タルムードと神道(46):正しい行い

「世界の道」- 思慮深さ

キツール・シュルハーン・アルーフは法についての書ですが、一つの章を丸ごと人格の発達と思慮深い行いに当てています。

このことから、法を守ることと正しい人格の特性を育てることの間には、切っても切れない関係があることが伺えます。

アダムとイブが罪を犯した後、「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎを置いて、命の木の道を守らせられた」とトーラーは教えています。

賢人たちはその「命の木」がトーラーであり、「道」はデレク・エレツであるとしています。

デレク・エレツとは、文字通りには「世界の道」であり、世界と他の全ての人間に思慮深さを持って関わることを表す普遍的な言葉です。

エデンの園を追われ、外の世界に向き合わなければならなくなったとき、私たちがトーラーに近づく方法はただ、人間らしい振る舞いをすることだけです。

これは、キツール・シュルハーン・アルーフにおけるこの章の位置付けを説明しています。

ここまでのキツール・シュルハーン・アルーフの順番は、大まかに言って一日の流れを追っています。

つまり、起きる、服を着る、朝の祈りを唱える、トーラーを学ぶための決まった時間を作る、という流れです。

ではこの章はどうかというと、祈りや学びのために隔離された環境に入る、「エデンの園」の時間です。

朝の祈りと学びが終わった後、私たちは早朝の「エデン」を追われ、罪の影響で呪われた世界を向上させるために本格的に動き始める時間が来ます。

それが、他の人と交わるべき時なのです。

すなわち、個人的な正しい振る舞いが何より重要になります。

賢人たちは、デレク・エレツ、つまり思慮深い行いを惜しみなく称賛しました。

こうした表現は、ミシュナー、タルムード、そして様々なミドラッシュに何百回も登場します。

またこの素質は、トーラー自体と正式なトーラーの学者の必要条件として言及されます。

トーラーを学んだユダヤ人は、この世界に大いに尊重します。

戒律を通してもたらされる主なる神の力は、ほぼ例外なくありのままの世界と全ての人間の交わりを通して可能になるものです。

皮肉なようですが、世俗的な世の中の事柄と人々こそ、この世界を超越した存在である主なる神に近づくための主な手段なのです。

尊重していることを示す一つの方法は、思慮深く、かつ礼儀正しく世の中と関わることであり、あまり極端に距離を置きすぎないことです。

しかしながら、デレク・エレツはそれ自体が目的ではありません。

賢人たちが教えているように、「命の道」は「命の木の道」、すなわちトーラーへの道なのです。

多くの人が宗教を素晴らしい仕組みだと思うのは、宗教が社会に秩序をもたらしているからです。

彼らは命の木を、目的への手段に、そして通り道にしているのです。

自分自身のために世の中と関わるのは、トーラーの道と真逆です。

実際このような考え方は、正しく機能している社会をだめにしてしまうものであり、偶像崇拝と深く関係しています。

神の存在を認識してはいるものの、その神を何か他のもの、人間に服従させてしまうのです。

これが偶像崇拝の中心的な特徴です。

異教徒の宗教では、表向きは人間を様々な神と力に従属するものとし、それらに仕え、崇めるものとしています。

しかし実際の儀式は、明らかに利益を得るためのものです。

雨の神を鎮めるのは雨を降らせてもらうため、などです。

結局、人間がつけた価値の順位の頂点に置かれています。

原始的な異教の信仰から現代の世俗的な人間中心主義に至るまで、人間は数えきれないほどの自分自身を信仰するための方法を作り出してきました。

ただの人間の身勝手な性癖のための遊び場と見られるのであれば、この世界は全くもって軽蔑すべきものです。

賢人たちの多くが口にしている、世界と向き合うべきであるというメッセージに相反するような、世界と距離を置くべきであるという言説は、このことから説明できます。

ユダヤ古典叢書であるアヴォートにおけるミシュナーでは、デレク・エレツが無ければトーラーは存在し得ないと主張する一方で、デレク・エレツの束縛から自由になれと助言しています。

