タルムードと神道(77):喜びと悲しみについての祝祷

幸せな出来事、悲しい出来事に当たっては三つの異なる祝祷が唱えられます。

個人にとって良い知らせに接した時は、シェヒヘヤヌーを唱え、神に「私たちを養っていただいたこと、このような幸先の良い時を迎えることができたこと」を感謝します。

楽しみが他の人と分かち合えるものであれば、幸せな知らせに接した時には、ハトヴ・ヴェハメティフを唱え、神が良きものであり、良き事をなされることに感謝します。

好ましくない知らせについては、ダヤン・ハエメットを唱え、主が「真の審判者」であることを認めます。

祝祷は私たちを、この世界における経験と結びつけるものであること、特に、経験が持つ内的、精神的な側面と結びつけることができるものであることを説明してきました。

それゆえに、祝祷は主の導き一般に対して捧げられるのではなく、常に具体的な導きに接した経験に結びつけられます(「パンをちぎること」「食事の前の祝祷」を参照)。

食べ物については、食べようとする時にだけ祝祷を唱えるように、実際に心が動くような出来事に接した時にだけ、主を称える祝祷を唱えるのです。

 

シェヒヘヤヌー:「私たちをこの時に導いてくれた方」

楽しみについての祝祷とは違い、シェヒヘヤヌーの祝祷は楽しみをもたらす出来事そのものには言及しません。

楽しみ自体にすら言及しません。

代わりに、この祝祷はその出来事を過ごす「時」に言及します。

実際に、タルムードにおいてこの祝祷は、ゼマンと呼ばれていますが、文字通りの意味は「時」です。

基本的には、祭りやナツメヤシを取る時、ハヌカのロウソクに火を灯す時のような定期的に行うミツバに際してこれを唱えます。

このような定期的で重要な行事があると、時間を規則正しく過ごすことになり、またその時間が意味を持つことになります。

ある出来事を思い出すときに、「仮庵祭の頃」「過越祭の後」のように思い出すことがあります。

そのため、このような行事についての祝祷はその行事自体よりも、それが行われる時に対して唱えられることが適当です。

これらの祝祷のおかげで祭日やその他の喜ばしい出来事がより一層、ぼんやりと過ぎていく時間に文脈と意味を与えることができるようになります。

「祝祷の掟」において、これと密接に関係する考え方を扱いました。

ラビ・ユダ・ハレヴィは彼の古典的作品である「クザーリ」の中で、食べ物と他の喜びについての祝祷は、私たちの注意をその対象に向けさせることで楽しみをより強くするのだと示しています。

そうでもしなければ、私たちは食べ物についてほとんど注意を払わないでしょう。

時間についても、同じ見方が当てはまります。

忙しい人々は何を食べ、飲むのか考えもしないように、一日を過ごし、そのうちに一週間、一年と過ぎていく時間についても考えていないのです。

祝祷を唱えることで、時間について意識的になることができ、過ぎていく時間の中で自分を見失うことなく、立ち位置を見定めることができます。

 

一年の周期と一生の周期

祭日と隔年のミツバにおける時間の要素は明らかです。

旬のある果物が隔年で熟すことも同じです。

これはシェヒヘヤヌーを唱える機会となります。

しかし、この祝祷に使われている言葉は、ここで扱っている他の楽しみ、例えば家を建てることや新しい服を買うことには適さないように見えます。

つまり、そのような楽しみは決まった周期を持っていないのです。

この疑問はリショーニーム(中世初期の権威たち)によって提示されました。

テルマー・ハデシェンはこの疑問に対して部分的に答えを出しており、新しい服は普通毎年必要になるものだから、新しい服を買うことは一定の周期で起こることを示唆しています。

このテルマー・ハデシェンの洞察は、シェヒヘヤヌーを唱える他の多くの機会にも当てはめることができます。

誕生、遺産の相続、家を建てること、「長男の贖い」などは、一年のうちに決まった時期があるわけではありませんが、一生のうちの決まった時期に関係しています。

これらは一年の周期の一部ではありませんが、一生の周期の一部なのです。

一年における祭日のように、これらは人の一生においては画期的な出来事です。

ある出来事を、「息子が生まれたくらいの時期」「母が亡くなった直後」という形で思い出すのです。

これらの出来事は、季節が巡ったとしても色褪せることはありません。

これらは、流れにさらわれる漂流物のようなものではなく、時間の流れをありのままに導く、決まった流れの道筋なのです。

 

ハトヴ・ヴェハメティフ

幸運が分かち合われる時には、全く別の祝祷が唱えられます。

それが、主は良きものであり良き行いをなさるということに感謝するハトヴ・ヴェハメティフです。

「ワインについての祝祷」において、喜びを分かち合うことは人々の間に特別な結びつきを作ると説明しました。

このような、人間同士を分かつ壁を超えていく結びつきを作ることの喜びは、誰かと分かち合うどんな喜びにも勝るものです。

「良い人」であることは簡単なことです。

基本的な良さとは人間本来の性質の一部だからです。

また、主の良さを認識することも容易いことです。

良きものであるということは、私たちが考える神という存在の一部だからです。

しかし、「良い行いをする人」であるためには、エネルギーと行動が求められます。

自分の外へ出ていく必要がありますし、自然とそうなれるものでもありません。

私たちが自然に持っている自己を超えて、狭量な自分を捨てて、誰かの幸運を自分のことのように喜ぶことができたなら、その時には同じように、主がどのように良きことをなさるのか、また世の中の出来事の中にどれほど主の存在が明らかなのかを分かることができるでしょう。

この祝祷は喜びが分かち合われたという事実を表すので、これを唱えることによって狭量さと敵愾心を超えることができ、他人の幸運を心から喜ぶことができるようになります。

 

