ハゴメルの祝祷
危機的な状況を安全に脱した人は、「罪ある者にも親切にされ、私にあらゆる親切を下さった方」という特別な祝祷を唱えます。
興味深いことに、この祝祷の言葉は危機からの生還について直接言及してはいません。
ただ、神が親切を下さることに感謝しているだけです。
さらに、そのような状況で祝祷を唱えることも少々謎めいています。
そもそも、今まで一度も病気になったことがない人や、一度も牢獄に囚われたことがない人の方が、よほどこの祝祷を唱える理由があるでしょう。
ラビ・クックはまさしく、この祝祷は私たちが全ての場面において享受している、主がくださる全ての慈悲に感謝するものであると示唆しています。
しかし、神の祝福があまりに途切れ無く、多岐にわたっているので、神の導きが当たり前のものではないことをつい忘れてしまいがちです。
危機的な状況が起こって初めて、私たちは普段の当たり前の在り方について、いかに感謝しなければならないのかを自覚するのです。
ミシュナーでは、この祝祷が必要な四つの状況を挙げています。
(1)非常に危険な海の旅から無事に帰った時
(2)同じく、砂漠の旅から無事に帰った時
(3)危険な病気から回復した時
(4)牢獄から解放された時
これら四つの異なる理由は、私たちが通常受ける四つの異なる制限を象徴しているとラビ・クックは言います。
次に挙げるのは、ラビ・クックによる説明を訳したものです。
祝祷に値する四つの出来事は、それぞれ私たちが通常受ける普通のことではありながら時に苛々するような制限の種類を表しています。
1.人は時として自然環境による制限に対して苛々する可能性があります。
そのような時には自由に通行できる海の広がりを切望するかもしれません。
しかし実際に海の旅を経験した後、普通の環境がいかにふさわしく、無害であるかに気づくのです。
2.人は時として社会に強要される制限に対して不快に思う可能性があります。
そのような時にはそこから逃れて砂漠で一人になることを切望するかもしれません。
しかし、ある程度の時間砂漠で過ごした後、自分が共同体と慣習にいかに依存しているかに気づくのです。
3.人は時として自分の身体に由来する制限に対して我慢できなくなる可能性があります。
もしかしたら、何日か物を食べたりトイレに行ったりせずに過ごすことができたら快適だろうと考えるかもしれません。
これもまた、こうした自然な制限から逃れて、しばらく過ごした後、身体があることによる枷に思えたものが、実は人間の精神にとって自然で有益なものであることに気づくのです。
4.人は時として道徳上の制限に対して苛々する可能性があります。
道徳上の制限は些細なものであり、大きなことを達成するための面倒な障害に思えます。
道徳上の違反によって収監されることで、道徳からの自由は結局、完全な不自由に繋がることを思い出すことになります。
もし誰もが好きなように振る舞う自由を持っていたら、例外なく誰もが恐ろしく、混沌とした牢獄に入ることでしょう。
上記のように、ハゴメルは対照的な祝祷なのです。
日々の制限と環境から一時的に逃れることで、実際にはこれらの制限は抑圧するものではなく、むしろ活力を与えてくれるものであることを実感するのです。
普段の決まった習慣から離れ、それに戻った時、本当の意味であらゆる親切を常に与えてくださる主への感謝を表すことができるのです。

空虚な祈り
過去を変えたいと祈ることは禁じられています。
選ぶ余地のない人に何かを命じることは出来ないことから、トーラーは自由意志の考えに基づいています。
そして自由意志の最も基本的な意義とは、私たちの行動は連続しているということです。
私たちの選択は未来に影響しますが、過去に影響を与えることはできません。
賢人たちの例は一般に、それ自体が教育的な教訓を持っていることを以前に指摘しました。
タルムードに挙げられ、ラビ・ガンツフリードが引用している「空虚な祈り」の例は次のようなものです。
「悲劇的な出来事を聞いた人が、同じことが自分の家に起こらないことを祈る」
「すでに妻が妊娠している時に、男の子が産まれるように祈る」
これらの祈りは、たとえ叶う可能性があるにしても、確かに空虚さがあるため空虚な祈りの良い例です。
誰かが将来の不幸を予見していて、それが他の誰かに降り掛かることを祈ることは厳密には禁じられていませんが、これもやはりふさわしくありません。
ミシュナーは「魂に優劣を付けてはならない」としていますから、誰かの犠牲によって自分を守ってはならないのです 。
同様に、男性が妻に男の子を授かるように祈ることも厳密には禁じられていませんが、これもまたふさわしくありません。
タルムードでは、男性が女の子よりも男の子を好むことは自然なことであるとしている一方で、世界には男の子も女の子も両方必要であることを思い出すべきだと指摘しています。
最も重要なことは子供が天にとっても他の人にとっても良き人間として成長するように祈ることだと、ラビ・ガンツフリードは結論づけています。
「祝祷は目には見えないものにある」
作物が集められた後で収穫が豊かであることを祈ることはあり得ますが、量が計測された後で祈ることはありません。
このルールの元となっているのは、「祝祷は目に見えないものにのみある」というユダヤ教の哲学的な教義です。
祝祷が隠されたものにのみ見られるという考えは、「邪悪な眼」という概念を踏まえれば当然です。
これは、あまりに大っぴらであることは不運を呼ぶという概念です。
先に挙げた例で言えば、「隠されたものにのみ祝祷がある」という表現は、不明だった収穫量が明らかになることで収穫に対する祝祷の効果は無くなることを意味します。
しかしこの表現のより深い意味は、本当の祝祷は知り得ないもの、目に見えないものの中にのみあるということなのです。
知性があること、快適であること、美しいことは素晴らしいことであり、ユダヤ法はこれらの祝祷の大切さを認識しています。
しかし祝祷の真髄は、神の近くに在ることであり、目に見えず測ることもできない性質そのものから来る精神と本質に満たされることにあるのです。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
思いもよらぬ不運に遭遇した時に、当たり前と思っていた日常が、実は当たり前ではなかったと痛感します。そんな時に神の恵みを忘れ、神を恨んでしまった時もありました。
でも今こうして元気に生きていられているのは神の恵み以外考えられません。
一見不運だと感じる事も、本当はそうでないのかも知れません。