不必要な誓約や誓いを立てないように気をつけるべきである。
ある誓いがすでに立てられたとしても、これを解除することが最善である。
唯一望ましい誓いは、それによって喜捨をすることやトーラーを研究することなどの、すでに存在する義務を履行することが促進されるような誓いのみである。
この戒律は誓約と誓いという広大なテーマを扱っています。
賢人たちは誓いをシェブアとネデルの二つに分けています。
これらの違いは次のようなものです。
シェブアで誓うのは、ある行動を取る(またはやめる)ことです。
たとえば、特定の食べ物を食べることを誓ったり、特定の場所に行くことを誓ったり、特定の人を避けることを誓ったりします。
ネデルは特定の対象に向けられます。
たとえば、特定の食べ物が聖なる財産になぞらえられることを誓います。
神殿への供物や進物とすることで何かを聖別(または禁止)することができるように、ネデルによって直接私たちの財産を禁じることもできます。
これらに出会うことはほとんどありませんが、誓約と誓いはユダヤ教において非常に重要な部分です。
みだりに神の名を唱えることを禁じているのは十戒の三番目ですが、これは空虚な誓約を禁じるものです。
この掟に先行する一番目と二番目の十戒は、主への忠誠を認めることと、偶像崇拝を拒絶して否定することのみです。
この戒律がシナイ山で与えられた時、全世界が恐れに身震いしたと賢人たちは教えています。
実際、ユダヤ人がトーラーを守るための全ての戒律は誓約であると考えられ、ユダヤ人はシナイ山以来誓っているとされます。

誓約と誓いが持つ特別な力は、これらが神の名を思い起こさせることです。
ユダヤ教におけるあらゆる場面において、神の名は重要なものであるとしています。
祝祷を聞くと、人々は主と主の名を祝福します。
神の意に沿わない行いは「主の名を冒涜する」行為であるとされます。
嘘の誓い、空虚な誓いは主の名に対する不敬であるとされます。
「シェマーの詠唱」で説明した通り、何かを名前で呼ぶ能力は、それを見分ける能力であり、ある程度はそれを知る能力でもあります。
人々が信仰し、主に仕えることができるのは主に名前があること、人々に関わるところに顕れ、それに名前があることに基づいているのです。
誓いと誓約は、効果の上では自身の言葉への誓いと主への誓いを同一視します。
そのため、何かに誓いを立てると、他の人が自分を信じることが期待されるのです。
このように同一視することは、明らかに大きな責任を伴います。
主を信じることは人間の存在全ての根本ですが、一方で人間はその性質として移ろいやすく、信用できないものです。
主は人間にこの恐るべき責任を認めることを許されていますが、全く当然なこととして、この責任を扱う上では最大限注意するよう警告されています。
人間の意志による誓いと神の名の元の誓いを同一視することで、人間の信頼度が高まるでしょうが、それは逆の効果もあるということです。
つまり、あってはならないことですが、主の名への信仰を貶めるという効果です。
これが、格別な信仰心のある人のみ誓うべきだとラシが言っている理由です。
祭壇を建てること
タルムードは、誓約を立てることは個人的な祭壇を建てるようなものだと言い、これを満たすことは、祭壇に供物を捧げるようなものだとしています。
この記載の背景と意味を説明しましょう。
聖なる神殿がエルサレムに到達するまでは、中心となるタバナクルの祭壇の他に個人的な祭壇を建てることは限定的に許されていました。
しかし、神殿が永久の在り処にたどり着いた後は、こうした個人的な祭壇に供物を捧げることをトーラーは厳しく禁じています 。
同じことは次のようにも言えます。
敬虔な人は、供物を捧げ、世俗的な楽しみを諦めることで神への献身を示したいと望みます。
もし供物と禁止事項に何ら個別の不変である慣習が無かったら、彼は自分でそのやり方と献身の程度を決めなければなりません。
しかし今や、主は聖地としてユダヤ人にエルサレムを与えられ、献身を導くためのトーラーを与えられたので、個人主導の献身はもはや必要とされません。
神ご自身が、どのように仕えられるのが最善なのかご存じなのです。
そうなると、なぜ既にある義務の履行を促進する誓いだけが認められるのかが分かります。
この場合、個人が新たな「戒律」を自分のために作るわけではなく、既にある戒律の履行を強化するだけです。
ネデルを立ててこれを満たしていない人は、祭壇を立てて供物を捧げていない人のようなものです。
賢人たちが作り上げたルールの外で、自分だけのために主に仕える方法を作ったのに、その勤めを実際には果たせていないのです。
そうであれば、そのネデルを無効にした方がいいでしょう。
誓いを無効にする
誓いは、三人の在家の審判員の合議によって、その人が自身の誓いがもたらした結果を完全に認識しており、当初からそのような誓いを立てていなかったと決定されれば無効とすることができる。
