捧げることが出来ます。

そうではなくて、トーラーが問題としていることは、一度神殿が永遠の在り処に建立されたならば、生贄はその他の場所で捧げられてはならないということです。

ユダヤ人が現在置かれている状況において、このことは、生贄を捧げるべきでは無いという主の望みを表します。

主は私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。

祈りと生贄が共通して持つ要素は、主なる神との親近感を醸成することができるということです。

祈りにおいて私たちは主の前にあり、私たちの内奥にある望みを共有します。

主が私たちの祈りをお聞きになり、私たちの求めを気にかけてくださることを、私たちは知っています。

そして多くの場面において、生贄はユダヤの人々と主なる神が親しく食事を共にするためであると描き出されています(これは、生贄は全て人間が消化できる食べ物であるべきであるという規則への説明にもなります)。

神殿における儀式は、それ自体が私たちの主に対する深い愛情を表現するための手段なのです。

 

アミダーの祈りにおける礼儀作法

祈りの間、私たち自身や他の人の気を逸らすようないかなる行為も避けなければなりません。

詠唱は集中して行われなければならず、他の人に聞き取れないような低い声で詠唱します。

そして、祈りに関係の無いものを持たず、威厳ある姿勢で立ち、ゲップやアクビをしてはなりません。

祈りの最中に他の人に身振り手振りを示してはなりません。

また、酒に酔った状態で祈ることも禁じられています。

上司と会うことに例えて考えれば、これらのルールは直感的に理解できます。

これらの全ての要請は、世俗において敬意を払うべき人と会うときには自然に満足されるでしょう。

 

贖罪(しょくざい)と祈りを並べる

シェマー祝祷の結びの言葉「イスラエルの罪を償いし方」と、アミダーの祈りの冒頭の間を空けてはなりません。

タルムードでは、儀式のこの2つの節を並置することを特に重視しており、「贖罪」と「祈り」を並べることはミニヤンで祈ることよりも重要だとしています。

エジプトからの解放、奴隷身分からの物理的な自由は、ユダヤ人の歴史において重要な出来事であり、エクソダスは全ての西洋文明において自由を象徴する中心的な概念です。

そして、日に三度の祈りにおける神との出会いは独特な祝祷です。

しかし賢人たちは、これらの祝祷を独立したものとして見なすことを許しませんでした。

贖罪と祈りが並べ置かれることで初めて、自由であるからこそ主に仕えることができると、物理的な自由の重要性を言えるようになるのです。

祈りの本質は自己を定義することですから、奴隷状態にあっては独立した立場で自らを定義することが出来なくなってしまいます。

同じように、解放を記念したすぐ後に祈りが必要とされることで、主との出会いが何も無いところから生まれたわけではなく、この世界における人の営みや歴史の流れの中で、主の意志が現れているということを、私たちは思い出すことが出来るのです。

ゾハールでは、エジプトのユダヤ人は「詠唱の追放」を経験したのだと述べています。

トーラーが与えられて初めて、この追放から解放されたのです。

それまでは、祈る自由は制限されていました。

奴隷は自分の在り方を他人の強大な尺度によって定義されてしまいます。

個人として、民族として自由を達成することで初めて、祈りの本質である自己を定義するというプロセスを始めることができるのです。

 

