血抜きをしていない肉を食べてはならない。
塩を振るか、焼くことで血を抜くことができる。
トーラーでは動物の血を食べることを、力強く心を揺さぶるような言葉で禁じています。
イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。
肉の命は血にあるからである。
あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。
血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。
英語で「life blood」が「活力の源」を意味することからも分かるように、動物の血は命の不可欠な要素と考えられています。
血は、獣の獣性を表すものであると同時に、その元気を表すものでもあるのです。
分類のレベルによっては人間も動物なのですから、人間もまた動物のエネルギーと獣の性質を持っています。
しかしながら、トーラーは一貫して、私たちに動物とは一線を画すこと、神の似姿として表されているような、人間である所以を表現することを求めています。
生贄の血を祭壇の土台に注ぐのは、私たちの獣性を注ぎ出すようなものです。
時には獣じみた衝動に屈して罪を得てしまう、私たちの魂に対するあがないなのです。
そして残りの、動物としてより中立的な部分を生贄として捧げます。
私たちには物質を聖別し、より良いものに引き上げる能力と責任がありますが、これは神に祝福された人間の性質のおかげであって、獣の性質のおかげではありません。
逆に、血を食べるとしたらそれは、動物が持つ獣の性質を同化させることになります。
事実、まさにこの理由から、動物の血を飲むことは異教において広く広まった儀式でした。
獣性の粋である動物の血を飲むことで、血に飢えた信者たちは動物の野蛮なエネルギーのいくらかを得られると信じていました。
そのため、ユダヤ人は非常に慎重に血を食べないようにしているのです。
通常の屠畜によって流れ出す血を捨てるだけでなく、肉の内部に染み込んでいる血を排出するために塩も振ります。
徹底して塩を振られた後に残存した血は肉の赤さであると見なされ、食べても良いとされています。

肉を水に浸すこと
塩を振る前と後に、肉を水に浸さなければならない。
水に浸す前に塩を振られた肉は食べられないものとなる。
法でこれを定めている理由は、塩は染み込んだ血を排出させる一方で、ある種の調理法として漬けるという性質も持っているからです。
最初に水に浸けて肉の表面の血を取り除き、その後の工程として、塩を振って染み込んだ血を取り除きます。
これを逆にすると、表面の血も肉と一緒に漬けてしまい、その肉を食べられないものにしてしまいます。
この法には、血を動物的な性質の象徴と見なす考えに基づく、道徳上の教訓があります。
誰でも「表面の血」のような目に見える明らかな欠点を持っており、一方で他の性格上の欠陥は隠れていて、その存在の中に「染み込んで」います。
私たちはこれらの不完全な点をなくすように努めます。
最も明らかな欠点は、最も取り除きやすいものです。
表面の血は徹底的に水に浸ければ取り除けるように、性格の表に出ている部分を見直せば取り除けるのです。
その後に、より徹底した性格の向上に取り組むのが良いでしょう。
まずは隠れた欠陥を開示するように努めます。
表に出てくれば、私たちはそれを修正することができるからです。
この一連の流れは守らなくてはなりません。
ときどき、明らかな欠点に目を向けることなく、より深い隠れた欠陥を治そうとする人がいます。
これは、肉を水に浸ける前に塩を振るようなものです。
隠れた欠陥をきれいにするどころか、表面的な欠点をぞんざいに扱うことで、良くない性質がより深く染み込んでしまいます。
最後に水に浸すことも、同じように説明できます。
隠れた欠陥を直すための第一歩は、表に出すことです。
ひとたび表に出したら、注意深くこれらの性質を取り除かなければなりません。
心臓
心臓は裂いた後にのみ塩を振ることができる。
この臓器には血が非常に深く染み込んでいるからである。
ラビ・アムノン・バザクはこの法を、私たちの感情の在り処としての心臓の役割と関連付けています。
最も深い感情を浄化するためには、苦痛を伴うような感情的な経験に耐える必要があります。
これは、ラビ・メナハム・メンデルの有名な警句を思い出させます。
「傷ついた心ほど完全なものは無い」
肝臓
