美しい香りを嗅ぐ前に祝祷を唱える必要があります。
ハーブについては「香しいハーブの創造主」、樹木については、「香しい樹木の創造主」、その他については「様々な香りの創造主」に対して祝祷を捧げます。
魂の楽しみ
喜ばしい香りについて祝祷を捧げる義務について、賢人たちは聖書に根拠が求められるとしています。
詩篇の「すべての魂に主を褒め称えさせよ」という節は、魂だけに帰属する神への称賛があることを教えています。
タルムードはこのように問いかけます。
身体ではなく、魂に楽しみを与えるものとは何だろうか。
それは、香りである。
もっとも単純なレベルで考えれば、身体ではなく魂の利益になるという意味は、香りは食べ物や飲み物とは違って、いかなる身体的な求めも満たすことがなく、身体の一部にはならないということでしょう。
この理由から、香りは現実的かつ重要な楽しみではなく、祝祷を必要としないのではないかとも考えられます。
だからこそ、この義務には聖書による根拠(または暗示)が必要なのです。
しかし、賢人たちは香りについて、魂を楽しませるというポジティブな性質を取り上げているようであり、身体を楽しませるものではないというネガティブな性質だけを取り上げているわけではありません。
香りは魂の能力であるというユダヤの考え方は、一般的な文化にも類似するものがあり、様々なレベルで物体との直接的かつ媒介の無い繋がりとして香りの特性を指摘しています。
物体が持つ香りは私たちにその本質と内在するものを表してくれます。
実際、「essence(本質)」という言葉は、かつて「scent(香り)」を表すために使われていました。
これは、表面を覆うものが取り去られた時に残るもののことなのです。
また、物体そのものが無くなった後に備わるもののことなのです。
一見、満足できそうな状況に出会ったとき、私たちは「変な匂いがする」と言って本能的な不安の感情を表します。
腐った部分が見えるのは色を塗ることで覆うことができますが、匂いを隠すのはより難しいです。
「目を欺いても鼻が全てを知る」のです。
人間にとっては、匂いは最も直接的で、本能的で、減ることのない感覚です。
心理学によれば、私たちが光景を把握する際には物体を線、形、領域に分解しているとのことです。
音は、周波数の連続によって再構築されます。
一方で、香りは直接理解されるものです。
科学的には、匂いは最も原始的な感覚であり、最も直接的に人の意識に「配線されて」いる感覚だと言われています。
文学的には、最も感情に訴えかける感覚と言えます。
全ての感覚の中で、匂いに対する感覚は、物体の内的な本質と私たちの内的な本質との間に最も直接的な繋がりを作り出します。
肉体が飾られること、強調されることを喜ぶ一方で、魂は対象の本質そのものと出会うことを楽しむのです。

匂いの元が無い匂い
香りの元となるはっきりとした名残がないところでは、祝祷は捧げられません。
たとえば、空っぽの香水の瓶は、しばらく良い香りを残しますが、これについて祝祷は捧げられません。
香りは、何かの本質と直接出会うことを表していると説明しましたが、「何か」がそこにある必要があり、本質だけではダメなのです。
いくつかの箇所で、祝祷を唱えることにより、物質世界の精神的な面と繋がることができると説明しました。
粗雑な物質が主なる神が楽しみと霊感を与えて下さるための媒介となり、それによって私たちの主との繋がりが強くなります。
この現実との出会いがなければ、祝祷を唱える機会が無くなり、実際に具体的な対象を持たない空虚な祝祷を捧げることは深刻な違反となります。
そのような不必要な祈りは、神、そして神の世界との分断と隔離を示すものです。
祝祷によって物質の中にある精神性に繋がる必要があるという考えは、実体を持つ発生源が無い香りについては、祝祷を唱えられないというルールに反映されています。
バラの香りについて唱える祝祷は、バラについて唱えられるのであり、私たちの楽しみの感覚について唱えるものではありません。
祝祷は私たちを世界に結びつける手段であって、自分の感覚の繭(まゆ)に閉じこもることで、世界から引き離すものではありません。
もしかしたら、このことから音楽を聴くことは人類の最も素晴らしい喜びであり、最も精神的な経験の一つであるにも関わらず、美しい音楽を聴くことについての祝祷が、存在しないことの理由を説明できるかもしれません。
音楽は物質に由来するものではなく、人に由来するものです。
私たちは物質について祝祷を唱えるのであり、感覚について唱えるわけではないため、聴くことの楽しみそのものについて祝祷を唱えることは不可能です。
トーラーは非常に強く、人間がただの物質に成り下がることに反対しており、実際にこの原則は様々な祝祷の法に反映されています。
またこのことから、ここで扱っている「様々な香りの創造主」、「香しいハーブの創造主」、「香しい樹木の創造主」、「美しい香りを果物に与えられし方」などの、香りの元によって異なる祝祷があることについても説明できます。
私たちは、主の愛と心遣いを示すものとして高められた、世界に存在する無生物について祝祷を唱えるのです。
こうすることによって、私たちはこれらの世俗的なものに宿る聖性を見いだすことができるのです。
匂いとメシア
ブラツラフのラビ・ナタンは、メシアが匂いの感覚と結び付けられている多くの典拠を紹介しています。
預言者エレミヤはメシアのことを「われわれが鼻の息とたのんだ者」と呼んでいます。
そしてメシアという言葉の文字通りの意味は「油を注がれた」であり、この油とはイスラエルの王に注がれた香り高い油のことです。
さらにタルムードにも、真のメシアである証の一つは、人が秘めた性質を直接感じ取ることによって被告の有罪と無罪を決定できること、すなわち「嗅ぎ分け、裁く」ことができることだと書かれています。
ラビ・ナタンは、物質の内面としての香りが物質が無くなった後にも残っているさまは、物質世界に生成が内在することの暗喩であるとしています。
空になった後でさえも香水の瓶に香りが残っているように、神がご自身の一部を取り去られた後でさえも、世界には神の存在が残っているということです。
ラビ・ナタンが言っているのはシムスーム、つまり「縮小」の概念です。
ラビ・イツハク・ルリア、別名聖なるアリは、原初の世界は神の存在で満たされていたので、仮初めの存在は一切有り得なかったと説明しています。
純粋な神の存在以外のものを含む世界を創造するために、神は自身の存在を引き戻し、また「縮小」する必要がありました。
しかし、濃密な神の痕跡や印象が、さながら魂の「香り」のように残された、と言っているのです。
そのため、香りを通して本能的に物質を理解するという生理学的な人間の能力は、この地上世界に内在している神の痕跡を本能的に感じ取る精神的な能力と表裏一体なのです。
この能力は歴史上の今の段階に限られたものではありますが、精神的な存在として生き、あらゆるものに見られる神の姿に常に注目することによって、この能力を向上させることができます。
いつの日か私たちは、即座にかつ完全に万物の精神的な側面を感得し、その知識を我々に伝えてくれるメシアを迎えることができるでしょう。
ラビ・ナタンによれば、これは安息日の終わりに香料への祝祷を重視する理由の一つであるとのことです。
その瞬間には、メシアの到来を告げるエリヤを迎える期待が高まっているのです。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
祝祷は自分と世界を結びつけるもので、香りは聖性を判断する原始的感覚ということでしょうか。
確かに臭いものからは聖性を感じる事は難しいと思います。