主なる神に仕えるために、義務として世俗の営みに参加しなければならないのですが、同時にそうした営みの煩わしさから解放されたいのです。

私たちは主なる神のしもべであるべきで、憂き世のしもべではありません。

楽しさ

幸福と平穏を広めるため、いつでも楽しい気質を保てるように努めなくてはなりません。

理想的なのは、いつ見ても楽しそうな状態です。

ユダヤ教における楽しさの重要さは計り知れません。

エリシャが預言を得たいと望んだ時、彼は音楽家に悲しみを解いてほしいと頼みました。

タルムードはこのことから、主の聖なる魂は楽しい状態にある人にしか安らがないということを学んでいます。

同じように、祈りによって主なる神に近づくのは楽しい気分であるときのみにすべきだと教えています。

主と主の支配に対する真の忠誠心がある人であれば、自然と楽しい気分であるはずです。

主なる神のしもべである以上、私たちの意志は主の意志の表れです。

信仰の篤い人間として、この世にあるものが不完全に見えたとしても、あらゆるものは究極的には、主の意志に沿うものであるということを知っています。

最も重要な望みが満たされれば確かに楽しくなりますし、本当の信じる者であれば、主が支配する世界の到来という最も重要な望みは時として見えなくなることがあっても、依然現実であるということを確信しています。

この意味において、悲しみはほとんどある種の拒絶であると言えます。

あたかも個人的に、または人類全体が、見放され置き去りにされたと感じるようなものです。

ある人が、高徳なラビ・アリエ・レヴィンの元を訪れました。

その人は解雇されることをひどく心配していました。

ラビ・アリエは少しも心配することはないと答えました。

もし、誰かが聖なる神を解雇しようとしているのなら、それは心配する理由になります。

しかし主は確かに職に留まっていらっしゃるので、心配する理由は無い、というのです。

このような楽しみ方をすることは、この世で苦しんでいる全てのものに対して、悲しみを抱くことと矛盾しません。

それどころか賢人たちは、ユダヤ人ならたとえ動物に対しても、他の者の苦しみに敏感でなければならないと強硬に言っています。

人の不運や苦しみは現実であり、不運に対処し苦しみを和らげるよう努めることはユダヤ人の使命の一部です。

しかし、苦しみの感情と共感の背後に、全ては主の意志の支配のもとにあるという感覚があるべきであり、この感覚が内心の平穏と、楽しむための素地をもたらしてくれます。

ラビ・アリエ・レヴィンは彼自体、人々が抱える些細な悲しみにさえも共感する優れた感覚を持っていたので、生活上の心配を相談しに来た哀れな職員に対して、共感しなかったわけでは断じてありません。

そうではなく、困難への共感とそれを和らげたいという心からの望みを以て、主なる神は変わらずその座におられ、その権能を常に行使されていることを強固に信じる必要があるということなのです。

ハシディズムの運動は、バアル・シェム・トーブと彼の教え子たちの教えに従い、儀式の中では楽しさが中心にあるべきことを特に強調しています。

預言者エリシャの例に倣い、バアル・シェム・トーブは音楽を信仰の中心に据えました。

好んで用いられたのはニーグンと呼ばれるシンプルな悲しいメロディーで、伴奏もなく、歌詞も、祈りの儀式に由来する一つの節も使われません。

ハシディズムのリーダーたちはまた、困難に直面した時でさえ楽しむことができる感覚を養うための瞑想の重要性を強調しました。

例えば、ユダヤ人であることへの厳しい差別に際して、ユダヤ人だけに許された主との関係を瞑想し、トーラーの聖なる戒律を通して主に仕えることができる能力を瞑想することなどです。

自尊心、怒り、偶像崇拝

私たちは個人的な特性において、中庸を追求しなくてはなりません。

例外となるのは、自尊心と怒りから完全に離れ、代わりに完全な謙虚さと忍耐強さを求めることです。

全体として、私たちはバランスの取れた人格を持つべきです。

個人差を許容するとしても、極端になってはいけません。

吝嗇(読み:りんりょく 意味:ケチのこと 但し、倹約とは異なる)でもなく浪費でもなく、悲しみに沈むでもなく、上機嫌でもなく、不自由でもなく、有り余るでもない、ということです。