祈りの中で持つべき意図

祈りの最中においては、主の前に立っているということを明確に意識し、主への称賛と私たちの求めを表さなくてはなりません。

ユダヤ法の一般的な原則として、あらゆる行為は戒律を満たすための意図を伴わなければなりません。

例えば、新年祭の日に、そのことを知らずに雄羊の角を吹いたとしても、主の言いつけを守ったことにはなりません。

戒律を守るという意図を持って吹く必要があるのです。

しかしながら、祈りについてはただ言葉によって戒律を守ろうと意図するだけでは不十分です。

主の前に立っており、主と関わり合っていることを意識していなければ、祈りの書にある言葉を口に出したとしてもそれは祈りですらありません。

そのように意識することこそが、「祈り」という言葉の意味なのです 。

祈りについてのミツバは、例え祝祷にあるヘブライ語の正しい意味を理解していないとしても満たされます。

しかし、祝祷の始めにあるマーゲン・アブラハム(アブラハムの盾)の意味は理解していなければなりません。

族長の祈りにおいて、私たちは神との関係を定義します。

アミダーの祈りにおいては、主の前にあること、主と関わり合っていることを認識していれば十分ですが、それがどんな意味を持つのかは知っておく必要があります。

世間の結婚においては「誓います」という言葉が法的な拘束力を持つことを知っていて、その意図があれば結婚が成立しますが、より重要なことは誰と結婚しようとしているのかを知ることでしょう。

ラビ・ユダ・ハレヴィはユダヤ哲学の古典であるクザーリの中で、私たちの主に対する信仰は、族長に対する啓示や出エジプトなどの民族としての経験に根ざしているべきだと説明しています。

そうすることで私たちの主への感謝の念と認識が憶測や伝聞に基づいているものではなく、主が我が民に対してもたらされた啓示や恩恵といった、実体を持った経験に基づくことができるのです。

主と直接出会うことの始めとして、主との関係は民の族長たちにもたらされた啓示に根本を持つものであるという基本的な理解を持っておくべきです。

 

マーゲン・アブラハム

最初の祝祷は3名の族長全てに言及して始まりますが、結びの言葉はマーゲン・アブラハム、つまりアブラハムの盾という言葉です。

他の族長たちは祝祷の結びには登場しません。

私たちは伝統的に、この祝祷が元を辿ればアブラムの祝祷であるとしています。

主はアブラハムを祝福されて、次のように言われました。

わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。

あなたは祝福の基となるであろう。

ラシは3つの祝福が3人の族長に言及していると説明しています。

 

『大いなる国民と』するのは、アブラハムの神であり、『祝福』するのはイサクの神であり、『名を大きく』するのはヤコブの神である。

そうであれば、彼ら全ての名を持って結ばれても良いのではないか。

しかし『祝福の基となる』のはあなた、であり、彼ら、では無いことを教えている。

アブラムだけに追加で与えられた特別な祝福の意味、アブラムの名だけが祝祷に付けられているという特権の意味は何なのでしょうか。

ラビ・エリヤ・ミズラヒは、アブラムに与えられた祝福は、彼が大いなる国民となるという祝福から始まっていることを指摘しています。

後に続くものは全て、その祝福の上にあるというのです。

「主なる神は、主は褒むべきかな、特定の個人に主の御名を与えられるのではなく、国民全体に与えられる」

言い換えれば、他の2つの祝福は単にこの祝福に付加されたものではなく、この祝福の上にあるものだということです。

ノアがそうであったように、アブラハムがただ個人として全き者であるという祝福を受けたわけではなく、民の創始者としてアブラハムを祝福し、それから後に続く族長の名を挙げることで民族の名を祝福され、大きくされているのです。

もし私たちが祈りの中でアブラハム、イサク、ヤコブを同列に扱うとしたら、今度は彼らそれぞれが個人として十分に全き者であるために、この特別な扱いをされる価値があるということになるでしょう。

イスラエルの民の創始者としてのアブラハムの地位を強調することで、イサクとヤコブは個人としてはアブラハムが持つ特別な地位には値しませんが、民族の継承者として、それぞれ特別な地位を持つということを示しています。

この考え方によって、ミドラッシュがマーゲン・アブラハムについて言及している別の内容についても説明出来ます。

ミドラッシュによると、アブラムは「もしかしたら他の誰か、優れてミツバを守り善行を行う者が現れて、私の契約は彼の契約に取って代わられるのではないか」と心配していたといいます。

主はアブラムを祝福され、「私はあなたの盾となる」として、アブラムの契約が特別に守られていることを保証しました。

もし後継者となる個人がアブラハムのように全き者であったとしても、彼のその素質は個人的であるがゆえに、はかないものであり、アブラハムの民族全体に及ぶがゆえに永遠である素質とは似つかないものとなります。