ネデルやシェブアを立てることで巨大な責任を引き受けたのに、その誓いを無効にすることによって責任を回避することは許容されるというだけでなく、称賛すべきことであるということは驚くべきことです。
実際、ミシュナーはこの行為を「宙吊りになっている」として強調しています。
つまり、誓約を破っても良いという伝統が無いので、この行為が聖書に照らして正しいかどうかを確認するのが難しいのです。
この不可解な行為を理解するための方法が一つあります。
誓いを立てる人は、実質的に新たな戒律、新たな義務や禁止事項を作り、かつトーラーの戒律を完全に守っています。
というのは、トーラーは私たちに誓約を冒涜しないよう命じているからです。
この能力は、それぞれの時代と場所で直面した状況に対処するために、賢人たちに与えられた戒律を作る力と似ています。
トーラーが賢人たちの教えから逸脱しないように命じていることから、この力は聖書のバックグラウンドも持っています。
言い換えれば、特殊な必要性に応じて各共同体の指導者が新たな決まりを作るように、個人の特殊な必要性に応じて個人が新たな決まりや誓いを作ることはあるのです。
しかし、ある共同体で受け入れられているトーラーのルールは、時にはより偉大な学者や法廷(ベイト・ディン)によって再考されることがあります。
偉大なトーラーの指導者たちと法廷は、様々な共同体における慣習の適切さについて尋ねます。
相談を受けた権威は、その慣習はユダヤ人全体として正しいかどうかという視点と共に、その共同体自体にとってのルールとして正しいかどうかという点を重視します。
より偉大な権威に相談されるまで、適切に任命された各地域の権威によって決められたルールが拘束力を持ちます。
しかしルールが導入された後で、地域の権威は必ず世界的に高名なラビたちや法廷に判断を仰がなければなりません(16世紀のヨーロッパにおける「四国会議」など)。
トーラーが地域のラビに与える権威は相当なものですが、地域のラビはこの権威を超えないように、また濫用しないようにする大きな責任を持ちます。
もし相談を受けた権威が、導入されたルールはその目的のために機能していないと感じたら、より高位の権威に再び判断を仰ぐことは称賛されるべきことです。
これは、個人が作った誓いに対して、環境の変化によって当初のルールが不適切になっていないかどうかを、法廷や高名なトーラー学者と共に議論する能力と責任に似ています。
こう考えれば、誓いを無効にするためのルールが多くの面でラビの法廷における判断のルールと似ていることもよく分かります。
どのような誓いが無効とされるべきか
相談を受けたラビや法廷は、問題となっている誓いを無効にすることが適当かどうかを決めなければなりません。
それどころか、その誓いは維持されるべきだと決定することもあります。
初期の賢人たちは、誓いを無効にするかどうかの一番もっともな判断基準は、それが個人の神への勤めを妨げるかどうかであるとしています。
断食をすればトーラーの研究の妨げになります。
特定の食べ物を避けるようにすれば、安息日や祭日を楽しむことから気が逸れます。
誓いが認められるのは神への勤めの助けになる場合のみであることを、既に説明しました。
そのため、誓いが勤めを妨げる時には、進んでこれを無効にするのは合理的なことです。
後に、コル・ニドレの祈りを扱い、誓いを無効とすることについての更なる洞察を試みます。
年少者の誓い
12歳の少年の誓い、または11歳の少女の誓いは、彼ら自身が自分の約束を理解していることが確認できれば有効となる。
トーラーでは、男の子は13歳になると大人と見なされ、女の子は12歳になると大人と見なされます。
この年齢に達する前は、子供は戒律を完全に義務付けられるための判断力を持っておらず、自分の行動に責任を持つこともできないと考えられています。
誓いは、この原則の例外とされる珍しい例です。
一般的に、義務を正しく認識するためには、個人的な自分の中にある必要性と願望を、外的な約束事に結びつける能力が必要です。
たとえば、トーラーの掟を守るという約束や、商取引に伴う責任は、トーラーの法によれば大人にだけ適用されるものです。
しかし誓いについては、一義的には自分が置かれた個人的な状況自体を認識することができれば、誓いの義務を正しく認識できるとされています。
これは、「汝自身に忠実であれ」という例です。
自分の状況と外的な要求を調和させる能力よりも、自分の状況を正しく評価する能力が優先されるのは合理的です。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
タルムードと神道(45):トーラーの巻物を書くこと、トーラーの本を得ること
凄く難しい内容でした。妻の病気回復を祈り、自分の嗜好品を年に一つ止めている友人が居ます。偉いなと関心しておりましたが少し違和感を感じていました。今回の学びで違和感の正体が少し分かりました。