あらゆる人格の特性は、各個人で異なる経験に対応すべく主が作られたのであり、私たちは世界を十分に理解し、社会に適するためにこれらの特性を必要としています。

しかしそこには2つの例外があるように思われます。

それが自尊心と怒りです。

私たちは自尊心から最大限距離を取らなくてはなりません。

しかし謙虚になることが、私たちの能力について過小評価することを意味するわけではないということは覚えておく必要があります。

賢人たちが自身の功績(その素晴らしい謙虚さを含めて)について強調している例を数多く見つけることができます。

謙虚さの元となるのは、能力と功績の全てが主によって与えられ、主に帰属するものであるということを認識することです。

それから、今度は反対に、主が創り給うた世界の美しさや完全さに感嘆するのと同じように、自分の能力を高く評価することになります。

しかしながら、轟く滝を自慢に思うことが無いように、自分の能力を自慢に思う理由はありません。

自分を高く評価することと、自尊心を持つことは同じものでは無く、むしろ真逆であることが分かります。

自分の能力が主に帰属することが分かれば、他の誰かより優っている理由など見つけなくても、それだけで自分の能力を最大限評価することができます。

怒り

ミドラッシュでは、怒ることは偶像を拝むようなものだと主張しており、怒りは強く非難されます。

聖書は「あなたは外国の神を拝んではならない」と言います。

タルムードでは次のように言っています。

人間の体のうちには何と奇妙な神があることだろうか。

これは邪な衝動であり、彼を唆して怒らせるものである。

怒りと偶像崇拝の似ている点は、諦めの感覚でしょう。

異教の信仰に顕著な特徴は、社会的規範から見ても個人の良心から見ても、普通は禁じられている行為です。

極端な例としては、人間を生贄にすることと、乱痴気騒ぎ(読み:らんちきさわぎが 意味:どんちゃん騒ぎ)があります。

この礼拝者たちは、逆上や陶酔などによるコントロールの放棄から派生して、こうした信仰に誘われているのです。

怒りも同じように人間のコントロールを失わせ、普段なら避けるような攻撃的な行動に誘います。

これは、常に自分の行動に完全に責任を持って世界と向き合うことを義務付ける、ユダヤ人の伝統が求めるアプローチとは完全に逆です。

トーラーの学者に従うこと

生活のあらゆる面における学びを教えてくれるトーラー学者に敬意を払うことはミツバです。

隣人として、ビジネスの仲間として、血縁関係者などとして、トーラー学者との接点を持つように努力しなければなりません。

トーラーでは、主に従うべきであると私たちに命じています。

賢人たちは、トーラーの学者に従うことで、この戒律を守ることができると結論付けました。

ユダヤの人々は主から直接トーラーを聞くことは畏れ多いとしたので、主と繋がるためには、文字通り「師」を意味するラビと繋がる必要があります。

矛盾するようですが、これはシナイ山の経験を今日まで繋げるために必要な中間プロセスです。

初めはトーラー学者が主なる神の言葉を人々に伝えたことが先例となりました。

今日の賢人たちの言葉が途切れぬ鎖となり、私たちは直接トーラーが与えられたその時に繋がっています。

このことから、なぜ主に従うという戒律がトーラー学者に従うことで守られることになるのか、カリスマ性があり霊的に託された人でなくてよいのかということが説明できます。

超越的な精神を感得する個人的な高揚体験は、ユダヤ教において確かに価値があるものではあります。

しかしそうした経験は、しっかりとした伝統の上に位置付けられなければならないですし、それは私たちと主を近づけるためのものであって、主から遠ざかるものであってはなりません。

ミシュナーのアヴォート(賢人の格言集)についての論考は、大部分が人格の向上について分かれていますが、これはモーセに始まってミシュナーの賢人たちに至るまでのトーラーの伝播の連鎖から書き起こされています。

同じ論考の後の部分で、「狐の頭になるのでは無く、獅子の尾となれ」と訓告しています。

尾は頭よりも重要さの面で劣るでしょうが、そうであってもとにかく百獣の王である獅子の一部ではあるわけです。

トーラーの学者と繋がることで、私たちを王たる主に結びつけてくれる、イスラエルの会衆の構成要素であり続けることができます。

反対に、繰り返される悲しい経験は、この結びつきを弱めて個人を「狐の頭」に仕立てるようなトーラーに対するアプローチが教派の分裂を招き、究極的にはユダヤ教の生きた伝統からの離脱を引き起こすということを証明しています。

兄弟愛

「自分のように自分の仲間を愛せよ」と書かれている通り、仲間のユダヤ人を愛することはミツバです。

私たちは他人のことを好意的に話すべきであるし、彼らの財産を守るべきです。

この戒律について語られていることの一つは、他人について好意的に話すことです。

仲間を「自分のように」愛するという戒律は、「自分を愛する程度に」という意味だけではなく、「自分を愛するやり方で」という意味を持っています。

誰もが自分を正当化するという驚くべき能力を持っていて、これにかかれば失敗も言い逃れできますし、そう悪いようには思われないばかりか称賛されるべきとさえ思われるでしょう。

