タルムードと神道(35):アミダーの祈りへの追加

雨への称賛と求め

冬の間、ユダヤ人は2番目の祝祷において主が雨を与えてくださることを称賛し、9番目の祝祷において雨を求めます。

これらは過越祭の初日から始まる夏の間は省略されます。

雨への称賛は仮庵祭(かりいおさい)の最終日のホシャナ・ラバから始まります。

雨への求めは、イスラエルにおいてはヘシュバンの月の7日の2週間後から、ディアスポラ(イスラエル以外の地に移り住んだユダヤ人のコミュニティ)においては、冬至の2週間前(通常12月4日)から始まります。

いくらか複雑な季節ごとの雨の求めに関しては、様々な考慮すべき事項があります。

a.最も基本的な事項として、私たちは雨を求めなければならないのと同様に、雨の季節(仮庵祭から過越祭まで)に雨を降らせてくださる主を称賛しなくてはならない。

b.しかし、仮庵祭において仮庵にいるときに雨のことを言うのは相応しくないので、仮庵から家に帰るシェミニ・アツェレトの前日まで待つ。

c.それでもなお、巡礼者が家に戻るには2週間はかかるし、雨の中の旅程は難儀なので雨を求めるのはまだ適切ではない。

d.バベル(バビロニア、現在のイラク)においては、冬至の数週間前まで雨は降らないので、これより早く雨を求めるのは不適切である。

 

現代の実情にそぐわない習慣

この習慣には2つの疑問があります。

なぜ大昔の年3度の巡礼を基準にして考えられているのか、また、ディアスポラについてなぜバビロニアを標準に考えられているのか、ということです。

今日ではそこに巡礼者はいませんし、仮にもしいたとしても、雨から身を守ることができる自動車で移動するでしょう。

さらに、ヨーロッパとアメリカのほとんどの場所では1年を通して雨が降りますので、タルムードの時代の習慣を続けるのは非現実的に見えます。

 

考えを巡らすことと記憶

なぜ現代でも祈りの根拠を神殿への巡礼者に置くのでしょうか。

雨のためにヘシュバンまで祈ることができなかった神殿の時代を考えるきっかけにはなるかもしれませんが、そこに巡礼者がいない現代においては、その習慣の倫理的な意味は失われています。

事実、神殿の時代であればこの習慣は考えを巡らせるきっかけを与えていたでしょうが、現代ではこの習慣が2つの意味を持っています。

倫理的な意味はそのままに、歴史的な意味が追加されているのです。

神殿の時代には、なぜ雨を求めるのを遅らせるのかと尋ねれば、巡礼者のことを考えてのことだという、重要な学びが得られていたはずです。

現代において同じことを尋ねた人は、同じ学びを得るのに加えて、神殿が健在して年に3度の巡礼が行われていた当時のイスラエルの繁栄についての学びも得ることになるでしょう。

 

なぜ全てのディアスポラにおいても、祈りの根拠を当時のバビロニアに置くのか

同じように、ディアスポラ(当時はバビロニアと同義)において冬至が近くなるまで雨を請うことを遅らせるのはなぜかと尋ねれば、当時はその時期までは雨が降らないからだという学びが得られました。

現代においてはそれに加えてもう少し学ぶことになります。

つまり、現代における追放ユダヤ人は、年代的そして地理的にバビロニアのユダヤ人の延長上にあるのだということを学ぶのです。

エジプトへの追放は、ユダヤ人の罪によるものではありませんでした。

その上、エジプトからのエクソダス(出エジプト記)そのものによって、初めてユダヤ人という民族が出来上がったのですから、その前のエジプトへの追放は個人的なものです。

イスラエルの民が犯した罪への罰としての、そしてそれらの罪をもたらした混乱した状況への代償としての追放は、第一神殿の破壊に始まるバビロン捕囚から始まったのであり、まだ完全に終わってはいません。

