「ツィムーン」でパンのある食事の後の祈りについて学びました。
ここでは、また別の二つの食後の祝祷について学びます。
1.メイン・シャロシュ、すなわち「(食後の祈りの主要な祝祷である)三つのように」。
この祝祷は通常の食後の祈りを凝縮したものです。
トーラーに明記されている七種の果物と穀物を食べた後に、イスラエルの地への賛美として唱えられます。
対象が焼かれた食べ物なのか、ワインなのか、果物なのかによって祝祷は多少異なります。
2.他の全ての食べ物については、ボレ・ネファショットという短い祝祷を唱えます。

ボレ・ネファショット
パンと穀物から作られた食べ物、それと五つの果物(ブドウ、ナツメヤシ、イチジク、オリーブ、ザクロ)以外の全ての食べ物を食べた後に唱える祝祷です。
この祝祷は次のような言葉で主に感謝を示します。
多くの魂と、その魂が必要とする、全ての生き物に活力を与える全てのものを創られし方。
祝福されるのは世界の命である方。
この祝祷は三つの部分から構成されており、ほとんど三つの別々の祝祷のようなものであるとリショーニーム(中世初期の権威たち)は説明しています。
最初の部分は、主が全ての魂、全ての創造物に必要なものをもたらされることに感謝するものです。
「多くの魂を創られ、彼らの求めを満たされた方」と読むことができます。
二番目は、私たちを生かすためにあらゆるものを創られたことについて主に感謝するものです。
この中には、私たちに活力を与える喜びに当たるような楽しみも含まれています。
「全ての生き物を生かし、活力を与えるすべてのものを創られし方」と読むことができます。
最後の部分で、私たちは主が「世界の命」であると認めます。
最初の部分は言葉通りに読めそうです。
食べ物を食べた後、私たちに必要なものを与えてくださった神に感謝し、さらにこれを拡大して、全ての生き物に与えてくださったことに感謝します。
しかし、ブラツラフのラビ・ナタンは、ここにより微妙な含意があることを指摘しています。
まず、私たちが主に対して捧げている称賛は「多くの魂」を創られたことに向けられていることを、このフレーズは示唆しています。
「それらが必要とする」という言葉が補われていなかったら、この「魂」は私たちの感謝の対象である食べ物のことを言っているのだと思ったことでしょう。
実際にエルサレム・タルムードによれば、この祝祷の本文は次のように言っているだけです。
全ての生き物に宿る魂に活力を与えるために多くの魂を創られる方。
こうなると、「ネファショット(魂)」の語は食べ物のことを指しているように見えます。
エルサレム・タルムードの言葉遣いに従えば、この祝祷は明確に、この世に存在する全ての許された喜びの中に隠された魂に向けられていることになります。
そして修正された言葉遣いは暗に、この魂が宿っているという考え方を示唆しています。
次に、素直にこの言葉遣いを読むと、私たちがまるで「欠けている部分を作ってくれたこと」を主に感謝しているように読めます。
そこで、欠けているものを「満たす」と補って訳しました。
しかし、この考え方は飢えを感じるからこそ食べることに満足を覚えるということに関係しています。
精神的なレベルにおいては、食べ物に宿る「魂」が精神的な飢えに対応しているからこそ、その「魂」を吸収して同化できるのです。
この飢えは私たちに「欠けている部分」があるからこそ得られるものであり、その分成長の余地があると言えるものです。
第二の部分の祝祷も同じ調子で続いており、私たちを精神的に生き生きとさせ、活力を与えてくれる主なる神の力、全ての生き物に活力を与えてくれる力に言及します。
ここでも、精神的な栄養を与えてくれる物理的な喜びが強調されています。
ラビ・ナタンは、だからこそ好きな食べ物についての祝祷を先に唱えるのだと言います。
私たちの個人的な好き嫌いはそのまま、魂の求めるものを表しているのです。
祝祷の結びでは主を「世界の命」と言っています。
ゾハールにおいてこの呼称は、物質の世界と精神の世界をつなぐインターフェースを作り出す神の導きについて使われています。
天上からの精神的な力が得られなければ、世界は簡単に枯れてしまうので、このインターフェースを通して物質の世界に活力が与えられるのです。
逆説的ですが、このインターフェースを通して、天井の精神の世界にも活力が与えられます。
天上の光は、下界を照らさんとするものですが、ドアが開いていればこの光もまた刺激を受け、強化されるのです。
そのためこのインターフェース自体が、精神の世界にとっても、物質の世界にとっても同じように世界の命であると言えます。
これは、卑しく見えるような私たちの物質的な楽しみの要素の中に、神が存在することを謳う祝祷の結びとしては適切です。
コーシャーである食事を通して、魂がどのような経験をするのか、完全な見取り図を描いてみましょう。
