タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

バルーフやカディシュの祈りの儀式における応答唱歌の部分は、トーラーの朗読と同じように、バル・ミツバ(成人の儀式)の年齢に達した10人で形成するミニヤンによってのみ唱えることができます。

ユダヤ教の教えは、主の御意志を実行する時やトーラーの定めを満たす時に、民族全体が果たす役割を非常に重視しています。

族長たちと契約を結ぶ前であっても、トーラーを与えられる前であっても、個々人と共同体は主に従う責任を持っています。

契約の意義は、多くの個人が一緒になって服従したことではなく、1つの集合体が新たに作り出されたことにあります。

その集合体は有機的にまとまった民族や会衆であり、この単位で主と繋がり、主の意志を実践するのです。

この民は、我が誉れを述べさせるために、わたしが自分のために造った者である

 

礼拝の最も聖なる部分は共同してのみ唱えることができるということから、個人は個人としてのみあるのではなく、共同体に属しており、究極的にはイスラエルの全会衆に属しているということを考えさせられます。

ユダヤ人は、ミニヤンが成人男性に限られるのは、一見、排他的に思われるようで、実際にはこの包含性を持ちます。

ミニヤンとは、ユダヤ教の礼拝において、公的礼拝をするための10名以上の人数のことを指す。

10人、100人、1000人の男性は、ただの個人の集まりですが、これをミニヤンに参加していない人々の代表者であると見れば、さらに拡大して全ての人々の代表であると見なすこともできます。

タルムードでは、イスラエルの地に入ることを思い止まらせた10人のスパイの例から、10人の男性が必要になったとしていて、この読み替えが正しいと示唆しています。

この10人の族長たちは、部族全体の決定的過半数を代表していました。

人を数えること

ユダヤ教では、直接的に人を数えることは禁止されています。

ミニヤンができているかどうか確認するためには、それぞれの人を聖書の1節に関連付けるか、あるいは代わりに帽子などの物を数える。

この法はトーラーの戒律によるものです。

各々その数えられる時、その命の贖いを主に捧げなければならない。これは数えられる時、彼らのうちに災の起らないためである

 

また、ダビデ王が直接、人数を数えるよう命じたことで戒められたことにも由来しています。

この法が伝えているのは、人間の固有の価値(質)は、数字で表される量に貶められることはできないということです。

2人の人間がいることは、いかなる意味においても1人の場合の倍であるということにはなりません。

ヤコブの息子であるルベンとシメオンを足し合わせると2に等しくなるのではなく、一緒にいたとしてもなおルベンとシメオンなのです 。

もちろん、時には単に人数を知りたい時もあります。

しかし、ただ単に人数を数える必要がある時でさえ、その一人一人は別個の一人であることを思いながら数えます。

さらに多くの場合において、私たちは人数を問題にするよりも、個々人の能力の相乗効果を気にしています。

例えば、判事が3人必要なのは、少なくとも3人いれば議論の中に多様な意見を取り入れることができ、結果としてフェアな結論に至るだろうと考えられるからです。

ミニヤンに10人の男性が必要なことも、同じように考えれば一番分かりやすいです。

ちょうどヤコブの息子たちが、それぞれのユニークな性質のゆえに高く評価され、一挙に父によって祝福されたように、10人集まればその分、幅広い個人の才能と特徴が1つにまとまるのです。

この場合、人数が問題であるように思われても、結局重要なのは個々人の独特さであるということになります。

この考えが見事に表現されているのが、聖書の一節の言葉を使って数えるというやり方です。

文の中にある全ての言葉はユニークであり、その言葉がなければ聖書の文は意味を失ってしまいます。

カディシュ(礼拝の最後に唱えられる祈り)

カディシュの祈りの言葉に努めて注意を払い、大きな声で明瞭に「主の偉大なる御名が永遠に祝福されますように」と応答しなくてはなりません。

カディシュはもしかすると、全ての祈りの儀式の中で最も重要な共同での祈りかもしれません。

カディシュに応答することは、バーラフに応答することよりも、更にはケドゥーシャに応えることよりも重要です。

カディシュに応えて「主の偉大なる御名が永遠に祝福されますように」と賛同する者は、来るべき世界に居場所を与えられ、また、全力を持って応える者は、厳しい定めを打ち消すと言われています。

カディシュは主への熱烈な称賛ですが、根本においては称賛の祈りではありません。

カディシュの中心になっているのは、会衆に向かって、会衆のために捧げられる簡潔な願いです。

主なる神が少しでも早く、その力をあなたの人生、あなたの日々の生活、そして全てのイスラエルの人々の生活にもたらされますように

 

この願いが主自身には向けられておらず、会衆に向けられていることは非常に意義深いことです。

彼らは自身の利益のために、主なる神の力を受けるに値することを願うのです。

そして彼らはこれに応え、この願いを承認します。

この祈りが美しいのは、私たちが主に望むことの全ては私たちの王になっていただくことであり、これを明らかに全会衆、全民族の望みであるとして祈ることです。

これは主への献身と忠誠、「縁無きところには生じえない愛」を余すことなく示しています。

カディシュは祈りの儀式の各セクションの最後に唱えられます。

なので、ユダヤ人たちは主との結びつきが、ペスーケイ・デズィムラにおいて語ったような主への称賛ではなく、シュモネー・エスレーにて求めたような願いの成就でもなく、ケドゥーシャ・デシドラで強調したような主の特別な親愛でもないことを意識することができます。

これは、純粋に世界を主に統べてもらいたいという願望なのです。

会葬者はこの祈りを捧げるのに特別気をつかいます。

ある場合においては、この祈りは会葬者の特別な権利でもあります。

これは主の御意志に対して完全な悔悛を表すメッセージです。

祈りの先唱者の適性

祈りの先唱者は完全に高潔な人であり、学を修め、気持ちのよい声とイントネーションを持つ人が望ましいとされます。

率いられる会衆自身が彼を選び、彼に満足しなければならなりません。

しっかり髭を生やしている人であれば、なお望ましいとされます。

シュルハーン・アルーフにおいては、実際に髭があることは必要ではなく、祈りの先唱者は顔の毛が生え揃うくらいの18歳以上であるべきとされています。

これは家族を持つのに適当な年齢であり、ミニヤンが全会衆を、特に家族を代表するためのものであるという説明とも整合します。

事実、儀式のある祭日においては、家族のある人を先唱者として求めます。

これらの日において先唱者は、自分たち自身のために祈る人の義務も満たすことができるので、他の日よりも強く「代表する」ことが意味を持つのです。

それでも、年齢の制限について髭を使って表すことには意味があります。

髭はあるがその年齢に達してはいないという点で、条件を満たさない人は、周りの人からはその年齢に達しているように見えます。

これが示唆するところは、祈りの先唱者はその外見が彼の内実と矛盾しない人でなければならないということです。

 

本日の課題

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これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

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タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

2 件のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    多くの宗教では自分と家族のためだけの祈りがほとんどですが、民族全体に対する祈りという意味が素晴らしいと思いました。

  • 伊藤 より:

    この文章を拝読していると、「全にして個、個にして全」という言葉が思い出されます。
    集団は、個々の集まりですが、それが互いに関連して作用しあうと、一定の意味のある生命体「全」になる、というような意味だったと思われます。
    「個」が能力を発揮すれば、相乗効果をもたらし、「全」もまた影響を受けますし、
    「全体」が神に向かえば、「個体」にもその影響がもたらされるのでしょう。
    その意味で、神に波長を合わせるための儀式における「祈りの先唱者」の役割は重要なのでしょう。
    「全体」の波長が合えば、「個体」も同期することになるのでしょうから。

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