毎日午後、正午の30分後から日没までの間にミンハーの祈りを唱える。
タルムードでは3つの毎日の祈りについて、2つの似た由来を示しています。
3つの異なる祈りは族長たちによって始められ、日々の生贄に対応しています。
アブラハムが朝の祈り、イサクが午後の祈り、ヤコブが夜の祈りを始めたと言います。
さらに、朝と夜の祈りは日々の恒久的な生贄に対応しているということです。
1日の中での生贄の順番は、朝の燔祭に始まり、常に夜の燔祭で終わります。
夜の祈りは生贄のうちで燃やされなかった、夜を通して祭壇に置かれる生贄に対応しています。
これらの由来は決して歴史的な起源というだけでなく、様々な祈りの特性と、さらにはある種の法を定義するために役立っています。
祈りによって時間が異なるのは、生贄との関係から理解できます。
たとえば、午後の恒久的な生贄(ミンハーの祈りに関係)は普通夜明けから9時間半以上経った後、かつ日没までの時間が15分を下回らない時間帯に捧げられていました。
しかしながら、必要とあらば正午から30分後でも、日没と同時でも捧げることが可能です。
これはそのまま、ラビ・ガンツフリードによる午後の祈りを唱えるべき時間のルールに対応しています。
祈りが持つそれぞれの特性は、族長たちとの関係から理解できます。
では、午後の祈りと族長との関係を検証してみましょう。
私たちは創世記の「イサクは夕暮、野に出て歩いていた」という一節から、イサクが午後の祈りを創始したことを学んでいます。

この描写から受ける全体的な印象は、人前にさらすというものです。
時間は夜に近い時分ですが、まだ日があって、私たちの行動は全ての人に見られています。
野という場所は開けていて、目立つ場所です(実際、創世記の次の節で、リベカが遠くからイサクを見つけたのは彼が目立つところにいたからです)。
さらに、イサクは自分の行動を神の目にさらすという審判の特性についての神秘主義的なユダヤの伝統を表しています。
タルムードの助言に同じテーマが表れており、エリヤがカルメル山において生贄に火が降るよう祈った際は、この時間にのみ答えを聞くことができたので、ミンハーを祈る際には時間に注意すべきであると言っています。
聖書では、この祈りはミンハーの時間だけになされなければならないと指示しているわけではありませんが、アーバト・エイタンによって書かれた注釈では、ミドラッシュにおいてエリヤがその日の日没を遅らせたとされており、それがエリヤにとって奇跡を日中に起こすことが重要であったことを示していると注意を促しています。
ここにも、人前にさらされるというテーマを見て取ることができます。
タルムードでは、エリヤは奇跡の火が本当の奇跡として認識されることを祈り、隠されてこそこそした黒魔術とでも呼ぶような行為として捉えられないように祈ったのだと説明しています。
さらに、エルサレム神殿の外で生贄を捧げることは通常禁止されています。(「誓約と誓い」を参照)
これは、完全に高潔なトーラーの指導者にのみ特別な例外として認められるものです。
エリヤが慎重に日中に祈りを捧げたのは、彼が恥ずべきこと、人目を気にして禁じられたことをしているわけではないことを強調したかったからです。
彼は堂々と日の光にさらすことで、信仰と祈りが持つ力を独特なやり方で示したのです。
人目にさらされるというモチーフに照らして考えれば、ゾハールが午後の祈りの時間を厳しい審判の時間としていることは驚くべきことではありません。
様々な仕事から離れて祈りの中で主と向き合うのですから、主が特別な興味を持って我々がいかに真面目に働いているかを調べ、裁かれるようなものです。
この考えはキツール・シュルハーン・アルーフによって示された論点の必然的な帰結です。
ラビ・ガンツフリードは、私たちの日々の仕事が忙しいがゆえに、心を乱されないように取り分け注意深くミンハーの祈りを捧げるべきだと言っています。
さらけ出すことと審判というテーマは、逆もまた真であることを示唆しています。
つまり、ミンハーの祈りがあることによって、私たちは日々の仕事に注意深く取り組まなければならないということです。
朝と夜の祈りにおいては、私たちの意識は日々の仕事から遠く離れるでしょう。
それにより、祈りに集中することは容易くなりますが、一方で、日々の仕事と祈りによって表現する理想との不一致に気づきにくくもなります。
対照的に、ミンハーにおいて世俗の仕事から主の前に立つという状態に移行することは、私たちが主の存在を積極的に意識せずに働いていたとしたら億劫になります。
ミンハーの祈りが持つ矛盾は、私たちの仕事における振る舞いが宗教的な正しさと一致しているかどうかを確かめるための機会なのです。
タファナン
ミンハーにおけるアミダーの祈りの後で、タファナン(懺悔の祈り)を唱えます。
これは夜には唱えるべきではありません。
ユダヤ人の神秘主義的な伝統によれば、タファナンは審判者としての主に訴えるものであり、夜は審判の時間であることから、ことさらこの性質を強調したくはありません。
これは、先ほど審判の時間に唱えられるのがミンハーであるとしたことと矛盾するように見えます。
この矛盾を理解するためには、「審判」という言葉を二通りの異なった意味で使っていることを意識しなくてはなりません。
判事は、目の前に提示された事実を自分の法についての知識に照らして裁きを下します。
ここでいう「審判」とは、有罪であることを決定するという意味です。
その後、被告が有罪であるとの判決が下されると、この判決が下されたことを「審判が下された」と言います。
ここでの「審判」は、下された判決のことを言うのです。
もちろん、投獄や体罰、死刑などの審判が判事自身によって実行されることはほとんどありません。
判事は社会においてもっとも尊敬される人であり、処刑人や看守ではないのです。
ユダヤ人の伝統は、神による審判のプロセスも同じように見なしています。
祝福されし聖なる神が審判者であり、神が有罪と無罪を決定し、判決を下すのです。
しかし実際に天罰を下すのは神ではなく、主がお創りになられたものの中でもっとも地位が低いと考えられている様々な報復の天使や悪魔です。
非常に稀なケースにおいてのみ、主が「個人的に」罪ある者に対して報復されます。
私たちの行いの全てが人と神とにさらされている午後の時間は、一つ目の意味での審判の時であり、私たちの行動が評価される時なのです。
夜は弱さの時、そして人が見分けられにくい時間であり、時として知らず知らずのうちに間違ってしまった行いについて報復を受ける、二つ目の意味での審判の時です。
決断を下していない審判者の前で、被告は自分の罪を隠さず告白するように助言されますが、これはタファナンにおいてすることと同じです(多くの会衆はタファナンの前に短い告白をします)。
しかし学識の不十分な審判者の前にあっては、罪を告白することは浅はかな行動となります。
これは、夜にタファナンを唱えるようなものです。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
タルムードと神道(45):トーラーの巻物を書くこと、トーラーの本を得ること
タルムードと神道(79):特別な助けに対する感謝とその助けを求めること
神が与えてくれた恵み(仕事)に真剣に取り組むための祈りでもあるような気がします。日常の行いをもっと気を付けようと思います。