そのため、最初の祝祷で族長たちの名を挙げ、アブラハムの名によって結ぶことは、私たちと主の関係が一族の歴史に根ざしているものであり、アブラハムと結ばれた特別な契約に根ざしているものであることを強調しているのです。

 

祈る時の向き

アミダーの祈りにおいて、イスラエルの外にいる人はイスラエルの地に顔を向けます。

イスラエルにいる人はエルサレムの方を向き、エルサレムにいる人は神殿の丘に顔を向けます。

神殿の丘近くにいる時は、聖櫃が納められていた聖所があった場所の方に顔を向けなければなりません。

アミダーの祈りの間は神殿の方向を向いて立たなければならないので、世界中のユダヤ人が同じ場所に向かって祈ることになります。

この地理的な方向性の統一は、精神的に同じ方向を向いていること、延いては主への信仰の上で心を一つにしていることを表します。

ユダヤ法では具体的に顔を向けるべき対象を、イスラエルの地、エルサレム、神殿、聖地の中の聖地つまり内部の聖域としています。

実際に向く方向としては、神殿の内部の聖域の方向としておけば十分なはずですが、なぜ他のレベルも全て言及されているのでしょうか。

ユダヤ法ではこのように表現することで、それぞれのレベルに意味があることを強調しているのです。

イスラエルの地は、聖地エルサレムを包含していることだけで聖なりとされているわけではなく、これ自体が聖なのです。

同じようにエルサレムも、神殿がそこに建立されたという事実から聖地であるとしても、その聖性を神殿の存在だけに依っているわけではありません。

そしてエルサレム神殿も、聖域の中の聖域の存在とは全く別の、神殿自体の聖性を持ちます。

 

アミダーの祈りにおけるお辞儀

最初の祝祷の始めと終わりの部分、それと最後から二番目の祝祷の始めと終わりにお辞儀をします。

バルーフという時に膝を曲げ、アターと言いながらお辞儀をし、主の御名を唱えながら元に直ります。

お辞儀の第一段階は頭を下げずに身体を低くすることです。

このときは、上半身は立てたままで膝を曲げます。

それから前に向かってお辞儀をし、頭の位置も低くします。

これは、精神的な向上は身体を動かすことから始めるべきで、頭で考えるのはその後であるというおなじみのテーマを概括しています。

お辞儀をすることの象徴的な意味の一つは、祈りを始めるにあたって主に対する服従を示すということです。

また、お辞儀をすることは地上に自分自身を近づけるということでもあります。

これは、祈りが抽象的な瞑想ではなく、現実からはかけ離れたものではないことを示します。

それどころか、私たちは身体を低くし、地上に近づくことで祈りを始めるのです。

それから、主の御名を唱えながら元に直ります。

御名を唱え主の存在を認識することで自身を引き上げることができ、全ての地上に属する者が主の意志に同調することができます。

主の御名を言うところで身体を真っ直ぐにする根拠は、エルサレム・タルムードにおいて主が「かがむ者を立たせられる」からだとされています。

実際に伝統では、精神的な純粋さが得られたときにのみ、主と出会うにあたって背筋を伸ばすことができるとしています。

精神のレベルがそこに達するまでは、主との出会いは逆の効果をもたらします。

アブラムは割礼前に主が訪れられたときにひれ伏しました。

割礼が済んだ後になって初めて、直立したまま預言を受けることができたのです。

つまり主の御名を口にするときに直立することは、その人の精神のレベルが、主の御名を直立したまま二人称で呼べるほど著しく高まっているということの暗示なのです。

 

