タルムードと神道(20):朝の祝祷

前回までは、一般的な祝祷の役割と、私たちとの関わりやその意義について説明しました。

自分自身のアイデンティティを見つめ直すことから一日を始めるのは自然なことです。
モデアニ…つまり「私は認識します」と唱えることで、「私」とは誰なのかと疑問を持ちます。

その問いに対する答えは、人間たる、そしてユダヤ人たる所以であるところの全ての特性を表す朝の祝祷によって得られます。

毎朝私たちは主を称え、「私をゴイム(異教徒)とはなさらなかった方」と唱えます。

この祝祷は普通、「私を異教徒とはなさらなかった方」と訳しますが、実際は、このゴイムは「非ユダヤ人」という意味ではありません。
もし非ユダヤ人だとすると、ゴイムではなく、ノキリを使うはずだからです。

「ゴイム」の語源は、「誇らしき」という意味の「ゲーへ」からきているようです。(聖書では、ゴイムをユダヤ人に対して指す単語としても使われています)

ユダヤ人は自分たちの民族性に大きな誇りをもっていますが、同時に神に仕える民族として謙虚でもあります。

もちろん、とても信心深い非ユダヤ人も沢山いますが、ユダヤの賢人は、非ユダヤの民族は民族的な枠組みで見ると、神とくびきを共にすることを受け入れない傾向があると捉えてきました。

補足
2頭の牛馬を連結させるための木製連結器具


私たちが「シェロ アサニ ゴイ」と唱えるときは、民族の多くが備えている称賛に値する特質としてではなく、神が私たちを敬虔で神へ仕えるメンバーとしての民族的性質をもって創造していただいたことに感謝するのです。

男女で異なる祝祷

朝目覚めたときに唱える一連の祝祷の中で、男性は主が「女としてお創りにならなかったこと」を感謝し、女性は主が「主の意に沿ってお創りになった」ことを感謝します。

これらの二つの祝祷の中には、目を引く言葉の違いがありますが、男女間の性質の根本的な違いに関連があります。
この違いを理解するためには、2つの重要な事実を意識しなければなりません。

多くの注釈者によると、男であることの感謝は、女性と比べて、より多くの神への宗教的儀式を義務付けられていることからくるとあります。

女性固有の祝祷は、女性自身によって考え出されたものです。女性に比べて、男性は物事を分析的、否定的に捉え、数字で考える傾向があります。そしてこの男性特有の傾向が祝祷の形式と内容に現れています。

男性は、分析的(人間を男性と女性に分けて捉えている)、否定的(女としてお創りにならなかった)、数学的(祝福の秩序は、数字的な並びに基づいていると考えられている。すなわち、より多くの戒律に従う順番に祝福が与えられると考えている)です。

一方、女性は包括的、肯定的、総体的な考え方をする傾向にあります。神への感謝を捧げる祝祷は、彼女らの個性的な特性が反映されています。

女性は、包括的(男性もまた主の意に沿う形で男性として作られている)、肯定的(男性の祝祷が「お創りにならなかった」としているのと対照的に「創られた」)、総体的(事実を数量として考えるのではなく、主の意に沿って創られたという一般的な言明)です。

個人の感謝と集団の感謝

初期の注釈者たちは、私たちが朝の祝祷で表す感謝は個人的な体験として捧げるものなのか、それとも集団的な体験として捧げるものなのかへの疑問について議論していました。

たとえば、ラムバムは「鶏に知恵を授けた神」に祝福するのは、私たちが鶏の鳴き声を聞いた時だけで良いと定めました。しかしその他大勢のラビたちは、この立場に反対の立場をとっています。

私たちは直接経験したり、楽しんでいないことでも、喜びがあることで、私たちにも関係することであれば、その事象に祝祷を捧げます。
たとえば、私たちは鶏の鳴声を聞いていないとしても、「鶏に知恵を授けた神」に祝祷を捧げるのです。なぜなら、夜が明けたのであれば、鶏が鳴き始めたと見なすことができるからです。

盲目な人が「盲に光を授けし神」に祝祷を捧げるのは、直に彼を助けてくれる視力のある人々の恵みを受けたときでもあるのです。このように私たちの朝の祝祷は、集団との関わりが私たち一人一人のアイデンティティの分かち難い一部であることを思い出させてくれるのです。

トーラーを学ぶことに対する祝祷

ミツバーでは、トーラーを学ぶに際に二つの祝祷があります。この2つの祝祷は、私たちの数ある祝祷の中で最も重要なものです。
どれほど重要かといえば、ユダヤ人がイスラエルの地を追放されたのは、たとえトーラーを学んでいたとしても、トーラー自体に祝福を捧げることをしなかったからである…とタルムードで言われているほどです。

注釈者たちによれば、彼らはトーラーの祝祷で、細かく言われているトーラーの価値を十分に理解することができていなかったと言われています。

トーラーを学ぶことに対する2つの祝祷のうちの1つの祝祷の役割は、「私をトーラーで満たす」という掟を思い起こさせるものです。
トーラーは、行動のヒントとなるただのガイドブックではなく、驚くべき神の言葉であり、主そのものの聖なる啓示なのです。

学生であれば自らの研究テーマをマスターしますが、トーラーの研究の場合、マスターするテーマは私たち自身となるのです。
トーラーの研究は単に目的に達成するための手段ではなく、それ自体が目的であり理想なのです。

2つ目の祝祷は、トーラーを手に取る時に、それが聖なる神が作成されたトーラーであることを意識することを思い出させてくれます。
トーラーが神からの贈り物であることを思い起こさせることで、トーラーの重要性が高まります。

それと同時に、私たちは主から数ある民族の中から選ばれて、これを与えて下さったということを思い起こさねばなりません。
これは主のユダヤの人々への愛の証であり、私たちが主の民族として特別に選ばれた存在の証でもあるので、さらに重要なのです。

 

本日の課題

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これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

2 件のコメント

  • 伊藤 より:

    トーラーを学ぶことを許されたユダヤ人であっても、トーラーの価値を十分に理解していなかったため、
    イスラエルの地を追放された・・という事は、
    神からの贈り物であるトーラーは、神に波長を合わせるための手順書であり、
    その手順書に従って神に波長を合わせることができたならば、神から様々な恩恵も与えられるけれども、
    神の法則に従う生き方をして行かなければ恩恵もなくなり、選民としての資格もはく奪されてしまう・・・
    ・・ポイントがズレているかもしれませんが、このように感じました。

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