一般的にシャバットに用いるのにはふさわしくなく、用いることが意図されていない道具はムクツェと呼ばれ、これは「取り分ける」を意味する。
これらの道具はシャバットに動かしてはならない。
シャバットに使うことがふさわしいが、本来はシャバットに禁じられていることのために使う道具は、どうしてもその道具やその置き場所が必要な時のみ使います。
これらの二つのカテゴリーは異なるルール、異なる適用範囲と異なる歴史的な起源を持っていますので、別々にお伝えします。
ムクツェ
主がモーセに対し、ユダヤの民を養うためにどのようにマナを与えるかについて次のように言われました。
「六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」
人々は日ごとにマナを調理しなくてはなりません。
しかしこの調理は、シャバットについて特別に言及されています。
このように強調されていることは、同じ章の後段でモーセが人々に次のように説明していることと呼応しています。
「あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい」
ここでも、マナはシャバットの金曜日の準備をする文脈で言及されています。
これらの節は、平日にシャバットのための準備をすることの特別な重要性を示唆しています。
もちろん、実際的に必要なことだからという面もあります。
焼くことと料理することはシャバットには禁じられているのですから、シャバットに料理された食べ物が欲しければ事前に準備するしかありません。
「シャバット前夜に苦労をした者はシャバットに食べ物にありつける。しかしシャバット前夜に苦労をしなかった者は、シャバットに何を食べるのだろう」
しかしこの必要性の背景には、原則の問題があります。
そもそも、主は週に一日だけ私たちを食べ物の必要から自由にすることだってできたはずなのです。
主はモーセには、シナイ山において飲まず食わずで40日間過ごさせたのですから。
または、シャバットのために調理の必要のない特別なマナを与えることもできたはずです。
どちらの場合も、シャバットに何もする必要はありませんが、平日にも何の準備も要りません。
そうではなく、トーラーでは平日にシャバットために調理をすることが重要であると強調しています。
平日は、ただ調理という労働をする日ではありません。
シャバットのための調理のために用意された日なのです。
十戒の四番目は、私たちに安息日を覚えるように教えています。
賢人たちは、これは日曜日の段階からシャバットのことを心に留めておくべきということだと学び取っています。
同じように、シャバットは単に調理が禁じられた日ではありません。
シャバットは、平日の調理のおかげで存在する日なのです。
シャバットには、私たちは平日の間に使う準備ができた道具だけを使うのです。
これが、賢人たちが「調理する(準備する)」という一節に基づくとしている、ムクツェの禁止事項の核心部分なのです。
シャバットには平日に用意された道具のみを使うべきという必要があることにより、私たちはシャバットと平日の間に相互依存関係を作り出しています。
シャバットは平日とは別の日であるだけでなく、平日に依存する日なのです。
平日はシャバットとは別の日であるだけでなく、シャバットがその方向性と意味を与える日なのです。
シャバットの法の導入において、平日は与える日であり、シャバットは受け取る日であると説明しました。
「キドゥーシュ」でマナについてお伝えした際にこの区別をより明確にしました。
シャバットは、特に平日から受け取る日なのです。
平日は、何よりシャバットに与えるための日なのです。
間違いなくシャバットと平日の間には相互の関係があります。
ムクツェの法はこの区別をさらに強くしています。
つまり、シャバットは、平日からのみ受け取る日なのです。
この背景を踏まえると、ムクツェの様々なカテゴリーを簡単に理解することができます。
持ち主が、シャバットに使うものではないと特に明らかにしているもの(文字通りの意味のムクツェ)、シャバットを迎えた時に使う用意ができていないもの。シャバットを迎えた時は存在さえしていなかったもの(たとえば、シャバットの日に生まれた卵)、これらのものではなく、私たちはシャバットに使うために平日に用意されたものを使うのです。
