三人からそれ以上で集まってパンのある食事を共にするときには、必ずそのうち一人が代表して祈りを捧げ、他のメンバーに暗唱を促さなければなりません。
この誘導はツィムーンとして知られています。
あまり有名ではないように思われるこの慣習は、実はユダヤ法の中で重要視されており、タルムードでは一つの章で、シュルハーン・アルーフでは10の章で、キツール・シュルハーン・アルーフでも長い章で説明しています。
タルムードは、この慣習の元になったものとして二つの節を挙げています。
一つは詩篇にある「わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう」です。
もう一つは申命記にある「わたしは主の名をのべよう、われわれの神に栄光を帰せよ」というモーセの勧めです。
いずれの節も、聴衆に対して主を「偉大なるもの(ゲドゥラー)」として扱うように求めています。
無限なる主に「偉大さ」を与えるという不可解な呼びかけは、「神を祝福する」という戒律を思い出させます。
人は、そもそも無限である神の偉大さを増すという意味で、神を祝福する力を持つのではなく、人の世界の中にある神の存在を強固にするという意味で、その力を持つのだと説明しました。
主の存在の明らかさには、私たちの主体的な神への意識も含まれています。
それに、自然にあるもの、人の手になるものとは違い、神の掟に従って解き明かされる世俗の出来事の因果もここに含まれます。
また、預言に表れる神の精神も含まれます。
どちらの節も、まず個人が神と出会い、次いで他の人がそれに参加するよう告げられる形を取っています(「わたしと共に主をあがめよ」、「わたしは主の名をのべよう」)。
これらの表現は、神の儀式においては指導者が必要であるという重要な原則を示しています。
この役割は、族長たち、預言者たち(特にモーセ)、賢人たちによって担われ、今日に至っては当代のトーラー学者や聖なる人々がこれを担っています。
他の人々は、全き人の先導に続いて神の御名を呼ぶのです。
同じく、ツィムーンにおいては一人が指導者として振る舞い、他のメンバーに祈りに参加するよう呼びかけます。
このことから、「呼びかける人」は理想的にはトーラー学者か聖職者であるべきだとされています。
しかし、ツィムーンは対等な立場の人の間にあっても必須とされます。
同じような精神的レベルにあるユダヤ人であっても、過度に対等さに拘れば精神的な成長はありません。
祝祷を唱えるたびに、一人が指導者となり、他の人は彼に従うべきなのです。
それにも関わらず、一方が指導者で他の人がこれに従う立場だとしても、お互いの精神的な成長にとってお互いが必要なのです。
従う立場の人が指導者なしには進歩できないのと同じように、指導者の精神的な成長は彼について来る人次第です。
人々が黄金の子牛をでっち上げて罪を犯した時、モーセはシナイ山を降りなければなりませんでした。
ラシが説明しているように、モーセが精神的に向上するには指導者としてふさわしくなければならなかったのです。
指導者が従う者たちに対して負っている負い目は、従う者たちを「ラボタイ(私の主人たち)」と呼ぶという重要な慣習に表れています。
一杯のワインを置いて祈りを捧げること
一杯のワインを置いて祈りを捧げなければならない。
ユダヤにおいてワインは非常に重要であり、実際、祝祷に威厳を与えるための一番の方法はワインを使うことです。
一杯のワインが安息日と祝日における朝夕のキドゥーシュ(祝いの食事の前に唱える祈り)と、祝日の後のハブダラー(分離)に必要とされます。
割礼と結婚の祝祷にも同様に、一杯のワインが必要です。
西洋文化と同じように、ユダヤ教においてもワインは深く力強い象徴的意味を持っています。
ユダヤ人はワインによって抑圧から解放され、隠れた自己を晒します。
これは、「ワインのあるところに秘密が明らかになる」というヘブライ語のことわざに表れています(古いラテン語にも同じ意味のことわざがあります)。
ローマでは、慣習からの解放を希求するバッコスの祭のような異教の信仰において、ワインが中心的な役割を果たしていました。
そのため、信心深い人々はお酒を飲まないことで知られていたのであり、宗教の中に完全にアルコールを禁じる習慣があるのは、危険な人間の衝動を解放するリスクを冒さないためであることが分かります。
反対に、最も楽しく、最も神聖である時間をワインと関連づけることで、人が本来持つ善良さを信じることを力強く表明します。
自身をさらけ出すことを恐れていないことを示すのです。
逆に、さらけ出すことを恐れる時には、最も内奥にある自己を表出させて聖別するのに最適なタイミングだということになります。

