タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

前回の続きとなります。

テフィリンのミツバを拒むこと

日々、テフィリンを身につけることを拒むことは、怠慢だと見なされます。

タルムードでは、テフィリンを身につけない者を「肉体に対する罪人」と呼んでいます。

比較的に些細に思われるのですが、この罵倒は随分と手厳しく聞こえます。

実際、本来の文脈において、精神に対する罪を犯した者に課される罰が無限であることに対して、肉体に対する罪を犯した者に課される罰には限りがあると対比されています。とは言え、ユダヤ人の肉体に対する罪として、テフィリンを拒む者を例に挙げるのには違和感があります。

非ユダヤ人の肉体に対する罪の例には、姦通が挙げられているというのにです。

この例は、ユダヤ人の肉体の特殊な性質とテフィリンの間に、深い繋がりがあることを示唆しています。

肉体に固有の聖性は、他のどのようなミツバよりテフィリンと密接に関わっているのです。

テフィリンは清浄な身体を必要とし、さらに身体が清浄であることの証を要求します。

ツィツィートとは違い、テフィリンはミツバの目的であるだけでなく、それ自体が聖なる物なのです。

テフィリンの聖性は、現世における主の顕現のうちで、最高のものであり、トーラーの書と対比できるほどです。

この聖なる物を腕に結び、目と目の間に置いて、体に縛りつけて一体化させなければならないという戒律があることは、元々ユダヤ人の身体がテフィリンによく馴染む物であるということを示唆しています 。

こうして、ユダヤ人はテフィリンのために身体を清浄にしなければならないという思いを持つのです。

このような聖なる物を身体に結びつけるという行為自体が、身体を綺麗にすることの大切さを思わせ、清浄に保つ動機を与えています。

テフィリンを身に付ける時間

テフィリンを身に付ける時間は、知り合いの顔を見分けられるくらいの明るさが出てきた頃に始まる…とありますが、これはだいたい日の出の50分程度前です。

タルムードでは、この時間が来たことを知るための幾つもの兆候を教えています。

例えば、狼と犬を見分けられるようになった時…などです。

実際の時間帯は、大体同じになるとしても、ユダヤ法では特に「友人の顔が見分けられるようになる時間」という基準を選びます。

ここから1つの道徳的な教訓が得られます。

自身の精神的なレベルについて心配するあまり、テフェリンのようなミツバを実践するのなら、その前にまず、仲間に気づいて見分けられるような人としての道徳的なレベルを持っているべきである、ということです。

ミツバを見過ごさない

たとえテフィリンの前に「タリート」を身に付けることが正しいとしても、もし先にテフィリンを見つけたら、テフィリンを先に身につけなくてはならない・・・これは、「ein maavirin al hamitzvot(ミツバを見過ごさない)」という原則によるものであり、これは重要な原則となります。

タリート

主な理由は、ミツバを後回しにすれば台無しになり、ミツバを満たす機会を失うからです。

種無しパンの生地が発酵(台無しになることを暗示する)しないように保たれる必要があるのと同じです 。

今回取り上げたケースでは、2つのミツバの間の優先順位という問題も含んでいるので、一見この理由は使えないように見えます。

いずれかを先に済ませれば、もう一方が拒絶されるわけですから。

それでも、ミツバは自然なやる気によって行われるべきであり、いかなる理由であれ、ミツバを実践する機会を放棄してしまったら、そのやる気自体が台無しになってしまいます。

テフィリンを付ける場所

  • 手のテフィリンは、より弱い方の手に付ける。
  • ほとんどの人にとっては左手、左利きの人は右手である。
  • 頭のテフィリンは頭の最も柔らかい箇所に付ける。

この位置取りは、物質的なものが抑圧されるような場所でこそ、精神的なものが強く出るということを示唆しています。

テフィリンを付ける順番

手のテフィリンは常に頭よりも先に付けます。もし頭のテフィリンを先に見つけたとしても、この場合は「ミツバを見過ごさない」という原則は適用されない。

手を洗うことについて指摘した通り、精神を浮揚するためには、その基礎として行動の純粋さ、および適切な道徳心と倫理的な行動が必要です。そのため、手を清めるのは精神を清めることよりも先であるべきです。

テフィリンと身体の間にあるもの

箱(batim)と身体の間には何も存在してはいけない。

身体に縛り付けることで、テフィリンが身体の清浄さの証となります。

テフィリンと身体の間に何の中間物も無いようにすることで、この接合が証となれるのです。

意図を持って身に付ける

テフィリンを身に付ける時には、心と頭を主の導きに委ねるために、主がこのミツバを与えてくださったのだ、ということを意識しなくてはならない。

あらゆるミツバは意図を持って実践する必要があります。

例えば、新年祭において、ただ吹いているだけだと思って角笛を吹いている人は、ミツバの要件を満たしていないとされます。加えて、ミツバを実践する時には、そのミツバ自体とその意義に集中することが正しいとされます。

この意識の集中は、トーラー自身がミツバの意義を提示しているような時には重要です。

例えば、トーラーでは〈「主の律法をあなたの口に置かなければならない」を満たすために、テフィリンを身に付けなければならない〉と明記されています。

手と頭のテフィリン

手と頭のテフィリンを両方持っているときは、手のテフィリンを先に、続いて間を置かずに直ちに頭のテフィリンを付けなければならない。

頭のテフィリンしか無い場合も、これを付けるミツバが存在する。

同様に、手のテフェリンしか無い場合もこれを付けることができる。

いくら正しい行いが優先されるべきで、それが精神面での成長の基礎となるとしても、時には私たちの道徳的な行いに磨きをかける上での心理的、現実的な障害があることもあります。

