タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

シェマー(朝夕の祝祷)を唱えることにはユダヤ人の信仰が凝縮されていて、主の御名を聖別する究極の方法だと考えられています。

6つの言葉で主が唯一無二であることを称えており、主の単一性に感謝を捧げることは、イスラエルの民に課された特別な役割であると謳っています。

シェマーの法はまた、多くの深遠な教訓を与えてくれます。

シェマーを唱える時間

朝のシェマーは、知人の顔が見分けられるくらいの明るさになったときに始める。これは一般に、日の出の50分程度前です。

シェマー自体が、いつ唱えるべきなのかを教えています。

「寝る時も、起きる時も」

これはつまり、朝のシェマーは多くの人が起きる時間である、夜明けから日の出の3時間後までに唱えられるということを意味します。

タルムードでは、この時間が到来したことを知るためのいくつもの兆候を教えています。

例えば、狼と犬を見分けられるようになった時、などです。

実際の時間帯はだいたい同じになるとしても、ユダヤ法では特に「友人の顔が見分けられるようになる時間」という基準を選びます。

このように時間帯が表現されていることから、1つの道徳的な教訓が得られます。

つまり、私たちの造物主(神)を認識できるようになる前に、自分の同輩を認識できることを確認すべきだということです。

 

シェマーは何を語るか

シェマーの最初にして本質である一節は「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である」と言います。

ラシ(ユダヤ教学者、タルムードと聖書の注解者)の注釈では、次のように説明されています。

主はいま我らの神であり、全ての民族の神ではないが、将来は全人類の唯一の神になるだろう。

『その日には 、主ひとり、その名一つのみとなる』の通りである。

この表現はユダヤ人の民族としての使命を美しく凝縮しています。

つまり、主の存在を全人類に遍く知らしめるために選ばれた民として、創造主が唯一であるということを心から受け入れるという使命です。

神に選ばれた民族としてのユダヤ人の特別さが、全人類に対する普遍的な使命という文脈の中で強調されています。

 

数字の上での単一性と存在論的な単一性

「主は唯一である」と言うことと、神は一人しかいないということは、全く別物だと弁えることが重要です。

そうした「一神論」は単純に数の上での主張であり、宗教的な意義を欠いています。

神が肉体を持っていて、どこかにたった一人の「神」がいると誰が信じるでしょうか。

最も重要なことは、人数として「1人である」ということではなく、主が全宇宙において唯一であり、あらゆるものの主人であり、かつ全てに意味を与えるものであるということです。

 

バルーフ・シェム・ケヴォ・マフト・レオーラーム・ヴァエッド

シェマーの最初の行を声に出して読んだら、すぐに「主の誉れある王国の名は祝福されよ」と言います。

この謎めいた祝祷については、様々な訳が存在します。

1つは、「主の御名は祝福されよ。彼の誉れある王国は永遠なり」という訳です。

そして、より普通に知られていて、文法的にシンプルなのは、「主の誉れある王国の名は祝福されよ」という訳です。

より正確にするなら、「誉れある主の王国の名は祝福されよ」となるでしょう。

しかし、王国の「名」とは、また誉れとは、いったい何なのでしょうか?

そしてなぜ私たちはこの祝福を望むのでしょうか?

実際、ユダヤの思想において「名」は決定的な重要性を持ちます。

私たちはあらゆる祝祷の冒頭に、「彼と彼の名は祝福されよ」と応えます。

カバラの導師たちは、トーラー全体が神の「名」であるとしていますし、私たちは通常の会話において神の名に言及するのを畏怖の念からこれを避け、「Hashem(ハシェム:神)」と呼びます。この語自体が「名前」という意味です。

そもそも、誰かまたは何かに個体を識別する記号をつける能力そのものが、その対象を理解、識別する能力を暗示します。

しかし、名前はただの識別タグ以上の意味を持ちます。

概念的には、名前はその持ち主に固有の性質を説明する役割を果たすのです。

トーラーの全ては明確な主の意志の顕れです。

物語、法、文字の並びでさえも、トーラーが持つ要素全てが、主なる神についての何かを、私たちに見せているのですから、トーラーは主の名前から出来上がっていると見なすことができます。

主に名前があるということは、私たちが主のことと、主のなさることを知ることができるということであり、そうであるからこそ主と主の御名を祝福すべきなのです。

もし主の名前がなかったとしたら、私たちには主を祝福する方法も無いのです。

主の王国の誉れ、これにも名前はあります。

私たちは主の創造の御業の素晴らしさを主自身とは別のものとして捉えることができ、また同時にあらゆる主の力の表れの上位に位置するものとして捉えることができます。

シェマーを唱えるとき、その冒頭で主が唯一であることを承認し、暗に主なる神なくしては何も存在し得ないと主張します。

それから、主の王国の誉れを讃え、創造主とは別のものとして、主が作られた世界そのものの美しさを理解することができるということに感謝を捧げます。

 

