タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

祝祷の習慣は日本にも根付いておるのですが、その本来の意味は忘れられつつあるようです。

「全ては天から与えられている」対「自分自身で獲得した」

祝祷を唱える根本的な意義は、全ては天から与えられているという考え方が根底にあるかどうかです。

あなたが手にしたアイディアも天啓であり
あなたの友人も天があなたに与えてくれたものであり
あなたの目の前の食事も天から与えてくれたものであり
あなたが得た経験や体験も、天から与えてくれたものであり
あなたの給与や住んでいる家も天から与えられたものである。

敬虔なユダヤは、こうした考えを根底に持っています。

しかし、資本主義のパラダイムで生きていると・・・

私たちの食事は自分が稼いで手に入れた。
私たちの家も自分が汗水垂らして稼いで買った。
私たちのスタッフや部下も自身が雇っている。

といった考え方になりがちです。

例えば、私も30代の頃に、それなりの経済的成功を収めたことがありますが、その時は「俺は自分の力でお金を稼いで、ここまで来たんだ」という傲慢な気持ちがありました。

もしこの時に、形而上的な信仰があれば、この経済的成功は「天が自分に与えてくれた贈り物である」という考え方もできたと思います。

「天から与えられたのだ」と考えれば、自然と感謝の気持ちが出てきますし、「自分の力で手に入れたのだ」という考え方をすれば自然と傲慢になります。

また、「卑屈」と「傲慢」は、富が離れていく危険な感情だとも言えます。

自分自身が分け御霊であるという天からの存在を信じられれば、暮らしが貧しくても卑屈になることを回避することができますし、常に天から与えられていると考えれば、傲慢になることも避けられます。

なので、事務局スタッフなど、力を貸してくれている人たちも、天から与えて頂いたものである…という考え方を持っていると、自然と感謝するようになりますし、私の商材を買って下さった人たちも、天から与えて頂いたものである…という考え方を持っていると、やはり自然に感謝するようになり、大事にすることが出来るようになります。

ただし、全てを天と結びつけると、迷信に嵌まり込む恐れがありますので注意が必要です。何事もバランスが大事なのではないでしょうか。

例えば、占いや風水、因果など囚われすぎて、行動を制限され過ぎてしまったり、合理的な判断が下せなくなる危険性もあるので、そこは注意が必要です。

 

織田信長は、比叡山焼き討ち、一向宗を伊勢長島や越前で大弾圧しています。

信長は神をも恐れなかった…と捉えることもできますが、実際は、桶狭間の戦いの出陣に際し、熱田神宮に戦勝祈願をしたり、忠臣平手政秀の死に当たり、政秀寺を建立しています。

なので信心していなかったわけではありません。

補足

一向宗とは、鎌倉時代の浄土宗の僧である一向俊聖が創設した仏教宗派。

比叡山焼き討ちとは、1571年、現在の滋賀県大津市の比叡山延暦寺で行われた戦いで、この戦いにおいて、織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとくはねたと言われている。

桶狭間の戦いとは、1560年に尾張国桶狭間で行われた合戦。
2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元に対し、尾張の大名である織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。

神仏の名を語り、腐敗した層であっても、普通の人はなかなか手が出せませんが、自分を信じる強さ故に、合理性からの判断が下せた人物と捉えることができます。

実際は、本能寺の変にて非業の死を遂げますが、信長が唱えた「天下布武」は、豊臣秀吉、徳川家康に引き継がれ、武家政権による日本国家統一が完成しました。

祈りは皇室、権力は武家という「政教分離体制」が、ある意味、世界で最も早く確立したといっても過言ではない出来事です。

何ごともそうですが、時には自分や人間の合理性を信じるバランス感覚が重要です。

「頂きます」対「ご馳走様」

「頂きます」の語源は、もともと位の高い方から物を受取るときに、「頂(いただき・頭の上)」に掲げていたことから、目上の人から物を賜る時に、それを高く掲げ、謹み(つつしみ)や感謝を表現して受け取ったことから、「もらう」といった意味へと変化したとされます。