このことから、何がムクツェなのかを決めるための決定的な時間が金曜日の黄昏どきであることも説明が付きます。
黄昏は、昼と夜の間の時間にやって来ます。
日暮れは完全にシャバットに入ります。
黄昏どきの間にムクツェであった、すなわち取り分けられていたものはシャバットを迎える時に準備が出来ておらず、それゆえにシャバットのために金曜日に用意されたものとは言えないのです。
シャバットと平日はパートナーである
この相互依存関係が必要であるということは、重要な道徳的教訓を持っています。
金曜の夜にレハー・ドディの聖歌を「来たれ、愛しき人よ」と歌うように、シャバットが「花嫁」と呼ばれることを思い出してください。
平日とシャバットの関係は配偶者同士の関係に擬えられるのです。
シャバットと平日の相互依存関係が強調されていることは、結婚において相互依存がもっとも重要であることを教えています。
結婚は単に、一緒にいること、助け合うこと、子どもを持つことといった他の方法では満たせない個人的な必要を満たすためのものではありません。
それぞれが相手に求めるのは本質に関わる問題であり、環境の問題ではないのです。
事実、人間にとって最大の必要とは、必要とされることであるとさえ言えるでしょう。
性質的にも伝統的にもまったく異なる男女の役割は、パートナー同士の絆を強くするような依存関係と求め合う関係を作り上げるように神によってデザインされているのです。
運ぶことと使うこと
上に挙げたアプローチは主に、なぜシャバットにムクツェを「使わないか」ということについて説明しています。
実際には、この禁止事項はムクツェを「運ぶ」ことにも拡大できます。
この禁止事項のメッセージは、必要が無いならばそのままにしておくということです。
シャバットは、私たちが世界を完全で完成したものとして見る日です。
また、領域から領域へ物を運ぶことが禁じられている日です。
あまりに遠くには出かけない日です。
そして、物をそのままにしておくことを学ぶ日です。
ムクツェの最たる例である大地にしてもそうです。
大地は変わらず、動かないものの象徴であり、「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変わらない」と言われています。
これは賢人たちが「動かず、不変である」としているシャバットと似ています。
タルムードでは、ラビによるムクツェについての禁止の根本はトーラーによる運搬の禁止にあるとしています。
この二つに共通しているものの一つは、シャバットを、「よくよくそのままにしておくこと」を知る日にしているということです。
死体を運ぶこと
死体はムクツェの一つである。
そうではあるが、死者に敬意を払うために、もし尊厳が損なわれるような場所に死体が置かれていたら、ある種の果物や子どもと一緒に運ぶように計らうことで、これを運ぶことができる。
このルールはタルムードの逸話の中で、非常に重要なユダヤ教の原則を示すために使われています。
タルムードでは、ダヴィデ王がシャバットに中庭で死んだことを語っています。
ソロモン王は、父の遺体をより尊厳のある場所にそのまま運ぶことができませんでした。
代わりに、彼は子どもとひとかたまりのパンと一緒に遺体を運ぶという策略を使わなければなりませんでした。
しかし彼は、ダビデの犬に食べさせるための死肉を運ぶことはできました。
タルムードは、ソロモンが「生ける犬は、死せる獅子にまさるからである」と結ばれている節にこの状況をほのめかしていると言います。
ハラハーの上では、犬のために動物(死肉)を運ぶことは許容されます。
一方、ダビデ王の死体を運ぶこと、獅子の力と勇気を備え、獅子に擬えられたユダの末裔である死せる王に敬意を払うために彼の死体を運ぶことは、計略を巡らすことでのみ許されるのです。
人間の死体をムクツェと考えることは死者への敬意を欠くように思えます。
しかし実際にはこのルールは、神の魂が宿っているからこそ人間の体は特別であるということを強調することで、命の神聖さを教えているのです。
死んで魂が離れてしまったら、体は命も使い道もない何か、大地や石ころのようにムクツェ、すなわち取り分けられたものになってしまうのです。
道具を運ぶこと
上に書いたようなムクツェは使われることはありません。
