タルムードと神道(38):タファナン(懺悔の祈り)

朝のアミダーの祈りの直後に、特別な懺悔の祈りを唱えますが、この祈りの一部はひれ伏した姿勢で、また座っている状態で、あるいは立ったままで唱えられます。

あらゆる可能なやり方で祈ることは、あらゆる可能なやり方で主に近づこうと努めていることを示す、とラビ・ヤコブ・ベン・アシェルは説明しています。

モーセもまた、立ち、座り、地にひれ伏して祈ったと言われています。

アミダーの祈りの間は、最高司令官に呼び出されたように「気をつけ」の姿勢で立ちます。

タファナンの祈りにおいては、天にまします慈悲深い父に慈悲を乞うようにひれ伏すのです。

直立の姿勢は、主の意志を実行する準備ができていることを示すので、儀式においては適切なものです。

うつ伏せの姿勢は、無力さと救済への求めを示すので、懇願する時には適切なものです。

ひれ伏す時には完全に身体を伸ばさず、片方の腕に拠って少し身体を傾けますが、その腕は、何らかの衣類で覆われていなければなりません。

この姿勢を取る理由の一つは、石の床に身を投げ出すのは偶像崇拝の特徴だからです。

そのため、献身の対象が主なる神のみであることが明らかなエルサレム神殿以外の場所ではこれを避けます。

シナゴーグにおいては、完全には頭を下げず、片側だけ身体を傾けます。

さらに、床と顔の間には衣類があるようにします。

地上はアダムとイブの罪によって呪われているので、靴を履くことで地上と離れているようにし、上方へ引き上げられた姿勢を示す必要があります。

神殿の床については地上の呪いが除去されているので、神殿の祭司は裸足です。

異教徒はその信仰において、この世の望みとの精神的な繋がりを示すために地面に足を着けます。

しかしユダヤ人は、主の意志に完全に服従している場所、つまり神殿においてのみ地面に足を着けます。

 

主に願うこと、主に求められること

もう一つ、身体を完全に投げ出す姿勢についての興味深い考えは、たとえ主なる神は祈りにお応えになる義務があるとしても、この姿勢では求めるという態度が強すぎるということです。

もし祈りに応えられなかった場合の反動も大きくなります。

あまりに押し付けがましい要求やお願いをすることには問題があるということを考えさせられます。

感謝の気持ちを欠いていますし、より悪いことには、主の意志をきちんと受け取れないことにもなりかねません。

実際に、真摯に主の命令を聞くことと、主自身の仕事を達成するために、その命令を変えてほしいと望むことの間には、そもそも信仰の上での緊張関係があります。

ミシュナーの中に、ホニ・ハマアゲル(円を描いたホニ)の有名な話があります。

彼は小さな円を描き、主が雨を降らせるまでは、その円から出ないと言って主を「脅し」、主は実際にその祈りを聞き入れられたそうです。

しかし、指導的な立場の賢人であったシモン・ベン・シェターフはこのような祈りを認めませんでした。

ラビ・レヴィ・イツハクはかつて、主がユダヤ人の追放の苦しみを緩めない限り、祈りを唱えることはないとして主を「脅し」ました。

しかし多くのミトナグディーム(ハシティズムに反対する人たち)は、ラビ・レヴィ・イツハクの振る舞いに大変怒りました。

主の意志の啓示には、二つの異なった種類があることを覚えておかなければなりません。

一つは、モーセからその後の預言者に至るまでの、預言者に対する主の言葉です。

もう一つは、私たちが生きる現実を通して示されるものです。

私たちの生活は全て、全能たる主がそうあれと望まれたものなのですから、あらゆる場面が主の意志の表れなのです。

この二つの啓示は互いに矛盾することがあります。

主はアブラハムに向かって、ご自身を審判者であると言われましたが、その後アブラハムに、正しくない行いをしているように見えるソドムを打ち倒すつもりだと知らされました。

ユダヤ人の苦しみと主への忠誠が、追放の苦しみを終わらせることになるのだと預言者は予言しましたが、ベルディチェフのユダヤ人たちにはその終わりが見えませんでした。

主に異議を唱える可能性を(そして時には義務を)生み出しているのは、こうした矛盾なのです。

言い換えれば、主なる神に対するこれらの「要求」は、主の意志を否定するものではなく、むしろ肯定するものなのです。

私たちは主の意志を、伝統の中で示されているように、極めて重く受け止めなければなりません。

そうすれば、現実が主の言葉と矛盾しているように見える時、これを一致させるように要求することができます。

ユダヤ法ではこの二種類の主なる神の啓示の間にバランスを見出しています。

ユダヤ人はタファナンの祈りの中で追放の悲しみを終わらせてくれるよう願いながら、預言における啓示の内容を取り上げ、トーラーの中で主が追放された民を集めることを約束したではないかと指摘します。

