パンを食べる前には水で手を洗わなければなりません。
この習慣の起源はテルマーを食べることの法に見られます。
「ハッラーの法」についての法に関連して、イスラエルの地の産物の一部は神のために取っておく必要があること、そしてこの捧げ物(テルマー)は特別に聖なるものであり、祭司とその家族によってのみ食べられることを説明しました。
様々なところで説明しているように、トゥマーとは未だ実現していない聖となる可能性と、不浄となる可能性に繋がっているものです。
とびきり神聖なテルマーは、特に清浄になりやすいということになります。
洗っていない手はテルマーを、食べ物として使い物にならなくするほどではないにしても、儀礼的な意味で汚してしまいます。

「手を洗い清める」において、朝に手を洗うことで地上世界における隠れた聖を認識できると説明しました。
手を洗うことによって、世界を補完するという道徳的に引き上げられた状態で世界と関わることができます。
テルマー(あるいはハッラー)は、すでに説明した通り、物質の聖なる部分が集められまとめられたものなので、これに触る前に手をきれいにしなければならないのは至極当然です。
それゆえ、祭司(または彼の家族の一員)が、テルマーやハッラーを食べる前に手を洗うことは絶対に必要なことです。
テルマーを儀礼的にふさわしくない状態にすることは、大変深刻な違反であり、一層深刻なのは汚れたテルマーを食べることです。
そのような状態のテルマーを食べることは、テルマーの特別な聖性を明らかに否定することになります。
第一等の、最も純粋で聖別された地上世界の事物でさえ、特別な尊敬を与える価値は無いと言っているようなものです。
しかしながら、タルムードの賢人たちはこのルールをパンのある全ての食事にも広げ、全てのユダヤ人はあたかも祭司がテルマーを食べる時のように、パンを食べる前に手を洗うべきだとしました。
賢人たちが普通の食べ物のためにも手を洗うことを求めたということは、食べることを許されている食べ物は全て、聖なるものへ貢献する資格があるということです。
これがパンに限定されているということは、「ハッラーの法」で説明した通り、人間に固有の位置を示すものとしてのパンの特別な重要性に関係しています。
食べることは、獣の行動かもしれませんが、パンを食べることは人間固有の行動です。
そのため賢人たちは、食べ物は主に仕えるための力を与えてくれるという性質の上で、聖であるということを示すために、特にパンを食べる前に手を洗うように求めたのです。
器の水で手を洗うこと
この清めは人の行為によってなされなければならない。
水は意図的に器から手に注がれなければならない。
これが不可能な場合は、泉や井戸のような天然の水のあるところに手を浸さなければならない。
精神的なレベルでは、手は人の行為によってのみ清めることができるということになります。
手を洗うことは、何かの魔法の儀式のように精神的な清浄さを作り出すものではありません。
この儀式の核心は、身体的な清浄さと、それを通して精神的な清浄さを得ようとする能動的な人の努力にあります。
同じ理由で、女性が隔離される期間の後にそうするように、儀式的に水に浸すことを同じく人間の意図の元に行わなければなりません。
そうした意図が無ければ、最大限の清浄さは得られません。
可能な限り器を使わなければならないというのも、同じメッセージを含んでいます。
「食事の道具を水に浸すこと」で説明した通り、器は人間が使うために特別に作られたものを代表します。
人間の行為が徹底して求められるのと同様に、理想的には器を使うべきという考えも、精神的な清浄さが自然に得られるものではなく、人の努力と準備によってのみ得ることができるということを表しています。
水の量、それと神の導きの性質
比較的少量の水でも十分ですが、多くの水を使うことが望ましいです。
この法は、タルムードの賢人であるラビ・フィスダが、手にすくえるだけの水で洗えば、すくえるだけの幸運が得られると書いたことから学べます。
ラビ・フィスダが言っていることは、タルムードに「手を洗うことを拒むものは貧困に陥る恐れがある」と書いていることを、逆から示すものです。
この考えは、物理的な祝祷は神の導きに起源を持っており、繁栄の「原因」であるように見えるものは実のところ、主の豊かさを捉えるための器に過ぎないという、ハシディズムの思想に広く行き渡っているテーマにも見られます。
畑に作物を植えたとしても、それは作物が育った「原因」ではありません。
それだけでは、干ばつや害虫、洪水やその他多くの理由で育たなかったかもしれないからです。
事業を起こしたとしても、それは利益を得た「原因」ではありません。
顧客は何か他のことにお金を使ったかもしれないからです。
繁栄の「源」は神の祝福を物理的な豊かさに変えるための器でしかなく、今度はそれを神に仕えるために使わなくてはなりません。
そうであってもなお、その器は必要なのです。
漁師は主に魚の大群を贈ってくれるように祈るかもしれませんが、もし彼が無数の魚を捕まえる網を持っていなかったら、何の助けにもなりません。
そうであっても、彼の富の源は魚であり、網ではないのです。
このテーマは安息年とヨベルの年のミツバについて、トーラーにも表れています。
トーラーは、私たちが作物を育てることなしには食べる物が得られないだろうと心配することを知っています。
それゆえトーラーは、豊かさは主からもたらされ、私たちが主を信じるならばそれが得られるであろうことを強調しているのです。
賢人たちは、ある種の戒律を拒むことは貧困に繋がり得ることを警告しました。
それらの戒律は多くの場合、神の恵みへの信心の証となるものです。
例えば、商売の上で不正を働くことは、抜け目無く立ち回ることで富を得て、主を拒むことを示唆しています。
また、利息を付けてお金を貸すことも同様です。
同胞のユダヤ人は物質的な利益を集めるためだけの物言わぬ器では無く、人間だからです。
十分の一税を払うことは、作物は神からの贈り物だと信じていることを示すものであり、賢人たちは十分の一税を払うことで富が増し、貧困になることを避けられるとしています。
主は慈悲と導きの証として富を授けてくださいます。
もし主から与えられた富を拒むのならば、主の御名を聖別するという意図された目的が果たされなくなりますので、富は失われる恐れがあります。
食事のために手を洗うのは、これと同じことです。
食事を取る前には、パンに内在する聖性を認めるために手を洗うのであり、その聖性もまた主から贈られたものであることを示すために手を洗います。
洗うときには、手を上げて天に向かって伸ばす習慣にも同じ象徴的意味があります。
多くの水を使い、整った精神状態で主の豊かさを受け取るべく熱心に準備することで、私たちが多くの物質的な祝福を受けるに値することを示します。
この行為を拒否することは、食べ物を恵んでくださる主の導きを否定する、あるいは軽んじるようなものです。
富によって主の存在を思い出すことがなくなれば、その富はやがて衰えるでしょう。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
神の恩恵を得るには、節目節目に身綺麗にして清浄さを保ち、ビジネスが出来る準備(器)を整えて、神を信じる行いをするということでしょうか。
器も恩恵も神からもたらされていることを忘れてはいけませんね。
新たな疑問も湧きましたが少し視点を変えられたような気がします。学ぶというのはこのような事の繰り返しなのかも知れません。