本来の用途がシャバットに禁じられている道具は別のカテゴリーを構成します。
ハンマーで釘を打ち込むことや、はさみで衣類の切れ端を切ることはメラハー、すなわち禁じられた労働なので、明らかにそれらは通常の目的には使われません。
また、ムクツェを運んではならないように、これらの道具を理由無しに、あるいはこれを守るために、また見映えが悪いからといって動かしてはいけません。
しかし、これらの道具は許容できる目的のためには使うことができます。
たとえば、許容されるやり方であれば、ハンマーでナッツを割ったり、はさみでクッキーの袋を開封したりできます。
また、その道具が置かれている場所が必要な時にも使うことができます。
たとえば、テーブルにお皿を置きたい時にそこにハンマーがあったら、置きたい場所にお皿を置くためにハンマーを安全な場所に動かすことができます。
タルムードはこのルールの起源を詳細に描き出しています。

「このルールはハカリヤの子ネヘミヤの時代に教えられたものである。ネヘミヤ書 第13章15節に書かれている通りである。『そのころわたしはユダのうちで安息日に酒ぶねを踏む者、麦束を持ってきて、(ろばに負わす者、またぶどう酒、ぶどう、いちじくおよびさまざまの荷を安息日にエルサレムに運び入れる者を見たので、わたしは彼らが食物を売っていたその日に彼らを戒めた)』」
ネヘミヤは、明らかにメラハーであるぶどう踏みをした者と、その荷を運んだ者を一緒くたに扱っています。
荷を運ぶことは自動的に禁止されるものではないのにです。
この節の後半を読むと、他の部分からも分かりますが、シャバットに荷を運んだ目的が商売のためであったことが明らかになっています。
この状況において、道具を運ぶことが禁じられることはどのように正当化されるのでしょうか。
エクソダスの時代には、「シャバットに禁じられている労働」で説明した通り、39の禁じられた労働は聖所造営に必要なものだけではなく、ほとんどの人の生活に関わる基本的な労働でもありました。
しかしネヘミヤの時代までに、商売が重要な位置を占めるようになっていました。
これによって矛盾するような状況が作り出されました。
つまり、大多数の人がルールの上ではシャバットに反することなく日常生活を送ることができるようになったのです。
日用品を運ぶことを禁じると、商売はほとんど不可能になります。
これは人々に対して、シャバットは単に39の列挙された労働のみがルールで禁じられている日ではないということを強調しています。
そうではなく、シャバットは世俗的な追求から離れて内面に心を向ける休息の日なのです。
「シャバットに禁じられている労働」において、シャバットに禁止されていることが、その労働の平日における重要性を逆説的に示し得るということを指摘しました。
これは、神の顕現のために世界を準備することの重要な一部分であり、この準備が完了したと考えられるシャバットにおいてこの顕現を享受するのです。
このアプローチを使えば、ネヘミヤの時代以降シャバットの法が拡大されたことは、それが神の意志に沿って行われるならば、商業もまた神に仕えることの一部であることを明らかに示すためのものであると言えます。
ブラツラフのラビ・ナタンもまた、平日の活動の価値を説明する上で労働と商売を合わせて扱っています。
「商業と労働(メラハー)のあらゆる面に大きな秘密と意図があるからである。トーラーのあらゆる戒律に大きな秘密と意図があるように、39のメラハー全てに驚くべき秘密がある」
ラビ・ナタンは商業もまたこのカテゴリーに入ると付け加えています。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
タルムードと神道(45):トーラーの巻物を書くこと、トーラーの本を得ること
タルムードと神道(79):特別な助けに対する感謝とその助けを求めること
タルムードと神道(84):融資におけるパートナーシップ上の許容
タルムードと神道(91):シャバットに非ユダヤ人によって為された仕事
タルムードと神道(97):預言書の一部を読むこと(ハフタラー)
タルムードと神道(99・100):運ぶというメラハーと四つのシャバットの領域
シャバットは楽しむ日ではなく、内面に目を向ける日のようですね。お正月も本来それと似た意味合いだったのかなあと想像してみました。