タルムードと神道(39):週日のトーラー朗読

トーラーは安息日、月曜日、木曜日の朝の祈りの儀式で朗読されます。

トーラーはユダヤ人の旅の始まりにおいて、水を得られずに3日間耐え難い日々を過ごしたという過酷な環境を語ります。

トーラーは水に例えられるので、ユダヤ人はトーラー無しでは3日耐えられないということになり、公式なトーラーの朗読は週に3回なのです。

27章において、実際にはほんの数時間でさえトーラー無しでは耐えられないということと、そして全てのユダヤ人男性は毎晩トーラーを研究する義務があることを学びます。

一方で、この学びにトーラーの巻物は必要ありません。

トーラーの巻物が読み上げられることに、どのような特別な意味があるのでしょうか。

トーラーの巻物はただの本ではなく、モーセ五書の言葉が書かれた記録です。

これはフマーシュ(モーセ五書あるいは印刷された聖書)に値するものなのです。

適切なトーラーの巻物は、トーラーそのものが具現化したものだと考えられます。

ユダヤ人が砂漠において体験した主の言葉の啓示は一回限りの出来事ではなく、今も続いている体験なのです。

トーラーを学んでいる時にだけ、主の意志を学ぶのでは不十分です。

主の言葉を聞くこともまた必要なのです。

会衆によるトーラーの巻物の朗読は、シナイの砂漠で主の言葉をモーセから聞いたユダヤ人の経験の続きです。

この継続的な体験を作り出しているトーラーの巻物を書くという法は、トーラーの巻物がモーセに与えられたオリジナルの単なるコピーではなく、後継者であることを確かにしています。

このことが分かれば、トーラーの朗読を求める法を理解する基礎が得られます。

後ほど説明しますが、多くの法はシナイ山での経験を直接的な根拠としているということです。

次に、このトーラーの巻物とトーラー自体の関係から、トーラー学習のための普通の本の扱い方と、主の使者として敬意を払わなければならないトーラーの巻物の扱い方の違いが説明できます。

通常、トーラーの手引書は私たちに仕える側にありますが、トーラーの巻物の場合、従属的な態度を取るのは私たちの方です。

これが、会衆のところにトーラーの巻物を持っていくのではなく、トーラーの巻物のところに会衆が行かなければならない理由です。

 

演壇への通り道

トーラーの巻物と演壇には最短距離を通って近づき(できれば右側を通るのが望ましい)、遠回りして帰る。

こうすることで、トーラーの巻物に近づきたいという意欲と、そこから離れたくないという気持ちを表します。

 

タリート

トーラーを読むように指名された人は、タリートを着ることになっています。

一つには、会衆の前に立つに当たって威厳のある伝統的な装いをするべきだという問題意識があります。

もう少し深く考えると、これはツィツィートのミツバが全ての戒律を思い出させるという事実と整合しますから、全てのミツバに先んじて守らなければなりません。

さらにこの象徴的な意味を発展させるには、ツィツィートと精神の拡大作用の関係を思い出すと良いでしょう。

誰でもトーラーのところに上る前は、ごく普通の一個人でしかありませんが、会衆の前でトーラーを読めば、信仰を広め伝える精神の乗り物となるのです。

ちょうど主の言葉を民に伝えた時のモーセの輝いた顔のようなものです。

 

トーラーの朗読への祝祷

トーラーを読むように指名された人は、読む前にトーラーの研究への祝祷を捧げ、その後、称賛の祝祷を捧げます。

トーラーへの祝祷は毎朝唱えます。

この祝祷は多くの賢人が聖書に由来すると考えているものであり、これを捧げずにトーラーを学ぶ人はいないでしょう。

そうであってもなお、この祝祷は皆の前でトーラーを朗読する前に再び唱えるのです。

この習慣は、トーラーを朗読することとトーラーを学ぶことの質的な違いを強調しています。

もし既にトーラーを学ぶことについての祝祷を唱えていたとしても、トーラーを受け取るときには追加の祝祷を唱える必要があります。

 