肝臓は血で満たされているので、これを取り除くには塩を振るだけでは不十分である。
焼くことによってのみ血を除くことができ、そうすれば染み込んだ血も徹底的に消し去ることができる。
古くからある象徴的意味として、肝臓は怒りと関連付けられています。
「正しい行い」において、怒りが持つ否定的な意味を、ある種の偶像崇拝と同一視されるものとして説明しました。
そこでは、ほとんどの性格の特徴は適切に扱われれば良い特徴であり、それゆえにバランスの取れた形で性格に組み込むことは比較的簡単であるとしました。
しかし、怒りはずっと厄介なものです。
怒りが持つ悪影響を取り除くことは非常に難しいです。
これは、肝臓にある血を取り除くことの難しさを示唆しています。
儀礼に則った屠畜についての法
キツール・シュルハーン・アルーフでは、儀礼に則った屠畜について詳しく扱ってはいません。
しかしここで扱われている内容でもありますし、動物的な性質を浄化するという私たちのテーマの流れにおいて説明できるものですから、簡単な概要と説明を示しておきます。
動物は儀礼に則った屠畜を経た場合のみ、食べることができる。
ナイフはどんな小さな傷も溝もない、完全になめらかなものでなければならない。
トーラーの学者がこの状態を確認する必要がある。
屠畜は速やかに、大幅に遅れることなく完了しなくてはならない。
しかし同時に、決まった手順を踏まなければならず、慌てて行ってはならない。
動物は喉を切ることで殺さなければならない。
儀礼に則った屠畜のプロセスは、私たちがどのように動物的な性質を切り離し、自身を聖別するかを示す一例となります。
以下の見方はブラーツラフのラビ・ナタンの著作から引用したものです 。
なめらかなナイフが必要なことは、自らを向上させるために使う道具に細心の注意を払う必要があることを示しています。
ナイフを学者に見せる必要があることは、高潔なトーラー学者の導きがなければ精神的な向上を達成できないということを示しています。
この点はラビ・ナタンの師、ラビ・ナフマンによって特に強調されています。
屠畜を素早く、しかし慌てずに行う必要があることは、やり方を改める時にはその気持ちが消えないように素早く行動しなければならないことを思わせます。
しかし、パニックにならないようによく考えて、慎重にやり方を変えなければなりません。
コーシャーである屠畜においては、動物の喉を切らなくてはなりません。
聖書において、伸びた首と喉は行き過ぎた自尊心の象徴とされています。
罪をあがなう上で決定的に重要なのは、自尊心と傲慢さを克服することです。


肉を食べることと学識
肉に対するアプローチは、タルムードの興味深い一節に表れています。
これは獣と鳥に関する掟である」とあるように、無知な人間は獣を食べてはならない、とラビは言う。
トーラーを知るものだけが、肉と鳥とを食べられる。
無知な人間が肉を食べることを禁じられているのは、屠畜することや塩を振ることについての法が複雑過ぎて、その人にはこれを満たすことができないからだとラビ・ゲオニムは言っています。
屠畜を、卑しい性質と自身を切り離すためのものであるとする考えに立てば、トーラー無しでは聖性を獲得できないということになります。
誰でもやる気と常識があればその人格と行動を向上させることはできますが、デレク・エレツ(思慮深い行い)を超えて、聖なるものに近づくためには高度な知識が必要です。
この知識はトーラーによってのみ得ることができ、トーラーの学者による導きが必要なのです。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
西洋には多くの「ヴァンパイア伝説」がありますが、呪われた魂の存在として扱われる理由が分かりました。
あまり関係ありませんがスッポン料理屋に行くとスッポンの生き血が振る舞われます。私はこれが苦手です。というかスッポンじたい好きではないのですが・・遺伝子的に血を食する事に対する嫌悪感みたいなものを持っているのかも知れませんね。
動物は、植物とは異なり、ある意味 魂が宿っているが故に、食用とする際には作法に則り、行う必要があるのだと感じます。
昔、聞いた話ですが、家畜を怒らせて屠殺すると、毒が発生してとてもまずくなるとの事です。
反対に、愛情をかけて育て、苦しまないように屠殺すると、とても美味なお肉になるそうです。
肉食の際は、お肉に感謝して食し、自分の血肉となり活力となる・・とイメージして頂きます。