三人いるところで一杯のワインと祈ること
多くのラビは、一人で祈る時でさえワインが必要であると述べていますが、習慣としてはゾハールに従い、三人いる時にだけ必要であるとされています。
この慣習におけるゾハールの洞察をいくつか見てみましょう。
ゾハールでは一杯のワインをイスラエルの地に見立てています。
食後の祈りにおいて、カップに満たされたワインによって表される数多くの恵みを主に感謝します。
カップに満ちたワインは、ユダヤの人々のために豊富な恵みで満たされたイスラエルの地です。
祈りを唱える人は、祈りから気を逸らさないために、ワインを見つめ続けなければなりません。
ゾハールはこの動作を、決してイスラエルの地を見捨てられない主の視線に擬えます。
その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
祈りを唱える三人は、イスラエルの地を約束された三人の族長、アブラハム、イサク、ヤコブに擬えられます。
この族長の象徴は、イスラエルの地に特有の祝祷が中立なものではないことを思い出させます。
三人の定足数が必要であることは、イスラエルの地が、それぞれの族長に順番に約束されなければならなかったことを思わせます。
これは、ユダヤ人が約束の地にふさわしい民族になるために、それぞれの族長が特徴的な貢献を果たしたからです。
祝祷の後、男性はカップを妻に手渡さなくてはなりません。
その妻が彼らと一緒に食事をしていないとしても関係なく、天使たちがサラにカップを渡そうとしたように渡すのです。
こうすることで、家族の恵みは妻のおかげであり、この恵みは中立なものではなく女性が持つ聖なるものとの結びつきに根ざすものであるということを夫が知ることになります。
食後の祈りは主に対し、主がくださった「喜びに満ち、正しく、広大な土地」について感謝します。
しかしそのような土地は世界中にあります。
カップ一杯のワインの象徴的な意味を理解すれば、これがイスラエルの地のみのことを言っていることが分かります。
イスラエルの地は、精神的な正しさと広さを持っています。
この恵みは神がご覧になっていることに起因するものであり、自分たちと子孫のユダヤ人のために、その約束の土地に値した聖なる族長たちのおかげなのです。
野放図ではなく、豊かであること
既に飲まれたワインのカップを使ってはならず、カップ自体にひび割れや傷があってはなりません。
カップ自体も私たちの祈りで高められなければなりません。
誰でも、ひとたび目覚めると、全てを破壊してしまうような乱暴で制御できない力を解き放ちたいという衝動を考えたことがあるものです。
お酒を飲むことに関しては、グラスを火に投げ込むようなことがその例して表されます。
しかし、ユダヤ法では衝動に従うことは聖なる力を解放することだと理解しています。
抑制を取り払うことは、秩序を投げ出して混沌を迎え入れることではなく、むしろ逆に、より完成されたものになるために、ただの慣習に過ぎない秩序を超えていくことなのです。
このモチーフは、カップの中身がいっぱいに満たされ、カップ自体が完全である必要があることと、カップを持ち上げることで表現されます。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
先日youtubeでイスラエルとパレスチナを旅している日本人の動画がありました。パレスチナでは東洋人を見ると、子供から大人までコロナ!コロナ!と罵声を浴びせ、バスとタクシーはほぼ乗車拒否。優しくしてくれる人はお金目当て・・・。
イスラエルに入ると日本人をwell comeムードで迎えてくれて街もきれいな印象です。あまりの民度の違いに愕然としました。
これはやはり教育と信仰の違いなのかも知れませんね。
まずは秩序を守ることが大切である。
そうしなければ、神への畏敬がなくなり、恵みが与えられなくなる。
しかし、秩序を超えることも大切である。
秩序というものに完全に縛られることは
成長がないことを意味するからである。
自身を解放することが大切なのは、
秩序を超え、成長をする必要があると
教えられているからだと推察します。
それを象徴したのがワインなのかなと
思います。
これは、コンフォートゾーンの概念と
似ていると感じました。
まずはコンフォートゾーンがないと
人間は心地良い時間がなく、IQが下がる
しかし、コンフォートゾーンに浸かりきると
成長する機会を自ら逃す可能性が高くなる。
(成長する選択はコンフォートゾーンを
抜けることになり不快だから)
このコンフォートゾーンの概念と
似ていると思いました。