祈っている人の近くを通り過ぎること

沈黙してアミダーの祈りを捧げている人の前を横切ることは禁じられています。

この禁止事項については2つの理由が挙げられます。

一つ目は、単純に祈っている最中に近くを通られると気が逸れるからという理由です。

もう一つは、祈りの途中にあるユダヤ人は主の御前に立っているのであり、彼の前を横切ることは彼と主の間を遮ることになるという理由です。

言い換えれば、これは祈っている人に敬意を払うべきという問題に留まらず、根本的な宗教の原則の問題であると言えます。

こうした約束事をきちんと尊重すれば、誰もが日に三度の祈りによって、研ぎ澄まされた感覚と荘厳な責任感を覚え、世界の主なる神に近づく権利が得られるのです。

 

アミダーの祈りの祝祷の順番

アミダーの祈りの祝祷は順番の通りに唱えられなければなりません。間違った順番で唱えられた祝祷は正しくやり直さなくてはなりません。

この法は、祝祷の順番自体が特別なメッセージを持っていることを示唆しています。

実際、タルムードにおける説明でも、祝祷の正しい順番の重要さに言及しています。

アミダーの祝祷は3つの部分に分かれています。

使用人の例えに則ると、まず使用人が主人を称賛し(最初の3つの祝祷)、次に主人に頼みごとをし(中盤の祝祷)、最後に頼みが聞き入れられたことを主人に感謝する(最後の3つの祝祷)という形式です。