この追放は、活発なディアスポラのコミュニティを生み出し、トーラーの義務への献身と研究を新たな高みへと導きました。

そして、今日まで連なるユダヤ法の基礎となる、偉大なるバビロニア・タルムードが生み出されたのです。

ユダヤ人の追放には多くの様相があります。

一つは、罪に対する罰です。

全体として、イスラエルの地における暮らしは、個人にとっても集団にとっても良いものでしたから、追放によって経験する困難と不慣れな暮らしは苦痛です。

別の一つは、罪に伴う必然的な報いです。

健康を蔑ろにした人が必然的に病気を得るのと同じです。

イスラエルの地は罪に耐えきれず、聖なる土地に値する精神を持たない人々を放逐します。

最後に、これは救済であると見ることもできます。

追放は一時的なもので、不自然な状態であるため、たとえこれが何千年も続くとしても、追放という事態そのものはいずれ、帰還を可能にする状態をもたらすはずだと考えられます。

皮肉なことですが、この混乱状態によって異邦の民となることで初めて、ユダヤ人は自分自身を知ることになったのです。

これがバベルで起こったことです。

バベルへの追放以前は、ユダヤ人は預言された民であり、神との交信を体験できる民族でした。

紅海で、そしてシナイ山で、ユダヤ人全員が預言を体験しました。

その後、失われたものを取り返すために戦いを起こすことから大事小事に至るまで、多くの預言者が導き手となりました。

残念ながら、主の存在を体験できたこの精神的な絶頂期は、信仰に対するアプローチを硬直化させました。

偶像崇拝は精神的に気晴らしとなるような経験をもたらし、ユダヤの人々にとって恐ろしい誘惑となりました。

タルムードでは、第二神殿の賢人たちが偶像崇拝への衝動を断ち切ったとしています。

その時、神殿内部の聖所から、火のついたライオンが逃げ出してきたのです。

神の儀式により命を吹き込まれた魂は、火のついたライオンのように燃え盛り、獰猛ですが、その同じ魂が偶像崇拝への衝動を生み出すこともあるのです。

このような混乱状態においては、宗教的な体験と自分自身を切り離し、強固で揺るぎない原則の元に神との繋がりを確立する必要がありました。

これがバベルで起こったことであり、バビロニア・タルムードが生まれた背景です。

賢人たちはバビロニア・タルムードを「闇の中に座っている」ことと対比します。

この例え話はなんと、バビロニア・タルムード自体の中に見られます。

権威を傷つけるような表現にも思えますが、実際にはより深い、ポジティブな意味を持っています。

盲目である人、もしくは闇の中に座っている人は、風景を見て行く先を知ることができませんから、注意深く周りにあるもの全てを評価しなければなりません。

幻に惑わされることもなく、飾りに気を取られることもありません。

これと同様に、バビロニア・タルムードはその定義と評価の根拠をトーラー全てに求めています。

これはトーラーが持つ経験的な要素に、無くてはならない追加的な要素でした。

結果として、バビロニア・タルムードは、どこにおいても権威ある法の根拠となったのです。

アミダーの祈りの中で雨について言及することは、神殿があり、祭日にはあちこちから巡礼者が訪れていた頃のイスラエルにおける理想的な状態を思い出すきっかけになるのです。

そしてまたディアスポラについては、バベルのような理想的な状態を思い出すことにもなります。

バベルでは、堕落することなく神の存在を体験できるようにトーラーが献身的に研究され、ユダヤ人の信仰にとっての不変の原則が解明されたのでした。

 

