シナゴーグにおける振る舞いは、その聖性に相応しいものでなければなりません。
無駄なおしゃべりは禁止であり、常に清浄にし、礼儀正しく振る舞うことが義務付けられています。
ここでは、シナゴーグ(ベイト・クネセトと同義)において求められる畏怖の念と敬意についてお伝えします。

シナゴーグは「mikdash me’at」…すなわちエルサレム神殿のミニチュア版と考えられており、シナゴーグにおける所作を定めた法の多くは、神殿において義務付けられていた同種の法に由来しています。
シナゴーグにおいて見られる仕組みと行為は敬意を表すものであり、大層な畏怖を表すものではありません。
ユダヤ人の信仰の場所はちょっとした家のようであり、信者たちが落ち着ける場所です。
正統派の男性はシナゴーグで一日に1回か2回祈りを捧げ、その祈りは聖職者に主導されるのではなく、祈りを捧げる側のメンバーに主導されます。
このようにシナゴーグは、親しみやすさや仲間意識を作り出し、またそれをより深めるような働きをするのです。
実際に、シナゴーグとエルサレム神殿の違いはそんなに大きくありません。
神殿自体は畏怖を呼び起こすものの、そもそも恐れを抱かせようと意図されたものではありません。
事実、神殿における習慣の多くは、訪れた人の間に仲間意識を醸成するのに相応しいものでした。
122章では、エルサレムの状況と、ユダヤ人なら誰もが歓迎された気分になる「民族みんなの家」としての神殿について説明しています。
シナゴーグは主を恐れるための場所でありながら、主に親しむことができる場所でもあります。
このことが、促されることがあっても押し付けられることはないという、畏怖の感情の求められ方に表れています。
これら2つの種類の親密さについては、18章でより詳しく議論します。
子どもに口づけすること
シナゴーグ内で子どもに口づけすることは禁止されています。
これは、「主の愛のような愛は他に無い」ことを常に心に留めるためです。
子どもに口づけすることが禁じられているのは、主への信仰を捧げる場所において、子どもへの愛情があまりに世俗的だからなのでしょうか?
または、子どもへの愛情が強すぎて、主なる神の愛を打ち負かしてしまうかもしれないからでしょうか?
この問いに対する答えは、著名な書物から学ぶことができます。
ヴィルナのガオンは、ゾハールの中の一節を取り上げて説明しています。
それは、祈るときはレベ(トーラーの教師)の真後ろに立つことを禁じている節です。
ゾハールでは、真後ろに立つことが教師の名誉を損なうわけではないと記しています。
反対に、教師への畏敬の念が強すぎて造物主への畏れが損なわれてしまう危険があるので、これを禁じているということです。
レベの後ろで祈ってはいけない。〈主なる神、彼は畏れをもたらす者〉とある通り、学生が師であるレベを主なる神の実在のごとく畏れるようになることは、そもそも私たち自身が主なる神の弟子なのだから無理からぬことだ。それゆえに、祈りの間は自身の畏れを目の前に置いてはならず、ただ祝福されし聖なる神のみを畏れるべきである
主が与え給うたトーラーを講義することで学生に与えるレベの畏怖は、たしかに主に対する畏怖の一面ではありますが、それでも私たちは主に対する畏怖とは区別するように気をつけなくてはなりません。
ヴィルナのガオンが示した比喩は、親の子に対する愛が極めて高尚で、精神的な愛であると暗示しているようです。
レベへの畏怖が主への畏怖によって助長されたように、子どもへの愛も主への愛によって助長されるのです。
間違いなくこれが、シナゴーグにおける愛情が主への信仰の妨げとみなされる理由です。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
「教師への畏敬の念が強すぎて造物主への畏れが損なわれてしまう危険がある」 ということをしっかりと教えている点が素晴らしいと思います。神ではなく教祖を崇め奉ることほど危険な信仰はないのではないでしょうか。
「シナゴーグは主を恐れるための場所でありながら、主に親しむことができる場所」というのは、神社が正にそのものですね。
私の勤め先のすぐ近くにも神田明神がありますが、日本中、至るところに神に親しむことができる祈りの場(神社)があるのですから・・。