頼みごとの順番は次のように説明されます。

後悔(テシューバ)を求める5番目の祝祷は、理解(ビナー)を求める4番目の祈りの後に続きます。

これは、理解が後悔に先立つという預言書の言葉によるものです。

このことは、理想的な後悔はただの感情の動きではなく、生まれ変わるような主体的な感覚であるということを強調しています。

それどころか、後悔の基となるのは、どのように自分が道に迷ったか、なぜトーラーが正しいのかという筋の通った認識なのです。

癒しを求める8番目の祈りは、許しを求める6番目の後に来ます。

これは、主の許しが持つ癒しの力を教えるためです。

贖罪についての祈りが7番目にくるのは、伝統的に贖罪は安息年のサイクルにおいて7年目になされると考えられているからです。

豊かな実りを求める実際的な祝祷は9番目で、離散ユダヤ人の集合を願う10番目の前触れとなります。

トーラーでは、ユダヤ人が離散している間、イスラエルの地が荒廃させられるとしています。

わたしがその地を荒らすゆえ

ラムバンはこれを呪いではなく、それどころか祝福であると説明しています。

私たちの土地は敵を受け入れないのである。

そしてこれは大いなる証であり、私たちの未来への約束でもある。

人が住んだ場所で良い土地、広い土地は見つからないだろう。

私たちがかつて住んだ土地は今は荒れ果てた。

どんな民族も言語も受け入れない土地とした。

彼ら全てがそこに住もうとするが、彼らにはその力は無い。

イスラエルの地が経済的に繁栄し始めるのは、この地が人々の帰還の準備をしているという兆候なのです。

ひとたびユダヤの人々がイスラエルの地に集まったならば、判事は邪悪なるものに裁きを下すでしょう。

これは破壊的な異端信仰に終わりをもたらします(12番目)。

この順番は、社会正義と宗教的信仰の関係を証明しています。

人々が自身の目で、トーラーの価値に基づいた正義のシステムが高潔な社会を作り出すことを確認したならば、人々は自然にそれの正しさを信じるようになるでしょう。

反対に、私たちの伝統と信じる価値が理想的な社会を作ることができないのなら、異端を根絶することは期待できないでしょう。

主なる神と、トーラーが正しく根付いたならば、高潔な人々(高潔な改宗者も含む)は然るべき尊敬を受けるでしょう(13番目)。

そうなれば、エルサレムの再建が実現され(14番目)、エルサレムが再建されればメシア(ダビデ王)の治世となります(15番目)。

様々な箇所で説明している通り、トーラーの言う統治とは実際的な便宜だけを意味しているわけではありません。

それは必ず主なる神への献身に基づいていなければならないのです。

ユダヤの民の富が回復されれば、真なる祈りの力が私たちの元に帰ってきます(16番目)。

これは前述したように、贖罪と祈りが並置される場合に有効な原則です。

私たちの表現する力が回復されたら、私たちは神殿の儀式を再開でき(17番目)、私たちの感謝を正しく主の元に届けることができるようになるでしょう(18番目)。

これはつまり、神殿の儀式が単なる機械的な手続きを踏むことではないことを示唆しています。

供物を捧げる順番の一つ一つに秘められた特別な意味とメッセージがあるのですが、この儀式を執り行うには、私たちの民族全体の表現能力を取り戻す必要があるのです。

聖職者の祝祷は神殿の儀式の重要な部分を担います。

これは、平和の祝祷です(19番目)。

 

時間に制限のある前向きなミツバと女性

ミツバについての基本的なルールは、女性も男性もそれぞれ全ての禁止事項を守り、特定の時間に限定されない全ての前向きな戒律に従うというものです。

しかし、特定の時間に限定された前向きな戒律は、女性には義務付けられていません。

例えば、ツィツィートについての戒律は日中にしか適用されません。

仮庵の中に座らなければならない戒律は、仮庵祭の間だけです。

テフィリンは安息日や祝日には身につけられません。

しかし、女性はこれらの戒律について、一定のレベルの義務を負っています。

古い慣習によると、女性は祭日におけるショファール(角笛)や、仮庵の中で物を食べること、ルーラヴ(シュロの枝)の使用についてはそれを行います。

女性は角笛を鳴らす時、仮庵の中に座っている時、ルーラヴを揺するときなどに、「主は戒律によって私たちを聖別され、私たちを戒められた」という祝祷さえ捧げます。

時間限定の前向きな戒律において中間に位置するような女性の義務について考えてみましょう。

この区別についてよくなされる説明は、女性はそもそも家庭に対して責任を負っているからというものです。

タルムードでは、女性こそ家庭に欠くべからざるものだと言います。

仕事をするための場所は時間になれば閉まりますが、家庭は閉まることがないのです。

家庭のためにすべきこと、子どものためにすべきことには終わりがなく、主婦に自由な時間があったとしても、時間制限のある戒律に求められるような特定の時間を割くことができるかどうかなど分かるはずがありません。

また、もう一つ別の説明も可能です。

あらゆる戒律は、本来の意味と実践という2つの面を持っています。

ミツバを実践することで、また善行を行うことで望んだ結果が手に入ります。

さらに、ミツバを実践することで、そのミツバの目的に照らした自身のあり方と、ミツバ全般との関わり方を証明することができます。

この証明は他人に対して、あるいは自分自身に対してさえも、自分の義務を思い出すきっかけとなります。

ある程度、私たちは「何かを証明するため」にミツバを実践しているのです。

全てのミツバがその2つの面を持っていると言いながら、時間に制限のある前向きなミツバについては一般に実践の面が注目されがちであるように思えます。

テフィリンはトーラーにおいて「印」と言われています。

ユダヤ人がルーラヴを取り、仮庵の中に座るのは、イスラエルの子孫はエクソダスのことを知らなければならないからです。

言い換えれば、実践の一つとして衣服にツィツィートをつけ、「それを見て戒めを思い出す」ようにします。

ショファールは明らかに大衆が参加するミツバです。

休日にエルサレムへ上っていくことは最も大衆的なミツバであり、私たちの着眼点を支持するかのように、トーラーではこのミツバを「見られる」ものとしています。

前向きで時間に制限のあるミツバは一般的に、「見られる」という面を持っているようです。

女性は男性よりも内向きで、主体的な方向性を持っていると前の章で提示しました。

男性と比べて女性は、どういう風に目立って見られているかということよりも、どのようにあるかに興味を持っています。

例えば、7章で解説した通り、男性は自分自身のことを否定的に定義しているのに対して、女性は「主が主の意に沿うように人間をお創りになった」と総体的な宣言を行なっています。