つまり「頂きます」は、本来は目上の方から「もらいます」というのが語源となります。

この目上の方から「もらう」は、母親や君主、接待してくれた人、料理人などと捉えることもできますし、すると母親や接待してくれた人、料理人は「頂きます」と言わなくて良いことになります。

がしかし、実際はそうした人も「頂きます」と言いますので、天から頂いていると考えた方がしっくりくるのではないかと思います。

また、食材の命を有り難く「頂きます」と捉えることもできます。

勿論、この解釈でも良いと思いますが、語源が「目上の方からもらう」ということを考えると、魚や肉などの食材を目上と見ていることになり、それではあまりしっくりこないので、本来の意味的には、天から与えられたこの恵みを有り難く頂戴いたします…といった意味が最も自然な解釈になるのではないでしょうか。

「頂きます」、「ご馳走様」は、手を合わせて唱えることからも、神様や超自然的な物への祈りに似た性質があると考えられます。

ご馳走様の語源は、もともと客人をもてなす時に、馬を走らせ、様々な食材を各地から集めていたことから、豪華な料理を「馳走」と呼び、そこから「ご馳走様」と言うようになったと言います。

たしかに、今私たちが食事ができるのは、全国各地から食材が集められているからです。

食材が全国からあなたの目の前に馳せ参じて提供された、と考えることもできます。

人々の「お陰様」によって食事を済ますことができたと思いを馳せながら、「ご馳走様」と言霊にすると良いと思います。

なので、「頂きます」や「ご馳走様」は、一人で食べる時にも言葉した方が自然です。

そしてこの考え方は、ユダヤの食前食後の祝祷と似ています。

もののあはれ(物の哀れ)と和歌

国学者の本居宣長は、「日本人の心とはなにか」を探求し、古事記を復興させた偉大な人物でもあります。

そうした中で、「もののあはれ」を感じ、味わう資質こそが日本人なのだという歌を残しています。

敷島の やまとごころを 人問わば 朝日に匂う 山桜花

「もののあはれ」とは、折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁とあります。

古来より日本人は綺麗な景色を見ると、和歌を読まずにはいられませんでした。

  • 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」(須佐之男命)
  • 「袖ひぢて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ」(紀貫之)
  • 「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」(菅原道真)
  • 「願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」(西行)
  • 「春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰にわかるる 横雲の空」(藤原定家)

綺麗な自然を見て、素晴らしい…と思う気持ちは、どの国々の人々でもありますが、綺麗な自然を見た時に、歌にして、その余韻を心の中にとどめ、周りと共有しよう…という民族は日本以外の文化には無いのではないでしょうか。

「もののあはれ」を感じる美しい景色を見た時に、「この光景は神がお創りになられたものだ」という認識とともに祝祷を唱え、神への感謝と尊敬を示すことで、その体験は強まります。

これはミツバで言っていることと深くリンクするようです。

なお、本居宣長はその生涯に渡り、1万首読んだと言います。
和歌を祝祷と置き換えるのであれば、1日100の祝祷を唱えるのが望ましい…という教えに近いことを、自然にしているように感じることもできます。

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。

 


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

3 件のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    自分の力だけで造り出せる物は何一つないので感謝は大切ですね。だからと言って目的がある場合は感謝するだけでただ口を開けて待っていても誰もエサを放り込んでくれません。自らも努力し、全てに感謝する。
    ということでしょうか。

  • まぐくる より:

    30歳台までは「全ては自分次第」という気持ちがありました。40歳を過ぎて「全ては天から与えられている」という事を実感しております。
    天から与えられている事に感謝して精進していくことが大切だと思います。

  • 伊藤 より:

    日常、知らない間に、卑屈さや傲慢さが出て来てしまいます。
    それだけでなく、人が自分の意に反する言動をぶつけてきたとき、瞬間的に怒りを発してしまいます。
    「全て天から与えられたもの、ありがとうございます」と祈り続けることができれば、
    一旦、発した怒りも、方向転換できるかもしれません。
    実践してみたいと思います。ありがとうございました。

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