グラス一杯のミルクを飲む前に、私たちはミルクが神のものであることを認め、ミルクの内なる聖性を認める祝祷を唱えます。
ミルクを飲むことは物質的な喜びをもたらしますが、この喜びは同時に精神的な満足でもあります。
このことは、私たち自身の魂が食べ物の中に隠れた魂と出会うことで生命力が高まることに感謝する、最後の祝祷によって認識されます。
それから、単なる軽食を物質と神なる世界を繋ぐインターフェースとしてくださった神を祝福することができるのです。
オリーブの大きさ
最後の祝祷は、少なくともケザイート、すなわちオリーブの大きさの量を約5分の間に食べた時にのみ必要とされます。
祝祷は食事の終わりから最低限の時間が経つ前に唱えられなければなりません。
普通この時間は72分間です。
食事の前の祝祷が「楽しみ」についてのものであるのに対して、食事の後の祝祷は「食べること」についてのものです。
一般的に、ユダヤ法に定められた行動には最小の単位があり、食事についてのその単位がケザイートなのです。
この量よりも少ない量しか食べていない人は、食べ物についてのトーラーの禁止事項(ミルクと肉の食べ合わせなど)に反するとして、罰せられたり犠牲を強いられたりすることは普通ありませんし、食べ物についてのトーラーの遵守事項(過越祭におけるマッツァーなど)を満たしていないとされることはありません。
これはここまでに述べてきたことと呼応します。
食前の祝祷を唱えることは、その食べ物が神のものであることを認めることで、それを許容可能にする方法の一つであり、これはどんな小さな量でも盗むことがないように、量に関係なく唱える必要があります。
食後の祝祷は、食べ物が自分にもたらした影響を認識するためのものです。
つまり、身体的にも精神的にも活力を与え、栄養を与えてくれたことを認識するのです。
そのような影響をもたらすためには、最低限の量がなければなりません。
また、もし食べた物が消化されるのに十分な時間が過ぎてしまい、再び空腹になってしまったら、食後の祝祷を言うには遅すぎます。
食べ物の影響は消え去ってしまい、食べ物が欠けた部分を満たしてくれたという意識は無くなるでしょう。
最も受け入れられている実践方法によれば、ここで問題にされるオリーブは大きめのもので、ほぼ1液量オンス(29ml程度)です。
タルムードでは、オリーブが単位とされていることを、オリーブが「イスラエルの地の誉れ」である果物の一つであるという事実と関連付けています。
そのため、大きなサイズの「ユダヤ法に則った」オリーブは、イスラエルの地における精神的な恵みが物質的な恵みにも反映されていること、すなわち彼の地の果物は特別大きく、美味しくなれる可能性を持っていることを思い出させるものなのかもしれません。
七種の作物とイスラエルの地
トーラーはイスラエルの地を、「小麦、大麦、ブドウ、イチジク及びザクロのある地、油のオリーブの木、および蜜(ナツメヤシ)のある地」として称賛しています。
それゆえに、これらの七種の作物は「イスラエルの地の誉れ」と言われます。
これらの作物は様々なミツバにおいて特別な重要性を持っていますが、特筆すべきはこれらの作物にだけ適用されるビクリム、つまり最初の収穫のミツバです。
このイスラエルの地の賛美はパンのある食事の後の祈りの節の一部となっていることから、これらの種は食後の祝祷においても特別な重要性を持つことをトーラーが暗示しているようです。
これらの作物は、特別な長い祝祷であるメイン・シャロシュ、すなわち「(トーラーに義務付けられている祝祷の)三つのように」を必要とします。
この祝祷は、食後の祈りの要素を凝縮したものです。
祝祷においてこれらの作物を特別扱いすることで、人々はイスラエルの地の特別な重要性を思い出すことができます。
結局、これらの作物が特別な祝祷に値するのは、ただこれらが聖地の誉れだからというだけなのです。
フランス産のブドウ、イタリア産のオリーブにもこの祝祷が必要なのは、イスラエルのブドウとオリーブが素晴らしいものだからというだけの理由です。
実際、これは食後の祈り自体が持つメッセージの延長上にあります。
トーラーでは私たちにこう言っています。
あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう。
遠く離れた地で食事をしたとしても、イスラエルの地を賜わったことを主に感謝するのです。
すでに、祝祷は物質の世界において神が存在しうる可能性へと繋がるものであることを説明しました。
人間がこのような繋がりを持てる能力は、イスラエルの地において始まっていたのです。
ユダヤの伝承によれば、アブラハムの時代より前においては、人間の社会とはほとんど全てが異教の社会であったと言います。
アブラハムが、今日の言葉で言うところの「目的論的証明」によって神の存在を認識したのです。
すなわち、世界が美しく、複雑であるのは偶然そうなっているはずがなく、必ず創造主がいるはずだという考え方です。