ヤーレ・ヴェヤヴォ

ムサーフ(犠牲の祈り)をする日は、ホル・ハモードとロシュ・ホデシュだが、神殿の復活を求める中でヤーレ・ヴェヤヴォの祈りを唱える。

この祈りの要点は、私たちの祈りが高く上り、主に聞こえ、また主によって応えられなければならないということです。

誰かを思い出すとき、次のような段階を通ります。

すなわち、記憶が浮かび上がり、手元に来て、届き、姿を見て、気に入り、その作用を受けて、思い出すのです。

こうして、お願いの手紙を書いた人のことを思い出すことになります。

願いに応えるためには、手紙が投函され、集められ、整理され、届けられ、それに気づき、受け取り、開封し、読まなくてはなりません。

祈りを、届けられるべき手紙、または時に間違ったところに届けられる手紙に例えることは、ユダヤ文学では古くからあるやり方です。

例えば、頼みごとが通らなくてはならない「祈りの門」という、よく知られたモチーフがあります。

この考えを詳しく説明するためには、なぜ主が私たちの祈りに応えてくださるのか、ということを自問しなくてはなりません。

一つの考え方は、門とは主が私たちに与えられた課題であるというものです。

つまり、私たち自身の意志と主の意志を並べることで、私たちの中にある信心の卑小さを自覚するのです。

ミシュナーではこう言っています。

主の意志をあなたの意志とすれば、主はあなたの意志を主の意志のごとく働かせてくださる。

この課題を克服できている限り、主は私たちの望みを叶えてくださいます。

実際には、主の計画は従者に託され、私たちが主の壮大な計画の中でわずかな役割を果たすために必要な手段を、主が一人一人に与えられるのです。

しかし、私たちの祈りは、様々な理由から、意志を並べて表現することに失敗することがあります。

もしかしたら最初の段階で祈りが意図を欠いており、真に望んでいることを表現できていないかもしれません。

そうしたいい加減な祈りは主の所まで上って行きません。

望みが「翼」を欠いているのです。

祈りの言葉自体が私たちの意志と一つになっていないので、当然、祈りの言葉を主の意志と一つにする原動力はありません。

このような事態が起こるのは、祈りが真摯でないときや、そもそもその人の望みが弱いときです。

祈りが心からの望みを表していても、主の意志と関係が無いかもしれません。

そうした祈りは、主の元に近しく届くことはありません。

主の手元には来ないのです。

たとえ微かな意志の連なりがあったとしても、主の意志まで突き進むには不十分です。

主には届かないということになります。

十分な意図を持っていたとしても、主の意志を実行するための具体的な方法を完全に誤っているかもしれません。

心からの望みは主の意志と繋がっているのに、特定の願いが全く不適切なのです。

こうした祈りは相応しくなく、つまりは見られなくなります(ヘブライ語においては「ふさわしくない」と「見えない」は同じです)。

ほとんど全ての戦いにおいて、両方に、自分たちこそが神聖なる価値を体現しているのだと信じ、熱烈に勝利を願う敬虔な兵士たちがいますが、これらの全ての祈りが主の前に相応しいわけではないと見なすのが公平です。

もっともらしく見えた他の願いも、突き詰めてみると非生産的かもしれません。

これでは天において気に入られません。

たとえこの祈りが本当に価値を持つ何かのためであるとしても、その個人は主の意志を前に運ぶ乗り物には値しないでしょう。

預言者イザヤは、もしその人が邪ならば主はその祈りを聞かないことを教えています。

最後に、それでも主の前において真摯で高潔な人の祈りが作用せず、思い出されないことには深く隠された理由があるのでしょう。

ヤーレ・ヴェヤヴォの祈りにおいて、贖罪の主要な要素(全ての世代のユダヤ人、ダビデのようなメシア、聖なる都市エルサレム)を思い出すことと達成することが、主の意志に完全に沿っていることを祈るのであり、ユダヤの人々はこれらを具体化するのに相応しからんことを祈るのです。

 

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

タルムードと神道(34):テフィラー

3 件のコメント

  • zipang044kwsk@au.com より:

    正直ものが報われない、
    高潔な人が恵まれていない状況が
    なぜ起こるかの理由が
    なんとなく分かったかもしれません。

    それは、そのようなものが
    報われていない世界が目の前に存在する
    していること自体を哀れみなさいと
    示しているのかと思いました。

    ありがとうございます

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    すべての事象を神の意志と捉えたほうが自然なのかも知れません。神に寄り添った意識でどれだけ生きられるかが重要だということでしょうか。願いに対して「ふさわしくない」と「見えない」は同じ事なのでしょうね。

  • 伊藤 より:

    ユダヤ人は、様々な迫害やミソギを受けることが、鍛えでもあり救済へのミチでもあることを知っていたのですね。
    大いなるマイナスは、後の世の大いなるプラスに転ずるという事も。

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