しかし身を完全に投げ出すことを避けることで、図々しくなり過ぎないようにし、現在の状況もまた主の意志に沿ったものであると納得していることを示すのです。

 

公的な祈りと個人的な祈り

ひれ伏す姿勢を取ることは、そこにトーラーの巻物がある時にだけ求められます。

エルサレムにおいては、そこに巻物が無いとしてもひれ伏すのが習慣です。

トーラーの巻物の前にひれ伏す必要があるという習慣は、ヨシュアが「主の箱の前で」ひれ伏したことから来ています。

この法を理解するための一つの方法は、タファナンの祈りが持つ公的な性格を気に留めることです。

元々、タファナンは各人が個人的な祈りを口にするためのものでした。

しかし現在、各人は定型の祈りを唱えます。

そのため、祈りにおける求めを個人的なものから公的なものに変えるために、いくつかの聖書の言葉が置き換えられ、そのことによって今日のタファナンの公的な性格が強くなっています。

この公的な性格は、身体を伸ばして祈ることが禁じられていることからも明らかです。

タルムードにおいて、この姿勢が無礼であるとされるのは、個人が共同体のために祈る時についてだけです。

もし各個人が自分のために祈るのであれば、この禁止事項は課されません。

タファナンにおいて、ひれ伏した姿勢で公的な祈りを唱えることが許されている理由の一つは、これが完全にひれ伏す姿勢では無いからです。

もう一つの理由は、この禁止事項が課されるのは、一人でひれ伏す時だけだからです。

集団が全員で主の前でひれ伏すことは、無礼であるとは見なされません。

つまりひれ伏すことが許容されるのは、その場が顕著に集団としての性質を備えている時のみなのです。

そうした場の一つが、集団としての強い思いの象徴であるトーラーの巻物がある場所です。

もう一つは、民族の故郷である聖地エルサレムです。

テフィリンを着けていないときは、左の手に寄りかかり、テフィリンが左の手にある場合は右の手に寄りかかります。

左手に寄りかかるということは、主なる神が持つ厳しい審判という一面を抑圧することを象徴します。

慈悲(右手に象徴される)も、審判(左手に象徴される)も、いずれも必要ですが、世界は厳しい審判にさらされている側に偏っているので、左手を抑えることが必要とされます。

同じテーマについての別の法もあります。

例えば、左手をテフィリンの紐で縛って制限することは、神が持つ審判という一面を制限することを象徴します。

このこと自体が、テフィリンを着けている左手に寄りかからないことの理由です。

「審判を制限する」という象徴的意味を必要以上に持たせたくはありません。

審判の側のみを重視し過ぎるような思い込みは、主の慈悲の側も公平に見るという見方を失わせかねないからです。

同じ理由から、夜にタファナンを祈る時にはひれ伏しません。

日の光という慈悲を感じられる昼間に対して、夜自体が審判の側を象徴しているからです。

 

本日の課題

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これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

タルムードと神道(34):テフィラー

タルムードと神道(35):アミダーの祈りへの追加

タルムードと神道(36):先唱者によるアミダーの復唱

タルムードと神道(37):埋め合わせの祈り

3 件のコメント

  • zipang044kwsk@au.com より:

    哲学や宗教は思考のパズルをしているように感じました。
     
    解釈をどのように捉えるか。
     
    こういったことを日頃から真剣に考えてきた
    人たちは、賢者となり主に忠誠を示すことが
    できたのだと思います。
     
    つまり、考えることは人にだけ与えられた
    最大の能力であり、至高の行為といえるのでは
    ないかと思います。
     
    思考と至高。
     
    意味は違いますが、音は同じなんですね。
     
    こういったことも意味があるのかもしれませんね。
     
    いつもありがとうございます。
     

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    あらゆる場面が主の意志の表れであるというように、人生には厳しい状況も必ず訪れます。私は進化と成長が主の意志であるように感じています。そのために感謝と祈りが必要なのではないでしょうか。

  • 伊藤 より:

    祈りの仕方それぞれが、「慈悲を乞う」、「主の意志を実行する準備が出来ていることを示す」、
    「無力さと救済への求めを示す」など、意味を成しているのですね。
    以前、個人的に、仏教で身口意の三業というものを聞いた事があります。ちょっと解釈がずれているかも
    しれませんが、身体の動き、口からの言葉、心で想うこと、身(身体)・口(言葉)・意(心)を一体化
    して神仏に祈る、という事かと理解しております。
    ユダヤの祈りも、それぞれの祈りの意味を、身・口・意で表現することが重要なのかもしれないと感じま
    した。

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