ユダヤの排泄行為の解釈から見られる「聖なるもの」と「聖なるものでないもの」との区別は日本の八百万の神信仰とは対極にあるようです。
「排泄物は、聖なるものにすることができないものがある。」(第4章-排泄行為)・・・というネガティブなシンボルとして扱われています。
日本の江戸時代において、長屋に住むことは無料でした。

しかし、無料で住む条件として、「糞尿を下さい」という取り決めがありました。
なぜなら、当時は糞尿は肥料となり、高値で売れたからです。

江戸時代の便所


肥担桶(こえたんご)

肥担桶を担ぐ人
このように、屎尿は畑の大事な肥料になっていたため、屎尿を一時的に溜めておくための「肥溜め」が畑の近くには必ずありました。(今でも田舎に行けばあります)

肥溜め(こえだめ)

屋根の付いた肥溜め
人の排泄物である屎尿が堆肥となり、美味しくてミネラル豊富な野菜となり、それらまた身体に戻る…というように、日本は非常にリサイクルな国家を作っていました。
それだけ排泄物が大事にされていたため、時には大家と店子が排泄物の所有権を巡って争うこともあったそうです。
このように、日本では排泄物に価値をおいていましたので、排泄物は決して聖になれない穢れたものという価値観ではありません。
江戸時代は究極のリサイクル国家で、肥取り(=肥汲みとも呼ぶ:排泄物を汲み取る人)、灰買い(木などを焼いて残った灰を買い取る人たち:灰は畑の肥料になったため)、取替兵衛(とっかえべえ:鍋・釜・キセル・折れ釘などの古金属を飴と交換する業者)などが存在し、何にでもお金になりました。

肥取り

肥取りと屎尿の所有権を巡って争う人たち

昭和時代の肥取り
また、割れら陶器などを焼き接ぎで修理した焼接屋(やきつぎや)や、樽(たる)や桶(おけ)の外側には箍(たが)で固定されていますが、この箍を締め直す箍屋(たがや)など、あらゆるものの修理業者が存在し、ゴミも全て循環していました。

焼接屋

箍屋
このように、日本は江戸時代までは主に植物を素材としたリサイクル国家でしたが、近年においてゴミ問題は深刻になりました。

また、韓国ではゴミを海外に輸出できなくなり、120万トンものゴミが不法投棄されています。そしてそこからガスが出て、火の手が上がるなどの問題を引きおこしています。
フィリピンのドゥテルテ大統領も、カナダから輸出されたた貨物コンテナ約100個(2400トン)のゴミに対して激怒し、「フィリピンはカナダのゴミ捨て場ではない」と、全て突き返すなどの事態が発生しています。
今、世界中のエリートたちが集まっている「グリーンスクール」は、全てがバンブー(竹)で作られた学校で、そこでは子供に農育やサステイナブル(持続可能)な地球を作るリーダーを育てる…というエコロジーな授業が導入されていて、首脳クラスの子どもたちが通っています。

インドネシアのバリ島にあるグリーンスクール
ユダヤでは、羊も神殿の生贄になったり、トーラーの巻物に使われる羊皮紙として神聖なものに高められます。
しかし、この考え方は非常に危険と言わざるを得ません。
聖なるものと世俗的なもので区分けをすると、羊を殺すのは聖なる行為となり正当化されます。
これは、聖戦と称して異教徒と戦う格好の大義名分になります。
聖なるものでない異教徒(世俗的なもの)を殺すことが、神の意志に沿うので神聖なる活動であり、教義によって聖なるものへと変えることも神聖な行為である…といった論理が成り立ち、虐殺は聖なるものに昇華できてしまいます。
この考え方が西洋における植民地主義や差別主義などの根底にあると考えられます。
私たちが一般的な動物や野菜・果物は、私たちが神の御心に沿う活動を行うことで聖なるものへと昇華します。
(第4章-排泄行為)
実際に、ナチスドイツのヒトラーが行ったホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の語源は、ギリシャ語で「全部・焼く」です。
これは、古代ユダヤ教の祭祀で獣を丸焼きにして、神前に供える犠牲「丸焼きの供物」を示し、ユダヤ教の宗教用語にあたる「燔祭(はんさい)」を意味します。
すなわち、ホロコーストとは、ヒトラーから見れば、聖でないユダヤ人(羊)を焼くことで、浄化する神聖な行為…となるのです。

