タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

祈りは清浄で敬虔(けいけん)な場所でなされなければなりません。

鼻につくような臭い場所、または慎み深くない淫乱な場所で祈ることは許されません。

これは、軍隊の陣営であってもそうで、これらは謙虚さと敬虔さを保つためのトーラーの掟から学ぶことができます。

あなたの陣営を清廉に保ちなさい。はしたないものが目に付いてはなりません。

(申命記 第23章14節)

敬虔とは、深く敬って態度を慎むことで、特に親や神に対する忠誠心、崇敬心、孝心を意味する。

清浄さの必要性

前回において、ユダヤ教では人間の排泄物は聖なる性質に入らないという説明をしました。

その理由は、身体は聖なるエネルギー源に替えるための栄養素は全て吸収しますが、そうでないものは排泄されるからです。

これと同じように、腐敗による臭いは、私たちが成長と進化を願う一方で、衰退や死、滅亡を思い起こさせます。

もし、破滅の象徴でもある臭い場所で祈りを捧げるとしたら、それは、邪悪な存在と一緒になりながら奉仕をしていると見なされます。

それは決して許されることではありません。

神の側にいながら異教徒の儀式を行い、悪い霊を満足させていると捉えられるのです。

実際にトーラーには、異教徒の偶像 バアル・ペオル(ベルフェゴール)の儀式は、この偶像の前で性的行為が必要だったとされます。

ベルフェゴールとは、ユダヤ、キリスト教に伝わる悪魔で、七つの大罪において怠惰を司るといわれる。
ベルフェゴールの名は「バアル・ペオル(Baal Peor、בַעַל-פְּעוֹר)」のギリシャ語とされる。儀式において利用した洞窟や供物を投げ入れた場所を表す「裂け目・割れ目」を意味するとも言われ、それが女性器を連想させることから、その儀式は淫らな行為をともなったとされる。
『旧約聖書』の「民数記」第25章では、ヘブライ人がシティムの地に滞在した際、モアブ人(古代イスラエルに隣接したモアブという地域の人)の娘に誘惑され、多くのヘブライ人がバアル・ペオルなど異教の神々に生贄を捧げ崇拝した。
これに激怒した神はモーセにバアル・ペオルを崇拝した裏切り者を全て処刑させた。
それでも神の怒りは収まらず、疫病で2万4000人の命を奪い、最後にミディアン人(砂漠の遊牧民)の女性を連れてきたヘブライ人人をエルアザル(モーセの兄であるアロンの子)が殺したことで終息した。

このバアル・ペオルは「申命記」や「ヨシュア記」など、後の聖書内の記述では、異教の神を崇拝した者の末路として言及されている。
こうした聖書内の記述から、ベルフェゴールは、男を魅了する美女の姿で現れる好色の罪をもたらす悪魔とされる。
また、中世のグリモワールに発明を手助けする堕天使と紹介されており、便利な発明品を人間に与えることで堕落させるという怠惰の悪魔にふさわしい力を持つ。

上の絵は、コラン・ド・プランシーの『地獄の辞典』で、車輪のついた便器に腰かけた悪魔の絵であるが、悪魔が便器に腰掛けている理由は、汚らしい排泄物こそがベルフェゴールに相応しい奉献物だとユダヤ教のラビが説いたからだといわれている。

敬虔さの必要性

清廉(せいれん)な環境の要求は、清浄さの必要性とは事情が異なります。

清浄さの環境は、腐ったものの存在自体が禁止されていました。

一方、敬虔さの環境においては、はしたない物が「見える」ことが禁止されています。

さらにいえば、腐敗物の近くではトーラーについて考えることもNGなのに対して、はしたないものが露出されている近くでは、トーラーを話すことのみがNGだという違いがあります。

この区別は、これまでに学んできた原則によって理解することができます。

人間の排泄物は、聖の性質に入ることに抵抗するネガティブな象徴なのに対して、裸であることは、私たちが罪に染まりやすいという認識が欠如していることを示すだけです。

私たちが裸になること自体は、何も悪いことではありません。

しかし、私たちが神に対して、自分の思いを声に出す時は、外部から見てとれる行いが、私たちが恥を知っている、或いは霊的な次元へも向かって行きたいと考えていることを示すことになり、ここに注意しなければならず、また道徳上の教訓のヒントをみつけることができます。

もし、誰かが服を着ておらず裸だったとしたら…

汝が裸の者を見たら、その裸を包ませてやらねばならぬ

『旧約聖書』イザヤ書 第58章7節

とあるように、それを見た私たちは、その人に対して手伝うことを考えなければなりません。

私たちは隣人に対する基本的な義務を果たさずして、神に近づけることはありません。

私たちはむしろ、貧しい人々の切羽詰まった求めに応えるために、朝のShema(シェマー)を祈るための時間を取る必要があるのです。

シェマーに時間を捧げたタルムードの賢人「レベ・イツハク」や「レベ・ユダ」にならわなければなりません。

シェマーとは、ユダヤ教の成人男性によって少なくとも一日に二回唱えられる典礼の祈り。

 

本日の課題

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これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

3 件のコメント

  • zipang044kwsk@au.com より:

    いつも深い学習をさせていただきありがとうございます。
     
    中々コメントが出来ていませんが、少しずつコメントしていきます。
     
    偶像がある時点で異教徒ですよね。
    僕は神は己の内側に存在していると思っています。
     
    そう考えても、偶像を崇めることは
    自分の内側を見ていないのではないかと思います。
     
    【自分を大切にすること】
     
    これが人の役に立つためにも
    最も大切なのではないかと思っています。
     
    多くの人に貢献できる人間が
    自分を大切にせずに亡くなってしまったら
    結果的に多くの人に貢献できなくなる。
     
    そう思っています。
     
    いつもありがとうございます。
     
    これからもよろしくお願いいたします。

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    感謝がない事柄はすべて神から離れるような気がします。欲や怠惰のみの世界を想像してみるとゾッとします。

  • まぐくる より:

    人は清められた場で祈る事で身も心も浄化されていくのだと思います。その逆も然りですね。

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