仲間を好意的な目で見るという戒律によって、トーラーは私たちに、この能力を他人にも同じように適用させることになるのです。

賢人たちは仲間を好意的に評価することの重要性を大いに強調しています。

そうすることによって、私たちは自分たち自身が好意的に評価されるようになります。

そうした態度は違反者に対する審判を軟化させるという効果をも持ちます。

ハシディズムにおいては、もし誰かの行為を好意的な目で見るならば、その行為自体を称揚することができると教えられます。

これは、真摯に後悔すれば罪が美点に変わるという、似たような考えを思い出させます。

ある行為を見直し、新たに建設的な目で見るとき、その行為自体が変質するかもしれません。

このミツバの根底には、人間は本来的には良いものだという基本的な信念があります。

この信念が私たちの中に深く染み込んだとき、私たちは自然に周りの人を好意的に見ることになるでしょう。

もう一つの重要な要素は、行動を形作ることへの期待の大切さです。

私たちが本能的に誰かに高潔であってほしいと期待し、好意的に評価するとき、その人はそうした期待を内部に取り込み、自分自身を前向きな目で見るようになり、ついには本当により高潔な人物に変わっていくのです。

全人類を愛すること

この戒律のユニークな言葉遣いは、愛情の同心円という深遠なメッセージを表しています。

トーラーはただ単に、仲間のユダヤ人を愛せよと言っているわけではありません。

「自分のように自分の仲間を愛せよ」と言っているのです。

これが示しているのは、誰かを正しく愛するためには、まず自分自身を愛するところから始めなければならないということです。

誰かを尊敬するためには、まず自分を敬うところから始める必要があるということです。

この考えは自然に外挿法(読み:がいそう 意味:既知のことから未知のことを推定すること)になります。

自分自身を愛せるようになり、自分の個性の価値を認めることができるようになって初めて、他の人を正しく愛せるのです。

また、同じユダヤの人々を愛せるようになり、自分たちの極めて重要な歴史と諸民族の中における位置の価値を認めることができるようになって初めて、全人類の一部である立場から全人類を正しく愛せるのです。

ユダヤ人の伝統は、すべての仲間である人類を愛すべきであるとしています。

この考えを拡張すると、人類が占める特別な位置を正しく評価できるようになって初めて、自然環境を本当に評価できるようになるということになります。

私たちはすべての主なる神の創造物を愛し、その価値を認めなければなりません。

しかしこの愛は、帰属を表す同心円からどのように生み出されているのかを正しく理解しなければ成立しません。

また、ユダヤの人々を特に愛すという戒律の別の側面もあります。

これはユダヤの人々が持つ、主なる神との特別な繋がりです。

基本的に、トーラーが与えられて以来ずっと、人類に与えられたあらゆる神意の表れは、まずユダヤの人々を通して伝えられてきました。

ある意味、ユダヤ人全体が人類における主なる神の存在の生きた表れなのであり、仲間のユダヤ人を愛することは、主を愛することと密接に関係しているのです。

主に仕える上での一体性から生まれている民族としての兄弟愛は、主なる神の単一性にとっての強力な証なのです。

 

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

タルムードと神道(34):テフィラー

タルムードと神道(35):アミダーの祈りへの追加

タルムードと神道(36):先唱者によるアミダーの復唱

タルムードと神道(37):埋め合わせの祈り

タルムードと神道(38):タファナン(懺悔の祈り)

タルムードと神道(39):週日のトーラー朗読

タルムードと神道(40):完全なトーラーの巻物を書くこと

タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ

タルムードと神道(42):会葬者のカディシュ

タルムードと神道(43):トーラーを学ぶことについての法

タルムードと神道(44):☆神道と儒教

タルムードと神道(45):トーラーの巻物を書くこと、トーラーの本を得ること

 

2 件のコメント

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    世の中との関わり方を考えさせられました。得を目的に行動しても、うまくいかないようになっているんですね。人類は神のしもべであって、憂き世のしもべではない。遠くに入り口の光を感じるイメージです。

  • 伊藤 より:

    「全ては主の意志の支配のもとにあるという感覚」は、とても重要ですね。
    それが腹に落ちていれば、周囲の人々も同胞であり、何らかの意図があって縁が結ばれているという感覚を
    持ち続けることができますね。

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