一般的に男性は実践的な所属の象徴に傾倒します。

例えば制服などがそうです。

同じ会議室にいても、男性は全員スーツを着てネクタイをしており、女性はそれぞれ違った種類の服を着ているということがよくあります。

これは、女性が主の恵みの内的な側面に傾倒していることと理由を同じくしています。

つまり、女性は何かを証明しようとして振舞っているわけではないということです。

むしろ、何かを主張するために行動することには及び腰かもしれません。

時間に制限のあるミツバに関して言えば、実践して見せるという面が意義を持つとされるわけですが、これを女性に義務付けるのは適切ではないのかもしれません。

これは女性が実際には、時間に制限のあるミツバと、これらの戒律を守ることで物質的・精神的なレベル双方で得られるであろう成果において、繋がりを持っているということとも整合します。

このことから、女性がなぜこれらの戒律を実践することができ、また正しい祝祷を唱えるのかということが説明できます。

忠誠の度合いを目立つ形で見せつけるという側面は、女性特有の性格にはそぐわないものです。

しかしながら、女性は時間に制限のあるミツバの重要なパートにおいて義務を持っています。

これらのミツバの目的は奇跡を公表するというものです。

タルムードにおいては、「女性もこれらの奇跡に関係しているため」との理由が与えられています。

139章で詳しく書きますが、女性はこれらの戒律に関係する奇跡において目立つ役割を果たします。

たとえ慎ましくあることがユダヤ人の、特にユダヤ人女性の決定的な特性だとしても、歴史の中では様々な場面で勇敢なユダヤ人女性が人々を守るため、必要とあらば慎ましさを捨ててきました。

そのため、こうした時代を思い出させるようなミツバを実践するにあたっては、女性こそが目立つ役割を果たすべきなのです。

 

女性と祈り

女性は毎日祈る義務があります。

可能であれば、朝と午後の定められた祈りについても正しい時間に祈らなくてはいけませんが、これは義務ではないとする意見が多数です。

男性の祈りは時間に制限があるという事実はあるものの、タルムードでは明確に女性にも祈る義務があると定めています。

祈りは慈悲を請うものであり、この祈りと女性との関係は、男性の場合と何ら変わるものではないからです。

他にも様々な祈りの法がある中で、ハンナの子宝を授かるための祈りが、祈りの手本とされていることは興味深いことです。

聖書には心を揺さぶるような祈りが数多く記録されています。

例えば、イサクによる妻を見つけるためのエリエゼルの祈り、エサウから家族を守るためのヤコブの祈り、主を神殿に招かんとするソロモンの祈り、ダニエルの心を揺さぶるような祈り、エズラの祈り、それから言うまでもなく、数え切れないほどのモーセの祈りがあります。

ではなぜ、ハンナの祈りが選び出されているのでしょうか。

あるいは、ハンナの祈りが他の誰かの求めではなく、彼女自身の求めについての祈りだから特別なのかもしれません。

先に挙げたような、ユダヤ人全体の求めを一身に背負った指導者たちの祈りには他に例が無いような重要さがあることは確かですが、私たち自身の個人的な祈りにとっては、抑圧された妻の祈りが手本となるということです。

 

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

2 件のコメント

  • zipang044kwsk@au.com より:

    祈りには様々な種類があり、
    また順番も大切なのだと分かりました。
     
    そして、聖書には解釈の余地がたくさんあり
    自ら考えなさいという暗示を示していると
    感じます。
     
    僕もまだまだ分からないことがたくさんある
    迷える子羊ですが、少しずつ勉強して
    知性を得ていきます。

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    人類が常に「神と共に有る」と意識して生活できれば、真の平和と幸福な社会になり得るような気がします。一部の輩は日々欺し、奪い、殺しています。アブラハムやイサクの時代から人類はほぼ成長していないのかも知れません。旧約聖書の中では神のご加護の有無が貧富の差を生んでいるように感じました。故に祈りが重要であると思います。

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