このレベルの信仰であれば、創造主と創造物の間の繋がりを示唆してはいません。
この認識の結果として、アブラハムは主から預言を受け、主を直接知るに値する人間となりました。
これは主と人間の間の新たな繋がりですが、直接的なものであり、世界を仲立ちにしてはいません。
エジプトと荒れ野においてユダヤの民は、主が自然の世界に働きかけて厄災や海が割れたこと、マナが降ったことなどの超自然的な現象と奇跡を経験しました。
イスラエルの地に入った時に初めて、神の導きは超自然的なものに表れるのではなく、自然に表れることを知ったのです。
その地に入ると、すぐにマナは降らなくなりました。
これは精神的なレベルの低下を表しているのではなく、上昇を表しているのです。
荒れ野においては、奇跡のようなマナを通じてしか神と繋がることができませんでしたが、イスラエルの地においては普通のパンですらこの繋がりが可能なのです。
食後の祈りを唱えるよう命じているのと同じ節で、イスラエルの地が次のように描写されています。
その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
それからトーラーは、朝夕の祝祷の第二パラグラフとして馴染み深い一節へと続け、もし人々が神の意に従えば、イスラエルの地における雨と豊かな実りが得られ、さもなければ雨は降らず作物は育たなくなると告げています。
イスラエルの地は、日々の営みの中に、特に食事の営みの中に神の導きが自ずから明らかな場所なのです。
他の全ての土地は、イスラエルの地を通して主の導きを受け取るのだと賢人たちは言っています。
これは神秘的な原理ですが、歴史的な経緯と近しいものではあります。
人間が世俗的な恵みの中に神の役割と存在を意識し始めたのは、イスラエルにおいてだからです。
物質における精神性を明らかにするという神秘的かつ歴史的なイスラエルの地の立ち位置はまた、ミツバの主要な重要性はイスラエルにあるということの理由でもあります。
信仰の断絶
食事と他の喜びについての祝祷をより深く分析するために、次のような例えを考えてみましょう。
夫婦関係における喜びが人間の楽しみの中でも最も際立っているということには同意いただけると思います。
同時に、この喜びは愛情とパートナー同士の契約の表れとしてのみ意味があるということが、基礎的な道徳上の、また心理学的な原則であります。
世にある文学作品とは違って、現実としては配偶者を裏切って浮気する人はほとんどいませんし、もしわずかな人が自分の喜びのためにそのようなことをしたとしても、その多くは後々深い罪悪感と自責の念に苛まれることになります。
ユダヤ教においては、これに似た原則があります。
食べること、飲むこと、いい香りを嗅ぐことなどは許容されており、むしろ前向きな行動とされていますが、これらは主の人間に対する愛の表れとしてのみ意味を持ちます。
信仰心の薄いユダヤ人は、ちょっと美味しそうだからという理由で、コーシャーであるコーンドビーフのサンドイッチを断って、ハムのサンドイッチを選ぶかもしれません。
彼の主への献身が本物であるならば、ハムのサンドイッチは罪悪感と自責の念を呼び起こすことでしょう。
「魂の創造者」を称えるボレ・ネファシャットの祝祷は、コーシャーの食べ物が魂を一つにするということを示しています。
食べ物が持つ魂と、それに出会って補完される私たちの魂です。
そしてこれは、幸せな結婚をしたカップルの間に存在する魂の同化の縮図です。
食事をすることや他の楽しみが主の愛の表れであるという意識は、その前に祝祷を唱えることによって醸成されます。
こうした祝祷を唱えることで、その楽しみが主によってもたらされたものであり、聖ならざる物質的な、官能的な面から得られたものではないということを認識できます。
「食事の前の祝祷」において、賢人たちの「祝祷を唱えずにこの世から利益を得るものは、メイラの罪を犯し、信仰を途絶えさせる」という言葉を取り上げました。
タルムードにおいて付け加えられている内容に基づく通常の解釈は、そのような人は聖別された財産を横領しているというものです。
横領するというのは、メイラの語の一つの意味です。
しかし民数記をよく見ると、この語はまた別の関連する意味を持っていることが分かります。
この意味に従えば、祝祷無しでこの世から利益を得る人は、不貞を働いているということになります。
そのような人は、食べることや飲むことという肉体的な喜びから主の愛と献身を引き離しているのです。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
日本の文化に
「いただきます」「ごちそうさま」
がある理由が分かった気がします。
全ての行いは神と通ずるものなのですね。一度も悪さをした事がない人間はいないと思いますが、常に意識のベクトルを間違えないよう注意します。