ヒトラー

アウシュビッツ
日本においては、自然も生き物も人間も、全てが分御霊であり、そこに神が宿っていると考えるので、聖である、聖でないを区別しません。
むしろ本来は全てが神(聖)であるくらいの大変お人好しの捉え方をします。
日本でどんなにキリスト教を布教させようとしても、人口の1%くらいしか広まらない(世界の30%はクリスチャン)のは、聖と聖でない物の区別(クリスチャンと非クリスチャンの区別)に違和感を感じるからだと思います。
日本の『古事記』は、もともとバラバラだった世界中の神話や信仰を一まとめにしたものです。
全ての宗教を一つにまとめてしまったので、日本では宗教戦争が起こらないのです。
本来はそれだけでも凄い資産を持っていることになるのですが、今の日本人は全くと言って良いほど分かっていませんので、これに気づいた人が、日本人として広めて行く必要があると思っています。
持続可能な世界を創る
日本の八百万の神信仰は、持続可能な世界を創るためのマインドとして、大変に強いものがあると捉えることができます。
UberEat(ウーバーイーツ:アプリを使って飲食店に出前を注文できるサービス)を使うと、海外ではだいたい黒人が商品を配達にくるそうですが、その際に、ぶっきらぼうに「Hi」と言い、品物を渡したら「thank you」と言って帰って行くことが多いそうです。
ところが、日本でUberEatを使うと、黒人系の人が配達にきても「こんにちわ」と言った後にニコリと笑って、最後に「ありがとうございました」とお辞儀をして帰るそうです。
同じ黒人でも礼儀正しさが全く違うそうです。

先述したように、江戸時代においての日本は、できるだけ植物を使って再利用するというリサイクル国家でした。
また、日本人は神樹や御神木など、神様を植物の中に見出して、自然と調和することを好む民族でした。
国学者だった本居宣長は、その日本人の心を和歌でこのように詠んでいます。
しき嶋の 大和心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花
しきしまの やまとごころを ひととはば あさひににほふ やまざくらばな
これを現代語訳すれば、「大和心とはどのようなものかと人が尋ねたならば、朝日に美しく照り映えている山桜の花のようなものだと、私は答えよう」といった感じになるそうです。

