朝の祈り前の制限事項は、私たちが祈りを忘れないように課されています。
また、祈りを忘れないためではなく、祈りが1日のスケジュールにおいて何より先に優先されるべきだという原則によるものです。
食事の前の祈り
自分の体力が非常に弱っていて栄養を少しでも補給しなければ祈れない場合を除いて、祈りの前に食事をとることは禁止されています。
精神的な必要性を満たすことは、肉体的な必要性を満たすことよりも優先する必要がある、という原則があり、これは大変重要です。
賢人たちはこの禁止事項について、聖書にもヒントを見つけることで重要性を強調しています。
血抜きされていない動物を食べてはならない(レビ記19章・26章)
この禁止事項から学び取れることは、吸血鬼のように食べてはならないということです。

これはつまり、品がなく、がっついて血を浴びながら食べるような、野獣と同じ食べ方をしてはならないという意味です。
動物を生きたまま食べることは、私たちに吸血鬼のような野蛮性を思い起こさせます。

私たちが行儀よく、節度をもって食べるならば、私たちが食べた食材は聖なるものとなるでしょう。
しかし、私たちが野獣のように貪り食べるなら、逆のことがおこり、私たちの魂は劣化してしまいます。
このトーラーの一節は、私たちに魂の向上が起こるような方法で食べることをすすめています。そして、この原則は朝の前の祈りにも当て嵌まります。
私たちの伝統は、原則的に急ぐことを求めませんが、ここでは賢人たちは私たちに、祈りを果たすために必要であれば、その力をつけるためにしっかりと朝食を取ることを勧めています。
私たちは、まず祈り、それから食べることで「生きるために食べる」…すなわち神に仕えるために食べるのであって、その逆ではないことを体現するのです。
同じことが祈りに集中するために、祈りの前に食事をする場合にも言えます。
しかし、私たちが祈ることよりも、食べることの優先順位を高くしてしまえば、食べることは魂にとって障害になってしまいます。
食事への欲求のせいで、神に仕える正しい優先順序を妨げてしまうことになるのです。
仲間に挨拶する
朝のお祈りが済んでいないのに誰かにわざわざ挨拶しに行くのは適切ではありません。
私たちは優先順位をぶれないように定める必要があり、主との繋がりこそが、友人たちとの社会的な関係の礎を形成していることを忘れてはなりません。
しかしながら、祈りの前に偶然出会った方に挨拶をすることについては何の制限もありません。
賢人たちは、親しみを込めた挨拶を受け取ることの重要性を大変強く強調しています。
なので、たとえ朝の祈りの前であっても、伝統に則った丁寧な挨拶をするべきです。
しかし、こちら側に時間がなく急いでいることが相手に伝わるように、挨拶の仕方は多少簡略化させても構いません。
時間に追われている時は、誰でもそのようになるものであることは皆知っていることであり、慣れているからです。
融通の利かない信心深さを発揮して、朝、友人を無視してしまうと、少なからず感情を傷つけてしまうでしょう。
もし急いでいる要件があって、友人を助けるため、彼(彼女)を訪れるのであれば、お祈りはおろかシェマーを唱えることさえ後回しにすることが殆どです。
本日の課題
1:朝、ご飯を食べる前に、超自然的な何かにお祈りを捧げてみましょう。
2:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
食事の前は必ず手を合わせて「いただきます」と感謝して食べています。深く考えると料理してくれた人、食材、それを育んでくれた自然、それら全てを与えてくれる天に感謝です。
「私たちは、まず祈り、それから食べることで「生きるために食べる」…すなわち神に仕えるために食べるのであって、その逆ではないことを体現するのです。」の内容に対して共感出来ます。
また、毎朝床の間の前で天や守護神にお祈りをさせて頂いております。
それから一日が開始しています。
昔からの習慣ですが、
食事をする前に「天地一切の恵みと、これを作られた方々のご苦労に感謝して、頂きます」
食事後に「恵みの食事を終わり、生命に新しい息吹と力を頂きました、ご馳走様でした」
と唱えるようにしております。ただ、自宅にいるときは言葉に出しておりますが、外出時は心の中で唱えてます。