正しく唱えられなかった祝祷は、その時に食べている食べ物を対象に含む祝祷であった場合、その食べ物については免除されます。
そうでない場合は、正しく唱えられなかった祝祷は無効となるため、正しい祝祷を唱え直す必要があります。
「パンをちぎること」と「食事の前の祝祷」で、祝祷と食べ物を可能な限り近しく一致させることの重要性と、空虚な祈りがどれだけ非難されるものかを説明しました。
ユダヤ法全般と一部の祝祷のおかげで、人々は神の導きとこの世における経験を結びつけることができるようになります。
正しく祝祷を唱えることは可能な限り親密な結びつきを作る一方で、逆に空虚な祝祷は、主なる神と私たちの世界に断絶を生じさせてしまうようです。

失敗と不正確さ
正しい祝祷を唱えることに気を配ることは、ユダヤ人が聖なる生活を送る上での最も重要なバロメーターの一つであると見なされます。
タルムードでは、「祝祷を唱えることで学識ある人なのか無知な人なのかが分かる」としています。
もちろんトーラーについての知識はどのようなミツバの実践にも表れますが、それでもなお祝祷のこの部分は、とりわけ重要なものであるとして賢人たちが取り上げているのです。
敬虔であろうと望む人は、特に祝祷について慎重でなければならないということを、トーラーの他の箇所からも学ぶことができます 。
すでに、祝祷なしでこの世を楽しむ人は、信仰に背く罪を犯しているというタルムードの記載を引用しましたが、これには正しくない祝祷を唱える人も含まれます。
タルムードでは、これに対する唯一の解決策は、トーラー学者を見つけ、複雑な祝祷の法について学ぶことだと続けています。
この重要性に対する説明の一つとして、祝祷のおかげで人々の生活と聖なるものとの結びつきが直接的かつ明確に、作られるからということが言えます。
ユダヤにおける神秘的な伝承によれば、人々が戒律を実行することでこの世界の聖性と精神性が増すということです。
信仰心のある人はしばしば、自分の意図を明確にし、目的を声に出して表すことによってミツバの実践に方向を持たせようとします。
通称アリとして知られるラビ・イツハク・ルリアは、これらのカバノート、つまりは意図と目的についての本を一冊著しています。
細かな意図を持つことと、自身の行為が聖なる世界にどのように関わるかを明確に申告することは、ユダヤ教の中でも難解な部分に属すものです。
しかし、これらと同様の考えが、祝祷についての法の基礎になっています。
全てのユダヤ人は食事の前に、自分の食事が聖なるものと結びついている在り方そのものを述べ、この結びつきを表すように主なる神の名を言うことが求められます。
神の豊かさを正しく認識することがあまりに重要なので、多くのユダヤ人は正しい祝祷に自信が無い場合には食べようとしません。
たとえば、パイナップルを食べたい時に、これが「地の実り」なのか「木の実り」なのか自信が無いとします。
キツール・シュルハーン・アルーフによると、これを食べた上で「地の実り」を唱えるべきだと示されています。
しかし、多くの人々はそのような疑問に直面した場合、パイナップルを食べることを避けるでしょう。
彼らは、知らないからといって正しくない祝祷を唱える理由にはならないと考えているのです。
知らないからではなく、知っているからこそ疑問が生じることもあります。
たとえば、見識ある人であれば、チョコレートバーについて「木の実り」を唱えるべきだという考えに、賛同している権威がいることを知っています。
だからと言って、チョコレートを避けるべきだということにはなりません。
しかしよく学んだ後でも何の祝祷が必要なのかどうか自信が無いならば、食べない方が無難ですし、あるいは他の食べ物について祝祷を捧げることで、その疑わしい食べ物についての祝祷の義務を免れる方が良いでしょう(たとえば、果物とシュガーキャンディについての祝祷をチョコレートバーより優先させます)。
空虚な祝祷はバルーフ・シェム・ケヴォ・マルフート・レオラム・ヴァエッド(彼の栄えある王国の名は永遠に祝福されよ)と唱えることで認めなくてはならない。
このルールについては「祝祷の掟」で説明しました。
本日の課題
1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。
これまでの「タルムードと神道」の学び
タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)
タルムードと神道(41):ケドゥーシャ・ディシドラとアレイヌ
想いと明確さが無い祝祷は意味がないという事ですね。
東洋思想の木火土金水に当てはめて考えるとカテゴリー分けが出来そうですが、全て順番があり、干渉しているので頭がちょっと困がらがりそうです。