ささやき声で言う「バルーフ・シェム」

普通に声に出すヨム・キプール(贖罪の日)以外においては、「バルーフ・シェム」はささやき声で言います。

タルムードでは、このフレーズが族長ヤコブに由来するとしています。

ヤコブは息子たちの精神的なレベルが、主との契約の後継者として相応しいものであるかどうか確信を持てずにいました。

息子たちは声を揃えてシェマーを唱え、主への純粋な信心を示したので、ヤコブは「バルーフ・シェム・ケヴォ・マフト・レオーラーム・ヴァエッド」と叫んだと言います。

よくできた話ですが、シェマーを唱えるというトーラーの戒律を、聖書には登場しないこのフレーズを読むために中断するのはおかしいように思えます。

タルムードでは次のように付記しています。

どうやって私たちにこのフレーズが言えようか。

モーセは言わなかったのに、私たちはトーラーを中断しようとしている。

どうやって言わずに済ますことができようか。

ヤコブは言ったのだ。

この妥協案がささやき声で言うことなのです。

 

ラビ・ヨナタン・エイベシュフツは、6章で扱ったハラハーに基づいて意義深い説明をしています。

6章で、私たちが主の御名を無駄にしてしまった時(間違ったベラハーを唱えた時など)にはいつでも、「バルーフ・シェム・ケヴォ・マフト・レオーラーム・ヴァエッド」と唱えるべきであることを学びました。

バルーフ・シェムを唱えるということは、主の御名を口にする時に当然抱くべき大いなる畏怖を認識しているということになります。

シェマーを唱える中で、主の御名を少しでも間違えてしまうことを恐れているということでしょうか?

もしかしたら私たちは、主が唯一であることの宣言を口に出すことを畏れ過ぎているのかもしれません。

これはそう突飛な考えでもありません。

タルムードでは、救いの天使たちですらシェマーを唱えるには十分なレベルでは無いと明らかにしています。

天使たちは主の聖性、主の超越性を讃えます。

しかし天使たちは主の単一性を捉えることができないのです。

なので、私たちも聖が十分なレベルに達していないと心配することは、ごく自然なことなのです。

私たちは畏怖するあまり萎縮しています。

では、後からバルーフ・シェムを言うべきでしょうか?

モーセは言いませんでした。

彼が萎縮していなかったからです。

モーセは友と語るように、主と顔を合わせて語りさえしたのです。

同じように、主もモーセに対して、他の預言者が経験したような曖昧なビジョンを通してではなく、直接語りかけました。

私たちはモーセに倣います。

つまり、特別な精神的素養が無いとか、主なる神の単一性を知覚できないと見なされることを望みません。

しかし本当にバルーフ・シェムを排除して、堂々と私たちの信仰における聖なるものを示すことができるでしょうか。

そして父なるヤコブはこれを言ったのです。

これは、ヤコブが自身の精神的なレベルについて決して確信を持つことがなかったことの表れです。

解決策としては、畏怖の念を示しつつ、一方でそもそもシェマーを唱えることができるのかという自分の聖性を否定することも避けるために、ささやき声で言うことになります。

ミドラッシュでは、モーセが天使たちからバルーフ・シェムのフレーズを学び、これをイスラエルの民に伝えたのだとしています。

天使たちは主の傍にあって、常に主の御名への畏敬の念を自覚しています。

私たちはこの畏敬の念をヨム・キプールにおいて経験し、声に出してバルーフ・シェムと言うのです。

ヨム・キプールにおいて、私たちは自分の精神的なレベル(天使たちとは違い、シェマーを唱えることができる)を理解し、同時にこの精神的な位置付け自体が私たちに促す巨大な畏怖の念についても理解します。

 

ツィツィートを掴むこと

朝のシェマーの中でツィツィートを掴む習慣があります。

シェマーの詠唱の最初の2つの節では左手で掴み、最後の節では右手で掴む。

最初の2つの節での習慣は、「これらの言葉をあなたの心に留め」という言葉に基づいています。

言葉を心に留めるというのは、文字通りにはできないので、この意味は行動を伴うミツバを心の中に置いて守らなければならないと示唆しているように見えます。

そして、シェマーの中で行動を伴うミツバとは、ツィツィートのことです。

 

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

2 件のコメント

  • zipang044kwsk@au.com より:

    神(主)への畏怖の認識を
    どのように解釈するか?
     
    この解釈を古人の人たちは
    いつなんどきも考えていたのだと
    思います。
     
    その思考の解釈を考えること自体が、
    主に近づこうとする信仰の表れだと
    思います。
     
    今の人たちはこういったことの
    解釈を深く考えません(僕も含めて)
     
    だから哲学的素養が失われ、
    本質に迫ることが難しくなっているの
    ではないかと思います。
     
    これはお金の暗号でも語られた
    『知性』の欠如に繋がり、
    本当の富を得ることができない
    ことに繋がるのかと思います。
     
    非常に含蓄のある学習を
    させていただきありがとうございます。

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    神をひとつの存在と捉えてしまいがちですが、「主は唯一である」と言うことと、神は一人しかいないということは、全く別物だと弁えることが重要だとありました。日本では八百万の神、分御魂と表現するように神は万物に宿っていますね。祈りはそれを知ったり、思い出したり、再認識する行為であるという捉え方も出来ます。

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