シナイ山での体験を再現すること

トーラーを読む人と、トーラーを読むように呼ばれた人は立つ必要があります。

トーラーを研究するときに立たなければならないということはありませんが、トーラーを読むときには、それが与えられたときの雰囲気を再現したいものです。

そのため、トーラーを読む人は必ず随伴者を伴います。

トーラーを読むように指名された人か、誰か別の人です。

トーラーが仲介者(モーセ)を介して与えられたのと同じように、私たちも仲介者を用意しなくてはなりません。

同じ理由から、トーラーが読まれる間、会衆は完全に沈黙しなければなりません。

エルサレム・タルムードでは、モーセが主と面と向かって話し、その後ユダヤの人々に対して、主の言葉を普通の人間の言葉に訳して伝えたように、それぞれの節をアラム語に訳すという古い習慣を紹介しています。

同じような考え方は現在、一人が読み、一人が祈るという習慣にも適用されています。

これは、この経験の意義があまりに深いので、一人の人間では表現しきれないということを表しているのです。

 

祭司を優先することと「平安なる道」

トーラーに「彼を聖としなければならない」とあるように、祭司を敬い聖別するための特別なミツバがあります。

ミシュナーでは、祭司を第一のアリヤー(イスラエルの地への帰還者)とするもう一つの理由を与えています。

それは「平安なる道」ゆえです。

第一の帰還者の位置は祭司に与えられるべきなので、特別の敬意を払うことについては議論の余地は少ないでしょう。

タルムードではこの2つの理由を調和させています。

祭司を敬うとき、通常、祭司はこれを辞退するでしょう。

その場合、祭司が最優先されるべきという権利を手放させてはいけません。

そのようなことをすると、私たちが避けようとしているある種の諍いが起こるだけです。

『その道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である』と、トーラーに書かれている通り、全てのトーラーは平安なる道に基づいているとタルムードは述べています。

「平安なる道」の概念はトーラーの最も重要な原則の一つであることは明らかです。

もう少し注意して検討してみましょう。

平安なる道の原則が適用される最もシンプルな例は、トーラーの法の補遺に見られます。

例えばミシュナーでは、たとえトーラーの法に従っていたとしても、未成年は法的に有効な資産を持つことはできず、私たちは秩序と平穏を導くために未成年の資産獲得を認識します。

同じように、トーラーの法によれば「置き忘れたひと束」は、ユダヤ人のためだけに手配されたものですが、恵まれない非ユダヤ人がそこから利益を得ることも、平安を作り出すために許容します。

ラビ・アーロン・リヒテンシュタインは、この考えは恨みとは全く違うと指摘しています。

非ユダヤ人の隣人たちの恨みを買わないように、賢人たちは様々な緩和措置を許容していました。

「平安なる道」という考えはただ単に、恨みを買わないようにするためではなく、さらに進んで、兄弟のような親近感と善意を導くためのものです。

これはトーラーにおける非常に重要な価値観であり、タルムードが「全てのトーラーは平安なる道に基づいている」と書いているほどです。

より微妙な応用としては、トーラーの法の解釈があります。

際立った例としては、ある節の解釈が競合した場合は「楽しい道」の原則によって決定されます。

もし一方の解釈が人の品位を傷つけるようなものであれば、その解釈は正しくないと見なされます。

例えば、タルムードではこの原則を使って、男性と、その彼を嫌っている女性を結婚させることはできないと示しています 。

この章での説明から、さらに別のレベルにおいてもこの原則を見つけることができます。

それは、私たちのトーラーの法に対する理解そのものです。

私たちはしばしば、自分の選択が幸福を呼ぶと思いがちです。

あらゆる選択肢が開かれているときは、個人も社会全体も、自らがより繁栄するための最良の機会があるということです。

この章からまた、逆の例を導くこともできます。

それはまさに、選択を妨げる時です。

祭司がその特権的な地位を固辞するのを許さないことで、私たちは破壊的な軋轢(あつれき)が起こるのを避けることができ、それが皆のためになります。

共同体にとって真実であることは、個人にとっても真実です。

ユダヤ教は確かに、自由意志と自由選択を重視しています。

実際、この最も人間らしい特性は、主なる神の現し身である私たちの最も基本的な側面です。

トーラーは私たちに選択肢があるということを強調しています。

主は、「わたしは命と死および祝福と呪いをあなたの前に置いた」と言われ、然るのちに、「あなたは命を選ばなければならない」と言われています。

共同体の自由を制限するルールが共同体の中の争いを軽減できるように、私たちの中の自由を制限するルールが私たちの中の葛藤を軽減できるのです。

これは、私たちが能力を手放すことになるということを意味するのではありません。

シナゴーグの管理人は、トーラーを読む人についてどんなに制限があったとしても、読む人を決めるのは最も難しい仕事の一つであり、葛藤に苦しむ部分だと言うでしょう。

同じように、法をよく守るユダヤ人なら、人生における大きな選択のほとんど(誰と結婚するか、何の仕事に就くか、どこに住むかなど)は、自分に多くの考えるべきことを与えてくれていると分かるでしょう。