本居宣長
基本的に、万葉集の歌は全て自然について詠まれています。
また、
- 森山直太朗「さくら」「夏の終わり」
- 一青窈「ハナミズキ」
- 宮沢和史「島唄」
- 松任谷由美「春よこい」
- 美空ひばり「川の流れのように」
などは、大和心をよく表した伝統的、日本的な歌とされます。
森山直太朗の「さくら」はYouTubeのコメントで、「敢えて高いキーで裏声と地声を行き来して歌っているのは桜がひらひらと舞い散る時の表と裏を表してるって解釈を聞いた時鳥肌が止まらなかった」とあり、島唄は、第二次世界大戦において米国に大量殺戮された沖縄の心が裏テーマであるとされます。
また、「本日はお日柄もよく」などの時候の挨拶も、この大和民族の心を引き継いでいる言葉だと言えます。
本来、大和民族は自然との調和の民ですので、もともとはリサイクル率が最も高い国でした。(今となっては年間のゴミの量が世界一になっていますが)
しかし、その名残は今でもありますので、私たちは自分のルーツを確認することで、持続可能な社会を創ることを積極的に世界に提案することができる資質を持ち合わせていると信じています。
是非、皆さんも資源ゴミなどの区分けを細かく行い、リサイクルに協力するといった取組みをして行くところから始めていただければと思います。
また、大和心を理解するためには、伊勢神宮などの大きな神社へ参拝を行うのが良いかも知れません。
創造神は定期的に世界をお裁きになり、恵みをお与えになります。
日常的な身体習慣である老廃物の排泄すら自然と起こるものではないのです。
ユダヤでは、排泄行為ですらも神の力によるものであり、排泄後は「Hagomel」と唱え、癒しを与えてくれた神に感謝をするという謙虚さがあります。
このように、私たちは「生かされている」という認識を持ち、神様とともにあるという感覚を持つのが習慣としてあるのはとても良いなぁと感じた次第です。
悔い改めるというのは、ただ単に罪からの贖罪(しょくざい:犠牲や代償を捧げて罪をあがなうこと)のプロセスではなく、むしろそれは魂の浄化のプロセスであると強調します。
私たちは生きているうちに、過ちを知らず知らずに犯してしまいます。
神道においては、清く正しくないことも穢れであり、忌むべきものであると考えます。
ではその際に、祝詞を唱えれば浄化されるのか?ということを考えると、過ちを犯したことで誰か傷つけたことを直視し、しっかりと反省をすること。
そして、2度とその過ちを犯さないと誓い、清く正しく生きることが魂の浄化のプロセスなのではないかと考えられます。
排便による身体の浄化のように、己の儲けへの執着が便(べん)であり、それを精神的な浄化(排便)なのではないかと思われます。
人は成功すればするほど色んなものが溜まっていきますので、お金を稼げば稼ぐほど浄化(排便)をしていかなければ病気になってしまう可能性があります。
そうした意味においては、寄付や寄進を習慣として行うことで、お金に対する執着を取り払うことができ、これは精神的な浄化になるとも言えます。
日本の國體(国体)は、本来なら皇室を尊び、八百万の神を敬うことです。
國體とは、その国がなぜその国であるか?を示すものです。
社会学的には、戦争で負けたら国が滅びるのではなく、國體が消滅した時に本当の意味でその国は滅びます。
また、氏神様へ寄進を行う人が減ったことで神官も減り、日本の神社を維持できなくなりつつあります。
本来、神社は国家の保護を受けていましたが、敗戦後は国民からの寄付等でしか運営できなくなりました。
賽銭箱へ投入されるお金はごくわずかで、お賽銭の平均額は150円程度だと言われていて、神社の維持が難しくなっています。
「ご縁」があるように「5円玉」が良いなどと言われていますが、それは昔の話であり、夏目漱石の坊ちゃんの初任給から類推すると当時の1円は今の5000円前後です。
つまり、当時の5円は現在の25000円程度になるのです。
このような状況ですので、今の日本は國體が消滅しつつあり、このままでは本当に滅びてしまいます。
大和心を思い出し、日本の國體維持に貢献し、これを次世代に遺していくことが大切なのです。
本日の課題
1:伝統的な自然を歌う曲を1曲でも良いので大和心を感じながらご鑑賞ください。
さくら:
夏の終わり:
ハナミズキ:
島唄:
春よこい:
川の流れのように:
2:今回の学びやご感想、心に浮かんだことをシェアしてください。
3:可能であれば、あなたの氏神様の神社に寄付を行ってみてください。(一万札や千円札が賽銭箱に入れにくい場合は、社務所などで直接寄進すると良いでしょう)
今の時代、物が豊富で安価で手に入るのは便利ですが、その分、物を大切にしなくなったような気がします。日本中で一日に廃棄される食品の量も相当な数字のようです。このまま使い捨てのような文化で社会が進むと神からますます遠ざかってゆく気がします。
日本は自然と共生してきた美しい国です。物を大切にすることとリサイクルを心がけます。
夏の終わり
しみじみと聴かせていただきました。良い曲です。
日本のリサイクル精神と全ての物に神が宿る
精神は、非常に深い繋がりを感じます。
全ての物に神が宿る心が根底にあるから
リサイクルの精神が自然と身に付いていた
のだと思います。
今、日本は物が豊かになり、
物を大切にする人が減っていると思います。
(自分もその一人だと思います)
僕も少しずつ神道の素晴らしい
日本の教えを取り入れていきます。
ありがとうございます。
日本人は自然に調和した生き方をしていました。
戦後、石油製品が作られて、その物質は自然に還らないものばかりで、逆に環境破壊の原因になったと思います。大量生産大量消費の時代は終わりました。全ての生き物が共存共栄出来る世の中になる様活動していきます。
私の幼少の頃も、田舎でしたので排泄物はバキュームカーが回収に来てました。
江戸時代のような循環型社会へ大きく方向転換していく時代がやってくるということですね。
ただ、これからの未来はバイオテクノロジー・高度な科学技術による進化したリサイクル社会が
現出するのでしょうが、その根本にある推進力は、やはり
日本人に根付いている、ありがたい、勿体ない精神なのでしょう。