正しいミツバの実践を始めることができない場合、例えば手のテフィリンから始めることができないような場合でも、そのせいで精神的な成長を成し遂げるのを諦めるべきではないのです。

頭のテフィリンがあるのであれば、そこから始めて目標に向かうべきです。

同じように、トーラーでは完璧な行為を唯一絶対の目的とは見なしていません。

完全な聖別は、私たちの知性を全て主の恵みに帰すことでのみ達成されるのです。

正しい手順は、内なる聖へ至るステップとして考えるべきです。

手のテフィリンを付けた後、頭のテフィリンを付けるまでに間を取ることが禁じられているのは、これでは行為の聖別が十分では無いことになるからです。

手に続いて、私たちの人間性の頂点である頭を同じように聖別する必要があります。とは言え、聖なるものを目指すことに障害があるからと言って、初めの一歩を踏み出すこと、人間としての行為を全うすることを思い止まることはありません。

頭のテフィリンが無くても、手のテフィリンを付けるべきなのです。

テフィリンに意識を集中する

テフィリンを身につけているときは、常にテフィリンのことを考えなくてはならない。すなわち、テフィリンを身につけている間は眠ってはいけない。

テフィリンは私たちの清浄さの証となるだけではなく、清浄さを強化するものでもあります。

テフィリンは私たちに、出来る限り身体を清浄に保つことと、その清浄さが高められていることを常に意識させます。

眠りによって引き起こされる聖別プロセスの部分的な閉塞は、この清浄さに相反するため、テフィリンを付けたまま眠ることが禁じられていることは容易に理解できます。

身体の清浄さ

テフィリンを身に付けているとき、私たちの身体は内も外も清浄でなければならない。

トイレに行きたい時にテフィリンを付けてはならないし、またはオナラをするときには外さなければならない。

テフィリンを付けている時には、不浄な考えを持つことさえ許されないので、そのような考えに取り憑かれたものはテフィリンを外さなくてはならない(しかるのちに、下品な考えを頭から追い出すのである)。

タルムードではこの法を説明するために、示唆に富んではいるものの一見関係が無さそうな話を用いています。

「テフィリンは翼のエリシャのように清浄な身体を必要とする」

この節は、テフィリンを付けたときに預言者エリシャが、どのように清浄であったかについては説明せず、彼がこのミツバを満たすために示した自己犠牲について説明しています。

エリシャはテフィリンを禁じたエドム人(ローマ人)の判決を拒絶し、公の場でテフィリンを身に付けました。

ある時、彼は兵士に見つかって追いかけられたので、何とかテフィリンを外して手の中に隠しました。

兵士が彼に何を手に持っているのかと尋ねると、エリシャは「鳩の翼」だと答えたのです。

彼の犠牲の精神は奇跡によって報われ、テフィリンは実際に鳩の翼に姿を変えたのでした。

ラビのクックは、なぜこの奇跡がテフィリンのための身体の清浄さに関係するのかを説明しています。

クックによれば、テフィリンは主と特別な契約を交わした選ばれしユダヤ民族の精神的なレベルの高さを表していると言います。

この精神的なレベルの高さは、日々の行為の一つ一つを誠実かつ、よく考えて行うという堅固な基礎を通じて初めて達成されます。

これは主が与えたもうた、人類すべてが生まれながらに持つ基礎であり、「清浄な身体」のために欠くことができない必要条件です。

エリシャの例が示す通り、テフィリンのミツバを守るための自己犠牲の精神は、個人の誠実さ、道徳心の純粋さのレベルの高さの証明となっています。

この基本的かつ普遍的な、よく考えて行うと言うことが、しっかりと根付けば、テフィリンは私たちの精神的なレベルをこれまでよりも高く引き上げてくれる、鳥の翼のような役割を果たすでしょう。

この話における鳥の翼が「鳩」の翼とされたのは、ミツバが鳩の身を守る翼に例えられることが多いためだとタルムードには記されています。

ミツバは、私たちの今いる立場を守ってくれるものであると同時に、意識をより高いレベルに引き上げてくれるものでもあるのです。

休日におけるテフィリン

テフィリンはシャバット(安息日)やヨムトブ(祝日)には身に付けられない。

タルムードでは、安息日と祝日にテフィリンを身に付けるミツバは無いとしています。

なぜなら安息日と祝日自体が「印」なので、別の印であるテフィリンは不要であるということです。

テフィリンの重要性は私たちの思考、心、身体が主に従属することを示すことにあります。

全ての労働を控え、肉体的な楽しみによってミツバを満たすのも同じ効果があります。

その上さらにテフィリンまで身につけたとしたら、あたかも私たちがテフィリンの印としての価値を認めておらず、ただの装飾品のように考えているかのように見えることでしょう。

 

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

2 件のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    ユダヤ人は神との絆(契約?)を最重要にしていることがよく解りました。このような風習が無いよりは、あったほうが良いように思います。

  • 伊藤 より:

    テフィリンが、鳩の翼に姿を変えたという奇跡は、奇跡は起こるべくして起きたのでしょう。
    アブラハムが、神からの命に従い、愛すべき息子イサクを生贄に捧げようとした・・神からの試練を
    乗り越えたことで、神からの信頼を得、その後の繁栄が約束された、そのくだりを思い起こしました。

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