ですが、自由になることから遠ざけるような多くの制限が確かに存在しており、あまり数多くあって疎外感を覚えることになります。

 

本日の課題

1:今回の学びで感じたことをシェアしてください。


これまでの「タルムードと神道」の学び

タルムードと神道(1):日ユ同祖論(1)

タルムードと神道(2):日ユ同祖論(2)

タルムードと神道(3):日ユ同祖論(3)

タルムードと神道(4):日ユ同祖論(4)

タルムードと神道(5):日ユ同祖論(5)

タルムードと神道(6):日ユ同祖論(6)

タルムードと神道(7):祈りについて

タルムードと神道(8):朝の目覚め

タルムードと神道(9):朝の目覚め(日本編)

タルムードと神道(10):手を洗い清める

タルムードと神道(11):手を洗い清める(禊)日本人編

タルムードと神道(12):礼儀正しい装い

タルムードと神道(13):礼儀正しさ(日本編)

タルムードと神道(14):排泄行為

タルムードと神道(15):排泄行為(日本編)

タルムードと神道(16):祈りの清浄な場所

タルムードと神道(17):祈りの清浄な場所〈日本編)

タルムードと神道(18):祝祷の掟

タルムードと神道(19):祝祷の掟(日本編)

タルムードと神道(20):朝の祝祷

タルムードと神道(21):朝の祝祷(日本編)

タルムードと神道(22):朝の祈り前の制限事項

タルムードと神道(23):夙起夜寐(シュクキヤビ)

タルムードと神道(24):ツィツィート

タルムードと神道(25):テフィリン(前半)

タルムードと神道(26):テフィリン(後半)

タルムードと神道(27):メズザ

タルムードと神道(28):祈りの準備

タルムードと神道(29):ベイト・クネセトの聖性

タルムードと神道(30):ペスーケイ・デズィムラ(祈りの儀式を始める詩編)

タルムードと神道(31):ミニヤンと先唱者

タルムードと神道(32):シェマーとその祈りを中断すること

タルムードと神道(33):シェマーの詠唱(えいしょう)

タルムードと神道(34):テフィラー

タルムードと神道(35):アミダーの祈りへの追加

タルムードと神道(36):先唱者によるアミダーの復唱

タルムードと神道(37):埋め合わせの祈り

タルムードと神道(38):タファナン(懺悔の祈り)

3 件のコメント

  • zipang044kwsk@au.com より:

    人は、定期的に振り返らないと忘れてしまう。
     
    それは脳の機能が優秀すぎるからだと思いました。
     
    脳は様々な刺激を感じ取り、大切なことを
    つい忘れてしまうのだと思います。
     
    だから、トーラーを3日おきに読むのだと
    教えられているのだと思いました。
     
    人に最初から自由を与えてしまうと、
    規律というプログラムが組み込まれなくなる。
     
    それは、獣と変わらなくなってしまいかねない。
     
    最初は自由の制限から始まり、
    その後自由を拡大させていく。
     
    そう教えているのかなと感じました。
     
    貴重な教えをいただき
    ありがとうございます。
     

  • kyorintomo@yahoo.co.jp より:

    平和に暮らすには秩序が必要で、秩序の構成に於いて中心になるものが神話(宗教)だと思います。もし人の本質が邪悪であるならば秩序は成立し得ないと思います。ただ人は愛を持っているけど愚かなだけなのではないでしょうか。故に学びが必要だと感じました。

  • 伊藤 より:

    「共同体や個人の自由を制限するルールの存在が、争いや葛藤を軽減する」というのは
    感覚的に理解できます。
    全体の中で自分も生かされている、だから全体(境遇)に従順であれ、という事でしょうか。
    この学びは、とても興味深いです。
    自由意志と自由選択も、全体を意識した貢献(奉仕)に結びつくものという事でしょう。

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