タルムードと神道(44):☆神道と儒教

神道の最大の特色は「経典=戒律」がないことです。

そんな神道でも、同じ母親を持つ人と性交してはいけないという唯一のタブーがあります。

異母兄弟姉妹と同じ腹から生まれた兄弟姉妹を明確に分けるためです。

しかし、驚くことに母親が違えば自分の娘とも恋愛や性交が可能なのです。

実際にそうした事例は多く、別に罪悪感も何もありません。

なぜなら、禁忌は禁忌と決めるまでは禁忌ではなく、他人と恋愛をするように、親子間の恋愛でもあり得たのです。

経典がない宗教は世界広しと言えど、原始宗教でなければ神道ぐらいです。

つまり、戒律がないということは、盗んでも、殺しても、犯しても大丈夫なのです。

だからといって、すべてが許されているわけではありません。

「あなたはそれで幸せですか?」という内面的な部分が問われ、後に「穢れ」と「清浄」という概念も出てきたようです。

自分にとって好きなこと、気持ちの良いことに進めば人は幸せになります。

そのハードルが低ければ低いほど…また罪と認定されていることが少なければ少ないほど、尚更、幸せに近づきます。

一方、タブーを作ってしまえば、守れる人は幸せになりますが、守れない人は不幸になります。

つまり、タブーがある宗教は、多くの人を救うことができないのです。ということは、神道は人々の幸福に対して実質主義です。

例えば、天皇陛下が目の前にいらしても、頭を下げたくなければ頭を下げなくて良いのです。

それでも許されるのが神道です。

これに対して、儒教は徹底した形式主義です。

あなたが誰かを尊敬しようが、それを口で伝えるということはしません。

そのために、伝わりづらくなっているのが儒教です。

わざわざ言葉で伝えなくても、それを伝える形式を作り、その形式に則って生きていこうというわけです。

実際には尊敬していなくても、尊敬の形式を整えれば尊敬していることにするのです。

この両極端な実質主義と形式主義を混淆(宗教の合体)したのが、明治時代の廃仏毀釈の後に作られた神社神道(終戦までは国家神道)です。

つまり、本来の神道の実質主義を頑なに廃していますから、神道の本筋から見るとかなりカルトになります。

二礼二拍手一礼というのも、儒教的に決定したものであり、1970年代までは、多くの神社で様々な参拝形式が存在していました。

例えば、八幡宮は全国の神社の半分を占めますが、その総本社である宇佐神宮の参拝形式は「二拝四拍手一拝」で、そこに「礼」はありません。

神社によっては神職が様々な二礼二拍手一礼がどのように定着したのか?といった歴史的説明をしていますが、1400年以上の歴史がある神道の中で、それを記した最も古い書物は明治8年以降のものであり、極めて浅くて現代的であるとしか言わざるを得ません。

そもそも「伝統・歴史」という表現をする多くの人の「伝統」は、明治維新以前にも至りません。

つまり、多くの人が聞かされる「伝統」「昔から」「先人の」と言われるものは、せいぜい100〜200年前のことを言っているのです。

大和朝廷から1400年以上もある日本の歴史に対する冒涜とも言えます。

また、「神道」を説いている人たちの言葉は、99%が儒教で、本来の神道ではありません。

神道を勝手に儒教解釈しているに過ぎないのです。

なぜそこまで神道とは異質な儒教を導入する必要があったのか?

明治維新以前からあった儒教がどのように日本社会と関わっていたのか?

儒教とはどのような学問で、現在の日本にどのような悪影響を及ぼしているのか?

については、また後日。

 

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

タルムードと神道(34):テフィラー

タルムードと神道(35):アミダーの祈りへの追加

タルムードと神道(36):先唱者によるアミダーの復唱

タルムードと神道(37):埋め合わせの祈り

タルムードと神道(38):タファナン(懺悔の祈り)

タルムードと神道(39):週日のトーラー朗読

タルムードと神道(40):完全なトーラーの巻物を書くこと

タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ

タルムードと神道(42):会葬者のカディシュ

タルムードと神道(43):トーラーを学ぶことについての法

2 件のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    「自由だが内面を問う」という教えは厳しくもあり清々しく感じます。
    私は宗教に対してずっと違和感を持っていました。それは形式に対してのものだったのでは?と今思い始めています。

  • 伊藤 より:

    元々、日本人は霊性が高かったので、故に物質開発を必要以上には行わない(=資源の乱費や、無駄な生産活動はしない)
    民族であったと思います。江戸時代の高度なリサイクル、リユースの循環型社会はその典型です。
    それが、江戸時代までの鎖国政策が、世界情勢から終わりを迎え、諸外国からの侵略から自国を守るために
    富国強兵へと切り替える必要が生じ、神道を儒教化し、想念よりも形式を重視、灰色ではなく白か黒か、0か1か、
    物質開発に必要なデジタル思考パターンへ強制的に切り替えるために行われたのではないか、と感じます。

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