良いことについての祝祷、悪いことについての祝祷

私たちは喜ぶべき経験だけでなく、悲しむべき経験についても神を祝福する必要があります。

この場合、私たちは主が「真の審判者」であり、審判に当たっても誠実・公正に振る舞われることを認めます。

私たちには計り知れないものであっても、神を信じるということは、神が良きものであると信じることを含意しているのは当然なことです。

そのため、たとえ良くないことが起こった時でも、神の良さを信じ続けなければならず、神がなさることは全て良きことのためであるとさえ認めなければなりません。

しかし、なぜ悲しむべき出来事が祝祷に値するのか、理解することは難しいです。

祝祷は、私たちの日々の経験において主がいらっしゃらないことは無いということだけでなく、主がいらっしゃるということを指摘します。

これを理解するための方法の一つは、私たちの究極の望みは神に近くことだということを思い出してみることです。

私たちはうわべだけの、身体的な指示を超えて、神の御意志がどのように私たちを導かれるのかを知りたいと願っています。

裁きを受けることは、褒賞を受けることと同様に神の導きとの出会いです。

賢人たちは、邪悪なる者に対する神の罰の一つは、この世界において彼らを罰さないことだと言っています。

構ってもらいたい子供は、時として親を怒らせようと不作法な行いをします。

これは、無視される虚しさよりも叱られるというネガティブな構い方を望むからです。

私たちは神の子供として、それが神を近くに感じるためであるならば、例え悲しむべき経験でも喜んで受け入れることができます。

実際に、最も神を畏れている人々はよく、悲しみの只中にある時ほど神の存在を取り分け感じることができると言います。

 

来るべき世界

タルムードは、この世界においては良い知らせと悪い知らせを区別して、前者についてはハトヴ・ヴェハメティフを、後者についてはダヤン・ハエメットを唱えているが、来るべき世界においてはハトヴ・ヴェハメティフだけになるであろうと言っています。

ラシはこの理由を、来るべき世界においては、悪い知らせが存在しないからだと説明しています。

来るべき世界は「良きもので満たされた世界」なので、これはその通りです。

来るべき世界にハトヴ・ヴェハメティフしか存在しない理由は、メシアが現れた後には私たちは神の導きを完全に理解できるようになるので、悲しむべきことのように思われる出来事でさえも主の良き行いであることが分かるようになるからだ、とも説明できます。

 

男の子と女の子

両親は、男の子が産まれたらハトヴ・ヴェハメティフを唱え、女の子であればシェヒヘヤヌーを唱えます。

子供が生まれることは、両親にとって特別に喜ぶべきことですが、このルールからは、男の子が生まれた喜びは、父親と母親で分かち合うものであり、女の子が生まれたことは、両親がそれぞれ喜ぶことであるように思われます。

もしかしたら、女の子が持つ母親との特別な結びつきは、父親との関係とは全く違うので、父親と母親では喜びが全く異なるのかもしれません。

両親はそれぞれシェヒヘヤヌーを唱えることができますが、ハトヴ・ヴェハメティフを一緒に唱えることはありません。

 

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

タルムードと神道(34):テフィラー

タルムードと神道(35):アミダーの祈りへの追加

タルムードと神道(36):先唱者によるアミダーの復唱

タルムードと神道(37):埋め合わせの祈り

タルムードと神道(38):タファナン(懺悔の祈り)

タルムードと神道(39):週日のトーラー朗読

タルムードと神道(40):完全なトーラーの巻物を書くこと

タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ

タルムードと神道(42):会葬者のカディシュ

タルムードと神道(43):トーラーを学ぶことについての法

タルムードと神道(44):☆神道と儒教

タルムードと神道(45):トーラーの巻物を書くこと、トーラーの本を得ること

タルムードと神道(46):正しい行い

タルムードと神道(47):否定的な発言を避けること

タルムードと神道(48):天のために行動すること

タルムードと神道(49):正しく体をケアすること

タルムードと神道(50):危険な行い

タルムードと神道(51):喜捨(きしゃ)の法

タルムードと神道(52):ハッラーの法

タルムードと神道(53):肉に塩を振ること

タルムードと神道(54):食事の道具を水に浸すこと

タルムードと神道(55):非ユダヤ人が整えた食べ物

タルムードと神道(56):食事の前に食べること

タルムードと神道(57):☆儒教と神道を合体させた理由

タルムードと神道(58):パンを食べるために手を洗うこと

タルムードと神道(59):パンをちぎること

タルムードと神道(60):食事の間の振る舞い

タルムードと神道(61):食事中に祝祷を必要とする食べ物

タルムードと神道(62):食後の祈り

タルムードと神道(63):ツィムーン

タルムードと神道(64):禁止された食べ物

タルムードと神道(65):非ユダヤ人のワイン

タルムードと神道(66):焼かれた食べ物についての祝祷

タルムードと神道(67):ワインについての祝祷

タルムードと神道(68):食事の前の祝祷

タルムードと神道(69):結びの祝祷

タルムードと神道(70):食べ物についての祝祷

タルムードと神道(71):果物のジュースと野菜のゆで汁

タルムードと神道(72):中心となる食べ物と従属する食べ物

タルムードと神道(73):食べる前の祝祷の順番

タルムードと神道(74):正しく唱えられなかった祝祷

タルムードと神道(75):追加の料理についての祝祷

タルムードと神道(76):香りについての祝祷

1 個のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    時、分かち合う喜び、好ましくない出来事、に於いての祝祷ですね。
    祝祷の言葉を覚えられそうにないので、自分の言葉を探します。

  • コメントを残す